世に倦む日日


内橋克人と金子勝の元日ラジオ対談 − 経済学者は予算案を出せ

新年が始まった。今年はNHKが坂本龍馬の大河ドラマを放送 するということで、年末年始のテレビはその宣伝と話題で一色になっている。羽田空港のロビーにもNHKの大きな垂 れ幕が掲げられ、JALの機内では「龍馬の長崎」を観光キャンペーンするプロモーションビデオが流されていた。電車に乗ると、三菱地所が丸ビルで 開催する「龍馬と土佐の志士たち」の展示イベントの吊り広告が目に入った。福袋の買い物客を丸の内の商店街に呼び込む商業企画だ。家に帰ってテレビを見れば、ソフトバンクが龍馬を題材にしたCMを流している。どこを見ても歩いて も龍馬ばかり。時代を新しく切り開くヒーローの出現を願う国民の気分が充満し、ドラマへの期待と関心を高め、NHKの商売に小躍りする新春となっている。 誰もが龍馬のような男に登場して欲しいのだ。全国の「龍馬ゆかりの地」が競うように観光企画を発表して、テレビやネットで情報を流している。丸の内も「龍 馬ゆかりの地」の一つだった。1/4から1/8まで高知物産展を丸ビルで開催すると記事にある。弥太郎は安芸の生まれ。検索エンジンを回したら、12月に三菱グループ20社の幹部が市を訪問し た話が安芸市長のページに書かれていた。「龍馬伝」を地域の観光や物産の事業に活用しようと必死で動いている裏側の事情がよく わかる。地元の元旦の新聞には広末涼子が大きく特集されていた。美しい。今が旬の女優。「たそがれ清兵衛」の頃の絶頂期の宮沢りえを彷彿とさせる。

元旦の夜、NHKのラジオで、内橋克人と金子勝が対談する番 組「日本のカルテ-希望の国への 処方箋」が放送されていた。同じ時間、NHKのテレビでは金子勝と菅直人が出演して討論会の番組をやっていた。どちらが生放送だったのだろう。家 の中でラジオを聴く機会はほとんどないが、この二人の対談となると聞き逃せない。できれば、三宅民夫が司会して川本裕子に新自由主義のプロパガンダをさせ るような陳腐な企画ではなく、内橋克人と金子勝の対談の方をテレビで放送して欲しかった。このラジオ番組は、単なるプレーンな対談番組ではなく、NHKが 本格的に取材して制作した雇用問題の大型特集であり、二人に加えて神野直彦のコメントも多く挿入されていた。音声だけでなく映像の収録もされている気配が あり、ひょっとしたらETV特集での放送が準備されているかもしれない。企画と構成には内橋克人の提案が基調として反映されている印象を受けた。内橋克人 の主張や意向が入ると、番組のメッセージは際立ったものになる。率直な感想として、内橋克人と金子勝ではメッセージの迫力が全く違うと言わざるを得ない。 エッジの利き方が違う。内橋克人の方が理念的であり、金子勝と比べて新自由主義に対する対抗性が強い。新自由主義に対する敵対意識が先鋭で純度が高い。思 い返せば、それはずっとそうだった。90年代の当時から、内橋克人が日本における反新自由主義の思想的シンボルだった。内橋克人だけがテレビで抵抗を唱え ていた。

当時の金子勝は「批判経済学」の看板を掲げつつ、新自由主義 の経済政策を推進しようとしていた民主党に言わば顧問格として自己を売り込む素振りを示し、70年代までの日本の経済社会構造を破壊しようとする「改革」 に対して、むしろ積極的な立場で論陣を構えていた。竹中平蔵ら慶応経済フリーメーソン(島田晴雄・加藤ェ)が主導する「構造改革」に対して、それを正面か ら批判する立場には立っていなかった。90年代後半にその立場(反新自由主義)に立つことは、マスコミやアカデミーや世論のメインストリームと逆の異端の 時代錯誤の陣営に回ることであり、内橋克人は民放の番組の討論の中で、常に「守旧派の敗者」の立場に立たされて罵倒される役回りを演じさせられていた。最 近は、あの勝間和代でさえ、世の中の風向きを見て機敏に立ち位置を左寄りにずらし、3年前には持論だったはずの竹中平蔵の口真似をやめている。そうするこ とによって売れっ子の地位を維持している。派遣村の後、新自由主義のプロパガンダを正論として堂々と放談するマスコミ論者は少なくなった。少しずつ少しず つ、竹中平蔵は悪のシンボルになりつつある。そういう時代の空気になれば、誰でも反新自由主義の議論を自説として唱えられる。だが、10年前はそうではな かった。やはり、内橋克人が最高で、内橋克人を超える存在はない。そう思わされる。78歳の高齢だが、日本が進むべき針路を最も正確に指し示しているのは 内橋克人で、内橋克人の構想が最も力強く説得的だ。

「内橋克人と金子勝の異なる点は、内橋克人が明快に北欧モ デルの理念を確信している点である。それを新自由主義とは正反対の原理で組み立てられた経済社会として対置し、その成功を浮き上がらせ、北欧諸国が一人当 たりGDPで世界最高の位置に昇り、新自由主義の優等生だった日本の一人当たりGDPの国別順位が急落した事実を強調する。この点は、本来、経済を論議す る上で基本となる問題点のはずだが、内橋克人のように強調する論者はマスコミには出ない。内橋克人は理念から議論を説き起こす。理念と現実の緊張の観点か ら立論が始まる。北欧諸国の成功を理念型として示し、新自由主義で失敗した日本の現実との対照を示し、それを再生する構想と政策を組み立てる。それに比べ ると、金子勝の議論は先ず現実の問題に目を向け、派遣村や地域経済や医療崩壊の惨状を言い、そこから対症療法的に対策の政策論に入って行く。派遣村や医療 崩壊が構造改革がもたらしたものだとする見方は同じで、新自由主義の失敗は言うけれど、それを原理的に裏返したモデルの存在については積極的な関心を示さ ない。両者で違いを感じるのは、現実に対する緊張感の強度であり、そして危機感の純度である。内橋克人の方が痛めつけられている弱者の側に内在している。 内橋克人の前では、金子勝も何か輪郭の曖昧な評論家のような軽い存在になってしまう。その感知は同時に、自分自身の日頃の議論に対する反省にも繋がってゆ く。内橋克人は羅針盤だ。あらためて偉大さを思わされる。

その内橋克人がラジオで語ってい たのは、今年は企業による正社員の首切りが本格的に始まり、600万人の社内失業者が路上に放り出されるだろうという地獄の予想だった。怖い話だが、今年 の経済や政治を論じる上では、一番最初にこの問題から考える必要があると私も思う。と言うより、9月以降の新政権の政策や年末の予算編成において、こうし た問題に対する抜本的な対策が講じられなかった点について、一般の論者の見方があまりに甘すぎる。なぜ誰も批判をしないのだろう。昨年誕生した新政権の最 大の失政は、就職氷河期第二世代の創出を防ぐ政策を打たなかったことだ。就職氷河期世代を生み出してしまったことが、現在の日本社会をどれほど蝕む病巣と なっているか、それは為政者だけでなく国民の誰もが知っている。そういう世代の塊は、これまでの日本社会には存在しなかった。就職氷河期世代を作ってし まったことは、小泉・竹中の構造改革の失敗の結果として総括できる。その病は日本経済を回復させることで治癒しなくてはならない課題だった。彼らへの救済 と保障を措置することが必要だった。だが、本来、構造改革否定の期待を集めて誕生したはずの民主党政権が、就職氷河期の第二世代を作り出してしまった失敗 について、民主党支持者たちはどのように考えているのだろうか。政府直接雇用で150万人を雇った場合の費用は年間6兆円である。3年間で18兆円。大し た金額ではない。大企業が海外に溜めこんでいる内部留保に課税すれば、財源は十分に充当できる。雇用問題を抜本的に解決できる。

「新政権はそういう政治に動かなかった。就職氷河期第二世代の出現は、日本社会の格差と貧困の問題をさらに大きくし、 デフレを加速させ、景気を悪化させる循環を強固にし、問題の解決を困難にさせる構造的な要因となる。想像するのは、高校に入学した頃までは大学進学のつも りで人生を考えていた子供たちのことである。その中の少なくない部分が、経済的理由で急に大学進学を諦めさせられ、高卒での就職を余儀なくされているに違 いない。ところが、その子たちが就職できるかと言うと、今年度の高校生の就職内定率は10月時点で60%を切っていて、昨年比で15ポイントも減少している。大学進学を諦めた子供た ちには就職する企業もないのだ。就職すらできないのである。そういう子供たちが大勢いる。この子たちを国はどうするのだろうか。塊として創出された以上、 時計の針を戻して存在が無いことにすることはできない。経済社会の所与になる。政府が職を与え、彼らに未来と希望を与えるべきではなかったのか。歴史に は、F.ルーズベルトのTVAの実績があることになっていて、それは成功体験として教科書で評価されていて、米国が大好きな日本国民にとっては模倣するこ とを躊躇する必要のない政策のはずだった。その政権が自民党政権であれ、民主党政権であれ、就職氷河期世代は絶対に再生産してはならない問題であり、発生 前に未然に緊急措置して防止するべき害悪だった。水際作戦を発動すべきだった。内閣で就職氷河期第二世代の問題が真剣に議論された形跡はない。この問題に ナーバスな政治的感性を持っているはずの厚労副大臣の細川律夫も、その権力と責任を持ちながら具体的な解決に動いてくれなかった。とても残念に思う。

金子勝に経済学者としてお願いしたいのは、時事の解説だけでなく、具体的に新年度予算をどう組むかという具体的な計画 である。政府の予算案を批判する金子勝の発言は正しいと私も思う。私自身も、今度の予算編成の最大の問題点は、官僚の無駄使いに切り込めなかった点であ り、各省の官僚が下から積み上げたプロパーの経費をそのまま認めてしまっていることだと考える。民主党は、選挙では官僚の無駄を削ると言い、マニフェスト では削減額を9兆円としていたが、結局、蓋を開けるとそれはできず、大臣は官僚の言いなりで省益を代弁する役割を演じていた。天下り公益法人を切らないと 財源は生み出せない。新政権はそこに手をつけなかった。それでは、金子勝なら一体どのような予算を具体的に組んだのか。評論ではなく、実際にプロとして設 計したものを提示して欲しい。歳出と歳入をどうするのか。税収見込をどう計算し、国債発行をどの線で考えるのか。歳出は具体的にどう配分するのか。そうし た計画と構想を提出し、それをネットに公開して広く国民の議論の叩き台にして欲しい。それは、金子勝だけではなく森永卓郎にも要求したい。インターネット というのは、本来、そのように活用されるべき道具ではないのか。年末から年始にかけて、エコノミストは独自の予算案を発表して国民の議論に供するべきで、 それを日本の論壇の年中行事にするべきなのだ。そういう習慣が日本にない。二大政党による政権交代を言い、「影の内閣」を唱えていた野党すら全く予算の準 備と訓練をしていなかった。だから、官僚の言いなりの予算を組み、政権を取ってから予算編成まで時間がなかったなどと泣き言の言い訳を言っているのであ る。

経済政策は予算で具体的な形となる。個々のエコノミストは自己の政策理論を予算案という現実形態で表現するべきなのだ。



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