ジョン・ダワー
『吉田茂とその時代』上・下
1981 TBSブリタニカ・1991 中公文庫
John W. Dower : Empire and Aftermath
Yoshida Shigeru and The Japanese Experoence 1979
大窪原二 訳
吉田茂については実に多様な本が出ている。
 ギョーカイで有名なのは高坂正堯の『宰相吉田茂』や猪木正道の『評伝吉田茂』だが、どちらも大所高所につきすぎていて、冴えがない。では何を採り上げてみようかとおもいながら、結局は二つに絞った。
 ひとつは吉田茂自身の『回想十年』で、文庫本で4冊になる。吉田が書いたというより周辺が動いて吉田を取り囲み、むりやり喋らせたものに吉田が手を入れ た。デキについては序文で吉田自身が不満だらけのものになったと書いているものの、なんといっても占領下の日本の首相を8年にわたって務めた本人のナマの 言葉がずうっと続いているのだから、やはりおもしろい。
 もうひとつが本書である。
 すでに『紋章の再発見』(淡交社)でおなじみの著者で、『回想十年』もふまえているし、アメリカ側から書いているのが日米のちょうど真ん中に立たざるを えなかったオールドリベラリスト吉田茂についての見方をダイナミックしているので、これを選んだ。著者の大学時代の卒論が『白鯨』だったというのも気にいった。政治史や政治家を書くには『白鯨』と格闘するくらいの執拗がなくてはいけない。
 で、『回想十年』では吉田の生涯も首相退陣後の様子も見渡せないので、ジョン・ダワーのほうにした。

 本書はノーマルな名著である。それとともに、日本人が一度だけでよいが、必ずや開いてみるべき本である。
 まず吉田茂の少年期から青春をへてイギリス時代までがニュースのように解説される。土佐藩の竹内綱の14人の子のうちの5男で、竹内が投獄されたため竹 内の親友の吉田健三の庇護のもとに育てられたこと、そのせいで実母の名も知らなかったこと、養母の吉田士子(ことこ)が佐藤一斎の孫で、彼女から愛国心と 伝統主義を植え付けられたこと、9歳で家督をついで早くに資産家になったこと、杉浦重剛の学校に通って尊王心を養ったこと、父親に対する反抗が伊藤博文系 の政治家たちにのちのちまで親近感をもつ契機になったことなどにも、その後の吉田の母体を見ている。
 明治42年(1909)、吉田は牧野伸顕の娘の雪子と結婚をする。牧野は大久保利通の息子である。吉田にとっては二人目の養父であった。この縁組で、吉 田は大久保と牧野がもつ政治的現実主義の正当な継承者になる資質を輸血された。実際にも、吉田が最初の"政治"を実感したのは、西園寺公望を大使とした ヴェルサイユ会議に牧野のお付きとして派遣されたときだった。

 天津総領事と奉天総領事の時期については、ダワーは森島守人の意見そのままに、とくに奉天時代に書いた満州経営論が時の田中義一内閣の幣原喜重郎外相にうけいれられていれば、あるいは満州事変はおこらなかったかもしれないという見方をとっている。
 これはいささか楽観で、東方会議をめぐる当時の吉田の提案や判断にそんな実力も魂胆もなかっただろうというのが、その後の評者の見方だ。ただ、このとき 吉田の周辺にいた反共主義者の鳩山一郎と殖田俊吉のその後の思想と行動をかんがえると、あるいは吉田には列強諸国に伍する方針がしっかり見えていたのかも しれないともおもわせる。
 昭和5年(1930)、吉田はイタリア大使になりムッソリーニ時代のローマを2年体験する。が、関心はアジアに向いていて、満州事変後の中国に照準をあてていた。なんとか満州国を鬼っ子にしないようにするための、人呼んで"中国通"としての方策を練っていたのである。
 この時期の吉田の言動は、今日の日本を考えるといろいろ示唆に富む。一言でいって、吉田は満州事変が「重大な誤算」の産物であることを諸外国の外交官にちゃんと告白する一方で、「それは説明と処理の誤謬であって、日本の立場は非難されるにはあたらない」と必ず付け加えたのである。いまアメリカが必ずやってみせている外交だ。
 その後、日本はしだいに戦争に突入していくのだが、その危機感を吉田は「4つの集団のバランスがどう崩れるか」という見方で見ている。これも鋭いものが ある。日本の軍部の動向、日本の外務省の言動、英米両国の方針、国連参加の小国の動き。吉田はこのうち日本を不運にするのは外務省の無気力な動きと小国の 発言に左右されることだと見ていたのである。田中真紀子にはわからないことだろう。
 このあと、吉田はアメリカ大使への道をみずから断って、30年にわたる外交官としての活動を閉ざしてしまう。そしてジョセフ・グルーの日本ロビーの隠れた論客になっていく。樺山愛輔・松平恒雄・杉村陽太郎・出淵勝次らとともに。

 二・二六事件のあと日本にいよいよ暗雲がたちこめるなか、吉田は日独接近に反対し、軍部派対穏健派の構図を描きつつ、たとえば林銑十郎内閣に穏健派の佐 藤尚武が外務大臣に入ったことなどをよろこぶ。吉田は「振り子理論」というものを信じていて、日本は極端に走ったあとに、また逆の方向に振り子のように動 くはずだと見ていたのである。
 しかし、現実の振り子はまだまだ一方の極に進んでばかりいた。日中戦争である。この時期、吉田にとって意外だったのはソ連の台頭で、このときの恐怖感はその後ずっと吉田につきまとったようだ。
 日中戦争については、吉田はイーデンとの間で秘密計画を策定しようとするが、失敗をする。このあたりの事情、ぼくはよく知らなかったのだが、ダワーはか なり詳細に証かしている。かくて吉田は外交の仲介者としては不正確であるという烙印を押されてしまう。日本が太平洋戦争に突入したとき、吉田はグルーにす ら確信をもたらせないでいる。
 ついで日米戦争下、吉田はいわゆる反戦グループをつくり、皇道派を統制派に対立させるという和平シナリオを動かそうとしていた。宇垣一成を担ぎ出そうと したりしたが、うまくいかなかった。すでに昭和17年には日本の敗戦を予感していた吉田は焦る。が、その焦りは終戦工作まで生かせなかった。もっとも、そ うした徹底した工作シナリオづくりに埋没する性格こそが、敗戦後の日本を自立させるに役だった。

 敗戦時、吉田茂は何歳だったのか。67歳である。
 当時も今も、かなりの老人だ。この老人が日本の政治の中核を演じつづけた。良くも悪くも、この67歳がその後の8年、いやその後の政界の数年にわたる日本を指導したことが、今日の日本のあらゆる基盤になっている。
 吉田が占領下の日本で覚悟したことは、1. 天皇と国体の存続をのぞけば、エリート官僚が考えることとほぼ同じことで、とくに新しいものはない。2. 国内の革命勢力の弾圧、3. 旧守派の伝統的手段の復活、4. 資本主義的繁栄、5. 日本の国際地位の向上、これである。けれども、その新しいものがとくにないことをひとつひとつ実現することが、最も困難だったのである。それに第一次吉田 内閣について、アメリカは当初はくそみそだったのだ。アメリカとの溝も埋めなければならなかった。
 では、何が吉田をして日本の自立に向かわせた原動力で、何がアメリカから見てよきアメリカの代理人に見えるようにさせた仕掛けだったのか。ジョン・ダワーの本書における後半の議論はこの解明にあてられる。

 一言でいえば、吉田は日本が悲劇的な戦争をおこしたのは「歴史的な躓き」だと捉えていたのに対して、マッカーサーをはじめとするアメリカ政府は日本の過ちは明治政府以来の構造的な問題にあると見ていた。
 この日米の根本認識のズレを吉田がどのように解消していったのか、そこに吉田戦後政治の本質と、戦後日本の社会的本質がつくられる素地があった。ひとつ だけ"幸運"がつきまとった。それはアメリカにとっても吉田にとっても、日本が共産主義化することが脅威だったことである。マルクス主義陣営にとってはとんでもないことだったが、これを吉田は巧みに利用する。ソ連がスターリン時代という強力な圧政時代だったことも手伝った(この件についてはダワーは「近衛上奏文」をかなり重視している)。
 こうして吉田は、マッカーサーの断固とした改革のもとで、日米関係の回復、帝国日本と新生日本の融和、尊皇主義の波及、表面上の民主主義の社会化、結果だけの機会均等の実施といった、まるでアクロバティックな政治を実現していったのだ。
 吉田は人材をフルに動かす才能にも長けていた。そこは譜代と外様を使い分けた家康にも似ているが、それだけではなく自家薬籠の人材を登用する術も知っていた。
 これがいわゆる「吉田学校」である。当初は、経済政策の池田勇人、党務のための佐藤栄作、法と再軍備の岡崎勝男、大橋武夫らの1期生の活躍が目立つ。

 吉田が新憲法よりも明治憲法に愛着をもっていたことはよく知られている。また農地改革で地主がなくなっていくことに不満をもっていたこともよく知られる。
 ようするに吉田は民主主義改革などに大きな価値を見出していなかった。それがうまく運んだのはマッカーサーがいたからである。逆にマッカーサーがいたから、吉田は巧みに勝手なことを言い、日本の自立へのバランスをとっていた。
 この吉田の巧妙で頑固なやりかたがはたして大成功だったのか、それともそうでもなかったのかを決定するのは難しい。その最も重要な問題が、再軍備と主権 回復をめぐる一連の出来事、すなわち安保を伴うサンフランシスコ講和条約につながる政治というものだ。この出来事は今日にいたる日本の運命を決定づけただ けに、吉田政治が何をしたかという評価がいまもって難しい。
 なにしろ日本は完全に「パックス・アメリカーナ」のすべての事情の中に組み込まれたのである。主権は回復したが、たとえば台湾政府を認めさせられ、中共 の封じ込めにも加担させられたのだし、講和後に日本の各地にアメリカの軍事基地を残すことにもなったのだった。
 こうした状況下、ダワーは、吉田が講和条約の締結に向かって、吉田自身がアメリカに対して発動できるカードをすべて使いきれていないと見ている。そうだったかもしれないし、そうでないかもしれない。「吉田の真実」はなかなか正体をあらわさない。

 本書を読んでずいぶん時間がたつが、いま思い出すと、やはり吉田が日本の自衛権についてどう考えていたかが気になった。さきほどそのあたりの箇所を拾い読んでみたが、どうもダワーもその点をはっきりさせていない。
 ともかくも吉田は用心深かったのだ。どんなこともそうだった。だから吉田は「用心深い自衛権」「用心深い自衛隊」をつくろうとしたとしか言いようがな い。きっとアメリカもそのように見るしかなかっただろう。問題はむしろ国内である。そうしたアメリカの鏡に映った日本を見せつづけた吉田を、日本人はどう 読んだのか。池田勇人まではともかくも、岸・佐藤以降の日本の政治は、しだいに吉田の用心深さの意味のタガから外れていったからである。
 もうひとつはっきりしていることがある。吉田は終生、政党に関心をもたなかったということだ。自民党政治という言葉があるが、それは吉田茂以降のことな のだ。だとすれば、自民党政治のあとにくるものを知るためにも、諸君は"吉田茂とその時代"を知らなければならない。


参考¶吉田茂の著作は多くないが、『回想十年』全4冊(もとは東京白川書院)、『日本を決定した百年』が中公文庫に入って読みやすい。そのほか『世界と日 本』(番町書房)、『大磯随想』(雪華社)など。評伝では猪木正道『評伝吉田茂』全4巻(読売新聞社)がいちばん詳しい。ほかに塩沢実信『人間吉田茂』 (光人社)、細川隆一郎『“吉田茂”人間秘話』(文化創作出版)、大下英治『小説・吉田茂』(講談社文庫)、戸川猪佐武『小説・吉田学校』全4巻(学陽書 房)など。


王陽明
『伝習録』
1936 岩波文庫
original
山田準・鈴木直治 訳注
今宵は、ぼくとしては初めてのことなのだが、陽明学をめぐっての感想を書こうかと思っている。
 陽明学だから、中心には王陽明がいる。そのまわりに朱子や陸象山や李卓吾がいる。これらの名はいまはあまり知られていないか、知られていても読まれていない。
 おそらく最近の日本では、「三島由紀夫って、たしか陽明学に凝っていたんでしょう?」というような見方があるくらいのものではないか。こういう人には、 三島の自決は陽明学によると映っているのであろうが、王陽明がそういうことを奨めたわけではなかった。
 また、自民党政治の奥座敷にやや詳しい者なら、安岡正篤が戦前戦後を一貫して陽明学を読講して(老荘思想とともに)、その思想の啓蒙をはかりつつ政界の ご意見番を務めていたことを知っているかもしれない。けれども、その安岡に親しく会っていたのも佐藤栄作・福田赳夫・大平正芳までであろう。大平に池田派 結成のための「宏池会」の名を贈ったのが安岡だった。
 しかし、そういうことはあまりに烟雨の中のこととしてしか、語られてこなかった。それに、そういうことは陽明学とはたいした関係がない。

 だいたい三島由紀夫にして、陽明学に目覚めたのはだいぶんあとになってかららしく、中村光夫との対談のなか、江藤淳が朱子学をやっているので、自分は陽明学をやろうと思っているというようなことを言っているのが、やっと最初の記録(1968)で、まさに左翼・全共闘台頭のときなのである。
 実際に三島がどのくらい陽明学を理解していたかは、わからない。文章として正面きって陽明学にふれているのは、たしか、市ケ谷で自決した年に発売された 『行動学入門』(1970)のなかのこと、それも大塩平八郎の「殺身成仁」(身を殺しても仁を成す)の能動的ニヒリズムを、三島らしく「革命哲学としての 陽明学」というふうに規定しているばかりだった。
 それゆえぼくなども、いまは、『豊饒の海』第2巻『奔馬』で、主人公の飯沼勲が大塩平八郎に託して、「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるな り」を引いていたのが気になるばかりであって、三島だから陽明学だというふうには、見ていない。

 おおかた、そんなところが陽明学についての一般の印象だろうけれど、しかしいざ、その依って来たるところと、そこから打ち出された思想の波及を見ようとしたら、これはそうとうに複雑で広範囲にわたっている。
 中心にいる王陽明の語録は『伝習録』にほぼまとまっているから、いつだって読めるけれど、その『伝習録』をとりあげるにしても、これはかなり広い領域の なかで扱わなければ、意味がない。どのように広いかは、このあとのぼくの文章を読んでもらうことにして、そのくらいにしなければ、陽明学など齧らぬほうが いいという意味もある。
 テキストは岩波文庫版にしたが、明徳出版社の安岡正篤のものや岡田武彦のものも、最近出回っている吉田公平のものも、いろいろ読まれるのがいい。安岡の 講義もそれなりにおもしろい。また朱子学や陽明学や日本の儒学も読んだほうがいい。
 これから書くように、陽明学は中国と日本を頻繁にまたぎ、儒仏をゆさぶって眺めたほうがいいからだ

 その前に、「伝習」という言葉を説明しておく。
 これは『論語』学而の「伝不習乎」に初出していて、古注では「習はざるを伝ふるか」と訓んでいた。朱注では「伝へて習はざるか」と訓んだ。どちらもある と思うが、「伝へて習はざるか」のほうがぴったりくる。
 漢字の「習」とは雛鳥が飛び方を学んでいることをいう。白川静さんによれば(987夜)、それを人がまねて、曰の形の台の上で羽を擦って、何事かに集中する呪能行為のことをいう。その伝習だ。ぼくが好きな言葉である。
 ISIS編集学校では師範や師範代が集って学衆に示すべき指南の方法をめぐる場を「伝習座」とよんでいる。むろん陽明学とは関係がない。もっとずっと以前の「伝へて習はざるか」を採った。

 さて、ふりかえってみると、おそらく東アジアが生んだ思想のなかで、陽明学ほど短期間の有為転変が激しいものはなかったのではないかと思う。
 いったい陽明学が見えずして、どのように儒学の流れが理解できるのかということもあり、また、日本儒学の思想を陽明学を除いて語ることなどできないとい うこともありながら、陽明学ほど誤解されてきたものもなかった。
 たとえば、その「知行合一」の思想はそもそも儒学なのか、正統な朱子学なのかという問いにすら答えにくくなっているだけではなく、それは心学か儒仏学かという問いもありうるし、修身の学か、天下安泰の学か、変革の思想か、王権奪取の学かという問いにも、陽明学シンパもあやしくて答えきれなくなっている。

 陽明学は、中国で廃れて、日本で独自に復活した。このこと自体が謎なのである。
 なぜ本場の中国で廃れて、日本で復活したのか。日本の何がそれを受け容れたのか。その復活にしても、まったく一様なものではなかったのだ。その一様でないところも、まるで陽明学のポイント・フラッシュが放射状に飛び散って各所に突き刺さったかのようで、武士道にも神道にも、禅にも明治キリスト教にも親和していったふしがある。
 こういう思想はめずらしい。ある面では陽明学はどのようにも受け取れるところがある。そうなると、陽明学も時代の思想の割れ目パターンのようにしか映らない。
 もうすこし広く掴まえたらどういうものになるか。ぼくなりに用意した二、三の意外な話から入っていきたい。

 内村鑑三の『代表的日本人』(250夜)には、大きくは2カ所に陽明学についての言及がある。中江藤樹と西郷隆盛のところだ。
 よく知られているように、二人とも陽明学に心服した。藤樹は日本の陽明学の泰斗であって、天人合一を謳って近江聖人と敬われた。その弟子に熊沢蕃山が出 て、水土論と正心論を説いた。大西郷についてはいうまでもないだろうが、王陽明を読み、『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を心に決めた。
 藤樹も西郷もそれぞれ陽明学に心服した。それはそうなのだが、この二人の陽明学への心服に、キリスト者の内村がぞっこん心服しているのである。それを読 んでいると、キリスト教と陽明学は実は酷似しているのではないかという気になってくるのだ。
 実際にも、そのことを指摘した幕末の志士がいた。才気煥発の高杉晋作である。高杉は当時の聞きかじりの知識ではあるものの、それでも幕末や上海のキリシ タンの動向や心情を見て、キリスト教の本質を嗅ごうとしていた。それが長崎で『聖書』を読んでパッとひらめいたようだ。なんだ、これは陽明学ではないか、 と。
 こういう話は陽明学そのものが広い懐をもっているのか、それとも異端であるがゆえに人々に孤絶の道を歩んだ者の思想や生き方との類似や暗合を思わせるの か、判断がつきがたいものを示しているのだが、ぼくには陽明学のひとつの特色を語っているものと見えている。

 もうひとつ、別の話をする。
 こちらは陽明学の土台にあたる朱子学本体に関連する話になってくる。ただし、ここにもやはり複雑な捩れが見える。
 かつて、全国の小学校の校門や校庭には、薪を背負って熱心に本を読んでいる二宮金次郎の像が立っていた。最近はあまり見かけないようだが、東京駅近くの 八重洲ブックセンタービルの前には金色の金次郎が、いまも俯(うつむ)いて立っている。なにしろ“読書する少年”という像だから、書店にはふさわしい(ち なみに八重洲ブックセンターでは、7月10日まで「松岡正剛千夜千冊」ブックフェアを開催してくれている)。
 なぜ金次郎像が小学校に立つことになったのかは、井上章一(253 夜)が『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(新宿書房)で、その謎に挑んだ。明治の教育勅語的な政策が昭和になって延長され拡張された事情を、みごと に裏側から暴いたこの本はなかなかおもしろかったのだが、ところが、この二宮金次郎が歩きながら熱心に読んでいる本は何かというと、案外、知られていな い。
 いや、ぼくがこれまで問うたかぎりは、誰も知らなかった。この本は『大学』なのである。『大学』とは何か。四書五経のひとつである。では、少年金次郎はなぜ『大学』を読んでいるのか。

 四書五経とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経をいう。この順は中国でこれらのテキストが成立した順ではなく、中国で習う順である。『大学』が最初にあがっている。
 こういうことを決めたのは朱子(朱熹)だった。古代帝国ではなかった。朱子が勝手に決めた。それまで科挙には五経を課していた。科挙は隋の文帝から始 まっているが、唐代で文芸中心の進士科が重んじられ、宋代で朱子によって四書五経を対象とすることが確立する。五経はそのうちの一経だけを選択受験すれば よかったから、いきおい、四書が流行した。なかでも『大学』はいわば共通一次試験の入門テキストのようなものだったから、誰もが読んだ。
 ただし、『大学』というテキストは古代からあったわけではなく、『礼記』の一篇にすぎなかったものを朱子学が自立させて『大学』となった。
 本来の大学の意味は、「学の大なるもの」ということで、漢の鄭玄は「博学をもって政となす」といい、隋の劉絃は「博大聖人の学」と説明している。これを 宋の司馬光は拡張して、「正心・修身・斉家・治国よりもって盛徳、天下に著明なるに至るは、これ学の大なるものなり」と拡張した。
 この司馬光の説明は、だいたいのところは朱子学のいう『大学』の主旨と重なっている。朱子は朱子で、この思想を三綱領八条目に整理した。

 三綱領というのは「明徳」「新民」「止至善」である。「明徳」は自分を修める「修己」のためのコンセプトであり、「新民」(親民)は人を治める「治人」のコンセプトになる。
 八条目のほうは、「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」の8つのサブコンセプトをいう。このうちの格物・致知が学問のヴィジョンをあら わして、誠意・正心・修身が徳行を、斉家・治国・平天下が行動(功業)テーゼを集約する。
 まとめていえば、『大学』は己を修めて人を治めるための一冊なのだ。ここに儒学のエッセンスがすべて凝縮している、と、朱子は考えた。朱子学が「格物致 知の学」であるといわれるのも、ここにつながっている。

 朱子の先駆者の一人となった北宋の張横渠は、これを、「天下のために心を立て、生民のために命を立て、往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」(近思録)と要約した。
 古来、名文といわれている要約だが、このうちの「万世のために太平を開く」が昭和20年8月15日の終戦の詔勅に用いられたことは、いまではすっかり忘 れ去られていよう。それを安岡正篤が手を入れていたということは、もっと知られていないことだろう。詔勅の本文は迫水久常が漢学者の川田瑞穂に頼んで書い てもらっていた。
 ついでにもうひとつ余談をしておくが、伊藤仁斎は『大学』について「三綱領あれども八条目なし」と言って、朱子の整理に不備があることを突いていた。余 談ではあるが、このあたりが仁斎から徂徠に及んだ日本儒学が「古学」に深まっていったことを象徴していて、見逃せない。
 第992夜に書いたように、その姿勢は徂徠を通じて本居宣長にまで影響したわけである。

 そういう四書五経のエッセンシャルな入門としての『大学』が日本にも伝わった。日本は科挙をしなかったから、寺子屋などでももっぱら『大学』が自主的に読まれたのである。
 金次郎もこういうわけで『大学』を読んでいた。
 もっとも金次郎といってもこれは、たんなる少年一般の代名詞ではなくて、小田原藩の分家領地の農村改革をなしとげた二宮尊徳の少年時代ということであっ て、その金次郎が「誠意・正心・修身・斉家・治国」の第一歩を『大学』から踏み出したのだということなのである。
 その尊徳のプロフィールを少年時代に限定して、大日本帝国の道徳教化の素材にし、修身教科書の勤倹シンボルに仕立てたのが、薪を背負って『大学』を読む金次郎像だった。
 それならば、敗戦後にこのシンボルは地に堕ちてもよかったのだが、そうはならなかった。歴史というものはつねに意外な反転をおこすもので、ここにも ちょっとした謎があるのだが、この尊徳の言動と成果は実はGHQによって民主主義のシンボルと解釈され、結局、全国の小学校に残されたのである。これは、GHQのほうが朱子学効果を見抜いていたということになる。

 以上、いくぶん意外な話を二、三、もちだしてみたが、どうだろうか。藤樹・仁斎・尊徳・高杉・西郷・内村を包んで陽明学が何かを曳航しているのである。
 では、ここから先は、朱子学というものが『大学』で説いた「明徳」と「新民」を重視して、結局は「格物致知」を中核の思想においたこと、その考え方をめ ぐって340年後に王陽明が反旗をひるがえしたということを、説明していきたい。
 が、これとてもとうてい一筋縄ではないので、しばらくは紆余曲折についてきてもらうことになる。紆余曲折の原因を何がつくっているかといえば、それが朱子学と陽明学の奇妙な対立だったのである。

 朱子学は、11世紀の宋代に出現した周敦頤、程明道、程伊川、朱子(朱熹)が連携して構築していった学問体系のことで、宋学ともいわれた。
 なぜ宋代にこのような新たな儒学体系ができあがったかということには、いろいろ条件が重なった。もともとは始皇帝の焚書によって多くの儒書が焼かれたた めに漢代以降の儒教が弱体化して、訓古(文献学・注釈学)ばかりが流行していたこと、唐代にあまりに仏教が浸透していったこと、教団道教の確立があったこ と、さらにその後は異民族の度重なる蹂躙と支配によって華夷秩序が守れなかったことなどの要因が、いくえにも重なっていた。
 とくに仏教の波及が大きかった。理論のスケールにおいても、信仰や修行をもちこんで生活に革新を与えて民衆の心を捉えたことにおいても、また古代儒教 (旧儒教)が避けていた死や実存をめぐっていたことにおいても、とうてい儒教は仏教には対抗できるものではなかったのだ。
 だから儒教儒学の低迷はそうとう長くつづいていたのだが、それがやっと宋朝になって、漢民族のおかれた状況を深くふりかえる好機がやってきた。

 宋代そのものは北方の遼や金やモンゴルの脅威を受けつづけ、それらと手を結ぼうとする“内部の敵”もかかえていた。安定な政権ではなかった。
 けれども、逆にそのぶん、民族意識がよみがえるには好機だったのである。
 そこへ商業資本が勃興し、家範・家訓・家規を重視する傾向が生まれ、有産階級のなかから士大夫層が輩出してきたことも手伝った。こうして、古代以来の中 国自身のオリジネーションによる思想や理論の体系化が求められていく。柳宗元・韓愈らが準備し、司馬光が『資治通鑑』をもって歴史の筋をただしたことと は、そのことである。

 そこへ登場してきたのが「道学」(新儒学=朱子学)である。
 先頭をきったのは周敦頤(周濂渓)の『太極図説』で、朱子がそこからひろがった理論の体系化をはたす。ここからが朱子の理気哲学体系になっていく。
 『太極図説』は陰陽思想や五行思想を新たに組み直した一種の宇宙生成論だったのだが、それは中華思想を宇宙的な原理に直結させるには都合のよいものだっ た。漢民族にとっては、中華思想はアジア社会のみならず宇宙の原理とも合致していなければならなかったのだ。
 そういう要請に応えるには『太極図説』はよくできていた。周敦頤は、太極が陰陽の二気を生じて、木火土金水の五行となり、さらにおびただしい現象や生物 や事物を派生するというふうに組み立てた。「気」の流出と分化のシステム化であった。中国ではこれを好んで「万物化生」という。それを「万物資生」といえ ば、資生堂になる。
 ついで朱子は、この「気」の流れがつくる万物化生のすべてを統括するものを「理」とみなし、理気哲学とした。「理」に超越的性格を与えて、「気」と対応 させたのであるから、これはまごうかたなき二元論だった。
 その朱子が、四書のなかで『大学』をとくに重視した。すでに説明したように、『大学』には朱子学の骨子が端的に表現されている。これを朱子は利用した。

 そこにはもうひとつの効用があった。儒教儒学には古くから「父子天合」に対して、「君子義合」という考え方がある。
 もし父親がまちがった行為をしたら子たるものは、三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ号泣シテ之ニ随ウベシなのだが、誤った君に対しての臣は、三タビ諌メ テ聞カザレバ、スナワチ之ヲ逃ルということでもよかったのである。義が合わなければ、主君のところを去ってもよかったのだ。このことを『大学』は訴えてい た。
 この「義」についてもいろいろ議論があるところで、いったい「義」とはどういうものか、それこそ日本の儒学も、また西鶴近松もそこを問い、そこを表現したのだが、それはともかくとして、朱子にあっては、この社会道徳の二極性にも断固たる「合理」を与えて説明しようとしたのだった。
 これは朱子の徹底した合理主義による。日本の近世の表現者には、この合理主義はそぐわなかったのだろう。

 朱子学のロジックを一言でいえば、一人一人が真理を正しく知るべきであるということを、正しく知るには居敬を正しくしなければならないことにつなげたことにある。そこに一人一人が聖人になりうる可能性があるという希望をおいた。
 居敬とは、心身を収斂して「本然の性」を日々まっとうに守ることをいう。
 それゆえ朱子の道学は、理気哲学であって、かつ性理学であると言われるのだが、「知る」ということを窮理とみなし、それを格物致知とすることで、『大 学』のメッセージと巧みに合わせたところが眼目だった。
 このような考え方は、個人の一人一人に天下を正しく考えてもらうにはもってこいだった。こういうところが朱子学が宋朝によって国教に採用された理由になっている。

 ところが、ここに朱子の見解に異議を唱える者が出現してきた。朱子とほぼ同年代の陸象山(陸九淵)だった。
 陸象山は朱子が「性」を「理」とみなしたことに反論して、「心」をこそ「理」とみなすべきだと考えた。朱子が「性即理」であるのなら、陸象山は「心即 理」だった。心がそのまま理になるべきだと訴えた。これを「心学」といった。
 むろん、朱子学のほうも黙っていない。もともと朱子学には仏教と激しく対立するところがあったから、なんであれダメなものは仏教的だと批判する。儒学、 永年の怨念である。陸象山に対しても、そのロジックをもって鉄槌をくだそうとした。陸象山は仏教じみている、そう、批判した。
 が、この対立はいったんぼけた。ぼけた理由は、朱子学者のあいだに腐敗や低迷がおこったことと、モンゴルがやってきて元朝になってしまったからである。 おまけに元朝は科挙については朱子学を形式的に施行するようにしたために、朱子学は学問というよりも官僚の道のようになっていった。ただ、朱陸同異論(朱 子と陸象山の考え方は同じものか異なるものか)の議論ばかりがむなしく流行した。
 かくて、そこに登場してきたのが王陽明だったのである。なんだかお待たせしましたというほど、プロローグが長い話になった。

 王陽明(王守仁)は、ひどく晩生(おくて)である。
 幼児からの神童が一挙にその才能をのばしていったのではなく、苦渋のすえに覚醒していった。しかもそれまでに逸脱の道を歩んでいた。
 有名な著作や大部の書物をのこしたのでもない。作戦軍略家として音に聞こえ、世間にはその功績が知られる程度で、死んだ。
 ところが王陽明を慕う者は多く、その言葉は『伝習録』やさまざまな文集として残った。しかも陸象山とともに、朱子に並び称されるにおよんだのである。
 こういう道学者はかつていなかった。旧儒学であれ新儒学であれ、道学者というものはどこかで聖人をめざしているはずであって、むろんそれを踏み外した者 など数かぎりなくいるが、少なくとも名が残った者に、逸脱者などいなかった。それが王陽明にあっては、まったくそれまでのタイプにはまらない。

 「陽明の五溺」という有名な言葉がある。
 「はじめは任侠の習に溺れ、二たびは騎射の習に溺れ、三たびめは辞章の習に溺れ、四たび目は神仙の習に溺れ、五たび目は仏氏の習に溺れ、正徳丙寅、初め て正しく聖賢の学に帰す」というものだ。『伝習録』に入っている。
 任侠が好きで、チャンチャンバラバラにうずうずし、文字習字語彙の遊びに溺れて、神仙タオイズムにも仏教にも惹かれたというのだから、ぼくなど、これに 倣っていえば五溺、すべて溺れっぱなしだが、王陽明がそうだったというのである。
 なぜ、このような男が国教ともなった朱子学を覆(くつがえ)したといわれ、陽明学を樹立したといわれ、幕末維新に橋本左内や吉田松陰に、また西郷隆盛や内村鑑三に心服されたのか、にわかには納得がいかないにちがいない。ぼくも長らくそうだった。

 陽明は、明代の1472年の生まれである。浙江省の余姚(よよう)に出身したので、陽明学のことをしばしば「余姚之学」という。
 父親が進士に合格したのをきっかけに、少年期は北京に住んだ。高級官僚の御曹司の身分だったといっていいだろう。18歳のときに江西の婁一斎をたずねて 「宋儒の格物の学」を告げられ、科挙にみる朱子学ではない本物の朱子学に触れるように促された。
 これで聖学をまっとうする決意はできたのだが、2度の進士の試験に失敗し、3度目に合格したころには、明の辺境に韃靼(タタール)などが迫ってきてい て、政府はその対策を練れる者を募集していた。陽明はこういうことには燃える。なにしろ任侠にも騎射にもじっとしていられない。高杉や松陰というよりも、 むしろ坂本龍馬に似ていた。
 そこで「辺務八事」をまとめて方策を奏上した。この効果はあったらしく、雲南の司法官に任命された。それで諸事激務にあたるようになるのだが、過労のせ いか労咳に罹り(もともと病弱だった)、しばしば喀血した。
 それでも陽明は平ちゃらで、近くの山に道士が伏していると聞けば会いに出かけ、その教えを聞こうとした。教えられた導引の術なども試している。禅僧にもしばしば会っている。陽明には禅機をよくするところもあったのである。
 ようするに、どんなものからも長所をとりいれる。屈託がないといえばそうなのだが、これでは道学者でもないし、まして朱子学者でもなかった。

 正徳元年(1506)、陽明は35歳である。名君とよばれた孝宗が病没して、幼い武宗が即位した。
 幼年の武宗にとりいって、八虎とよばれる宦官たちが跋扈するようになっていた。頂点に劉瑾がいた。これに呆れた戴銑・薄彦徽らが改革の上奏文を出すと、 逆に禁固された。そこで陽明が怒ったのである。戴銑の解放と劉瑾を弾劾し、救済活動を開始した。しかしたちまち投獄され、杖罰四十を受け、気絶してしまっ た。
 陽明は貴州の竜場の駅長という低い職に流される。37歳になっている。ここは筆舌にしがたいほどの僻地で、まともな言葉を話す者もなく、疫病が蔓延し、 掘建て小屋を自分でつくって住むような場所だったようだ。これでは陽明もさすがに天を知り、自らを知ろうとする以外はない。こうして本気で『大学』を読ん だのである。
 きっとこんな辺鄙で荒涼たる地で『大学』を読むと、心に響くのであろう。一気に「格物致知」におよんだ。いわゆる「竜場の大悟」であった。

 一方、陽明は土地の人民の教化にも努めた。そのため令名を聞いた者がしばしば陽明を訪れるようになった。
 多くは朱陸の同異を尋ねるものばかりだったのだが、陽明はこれに答えるうちに、自身の考え方を述べる習慣をもつ。それがまとまって「知行合一」の説とな る。知ることと行うことは同じだという説だ。これは理論が生んだ思想ではない。陽明の日々を集約した思想だったのである。
 これを聞いた者たちは弟子を含めて、その真意がすぐには理解できなかったらしい。が、しばらくたつと、忽然と了解できる。また陽明に続きの話を聞くと、 わからなくなる。ところがまたしばらくたつと、全体が見える。しかも他の意見を対照すればするほど、陽明の知行合一説のほうが納得できる。
 こういうことがつづいて、毛応奎のように貴陽書院を修復して、自身パトロンかつ弟子となって、陽明の講座を開くところがふえていった。それが次から次にふえたのだ。
 こうしてしだいに朱子の朱子学は、理に走った主知主義にすぎるということがあきらかになっていく。しかしどうみても、陽明のメッセージはロジカルではなくて、仙人や禅僧っぽかったのである。実は『伝習録』がよく読まれてきたことには、その魅力もあったのである。

 陽明が竜場にいるあいだに、劉瑾一派の宦官勢力が衰え、ついに一掃された。陽明は吉安府の知事に任命され、仕事をしながら心を鍛え、明鏡の精神をもつべきことを確信していく。
 この、仕事をしながら鍛えるというのは「事上錬磨」とよばれているもので、陽明学がつねに強調する。
 もう少し詳しくいえば、「立志して、事上錬磨する」ということを奨めた。立志がなければ稽古もムダになる。できるだけ立志して、そのうえで仕事に就きながら事上錬磨するというものだ。
 これは別の観点からいうと、いたずらに「虚禅」に浸るなということでもある。
 虚禅というのは、座禅や瞑想に耽っているようでいて、その実、なんらの収穫もなく、大悟もないことをいう。陽明はその虚禅に陥ることを戒めた。それなの に陽明自身には仙人や道士や禅僧めいた雰囲気が漂っていた。ただし、仕事をしまくる仙人であって、多忙な禅僧なのである。
 が、陽明が「虚禅」を戒しめたことには、中国儒仏史上のやや複雑な事情もからんでいる。

 もとより歴史は捩れっぱなしではあるけれど、よくよく歴史の脈絡と臓腑を捌いてみなければ、その捩れぐあいが見えにくいことが少なくない。そのひとつに朱子学と仏教の対立がある。
 朱子学と仏教の対立といっても、これまた一筋縄ではなく、もともと中国は儒教の分母に仏教の分子が乗っかったのだから、たえず「儒先仏後」か「仏先儒 後」かを争ってきた。のみならず、ここにもうひとつ道教が加わって、「道先仏後」や「儒先道後」も取り沙汰されてきた。他方ではむろん、複雑な融合もし た。老荘の「無」の土壌に、ナーガルジュナの「空」が舞い降りたというような、なかなか微妙なところもあった。
 そんな歴史なのだから儒仏の対立は積年の宿命のようなものだったのではあるけれど、しかし、明代の朱子学と仏教の対立は、なかでもいささか特異なこと だった。なんといっても朱子が排仏思想をもっていたことが大きかった。これが、すべての事のおこりだったのである。

 そこで仏門からの反撃が出た。
 たとえば、成祖永楽帝の黒衣の宰相といわれた道衍(どうえん)による「仏法不可滅論」や『道余論』は、程子や朱子の遺著から49条を選びとり、これをこ とごとく反駁してみせた。これは朱子らが排仏を唱えたことへの、復讐に近い。
 朱子の仏教嫌いは有名である。それは当然なのだが、それにひっかけて、旧守派が陸象山の心学的な傾向に対して、「それは仏教に似ている」という批判が出 てくるようになり、それが高じて理学と心学が長きにわたる論争に入っていったのである。
 それだけならまだしも朱子学の内部の対立だったのだが、そこに仏教、とりわけ禅がからんでくると、話がちょっと厄介になる。

 もともと中国には「経学」というものがある。経学は四書五経などの古典を、すでに絶対真理性が保証されたものとして学ぶというもので、聖賢の言葉そのものを丸呑みするように学習する。
 それゆえ経学は、広くは仏教にもあてはまっていて、天台の徒が法華経を、華厳の徒が華厳経を丸呑みして学ぶのもやはり経学なのである。したがって、心学 が心三昧を得るというためのものであるかぎりは、経学とは対立しない。しかし、心学が一心万法を解いて、迷悟消沈の一切を心法とすべきだなどと言いはじめ るようになると、経学の権威は下降してくる。
 このような中国的な心学を歴史上、最初に確立したのが禅なのである。

 禅は、以心伝心・不立文字・教化別伝をモットーにするくらいだから、経典による知的学習よりも座禅などによる心の安心(あんじん)を求める。これは経学に対立する心学を確保するという姿勢である。
 しかし、そうやって得られた心というものは、一様ではない。一人一人が勝手に悟ってかまわないのだから、心の安定のレベルはまちまちで、もしその心を取 り出して並べれば、なんら一貫性も同質性もない。それが禅というものである。
 朱子からすれば、これはとんでもないことで、朱子も心は一身が主宰するものとは思っているのだが、禅のようにてんでんばらばらの心があってはたまらな い。そんなことでは、『大学』にいう「明徳・新民・止至善」にもとづく「誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」は望めない。禅のように各自の禅定に頼れ ば、修身はともかくも、斉家・治国・平天下もバラバラになっていく。
 そこで禅が批判されたのだ。その禅に似たことを陸象山が心学として掲げたので、ここから儒仏は交じりながら交差して、朱陸の論争が始まったのである。

 朱子学者たちが口をきわめて禅を罵ったことは、中国宗教史上でも特異なことだった。
 しかし、それ以上に宋学をややこしくさせたのは、後期朱子学が心学や心法をとりこんで、新たな哲学的転回を見せたことなのである。「陸王の学」とはそのことをいう。
 というわけで、陽明は「虚禅」を排しながらも、その一方では、むしろ「行動する禅」を標榜したかったと、見たほうがいい。
 そんなことは『伝習録』を読めば、すぐ伝わってくる。
 それゆえ、陽明はこういう事情と論争のさなかにあっても、仕事をやめなかったのである。
 陽明の仕事、すなわち事上錬磨は、45歳からはほとんど地方巡撫だった。
 都察御史として地方をまわり、軍民をまとめようとする役である。どの地方にも賊や逆賊がいて、暴れていた。そこで陽明はこれを分断して討つことにした。そういう仕事ばかりしていた。
 さらに良民と賊との区別をつけるため、十家を一札にまとめ、そこに共同責任を発生させた。「十家牌法」である。その後、地方管轄の軍事提督になっても、 こうした作戦工夫を怠らない。「郷約」という地方住民の守るべきコミュニティ・ルールもつくった。
 こんなことをしつつ、いざ門人たちと話しはじめると、まさに格物致知のニューヴァージョンに心を深めて語るのである。『伝習録』を読んで滲みるのは、ここである。

 こういうことをしながら、陽明は朱子が『大学』にほどこした解釈には問題があったことに気がついていく。
 とくに「新民」の解釈に問題を感じた。民をはたして新しくすべきなのか。民は新しくなるのではなく、もともとそこにいる者たちなのではないか。そこで陽 明は、「新民」は「親民」であるべきだとして、むしろ親しむ民のイメージへの切り替えこそが必要だと感じていく。実は『大学』では、「新民」と読む以前に は「親民」と読むこともあったのである。
 陽明は朱子学の聖典である『大学』のテキストを古い『礼記』のテキストに戻し、『古本大学』を刊行する。朱子学派と陽明学派は、なんと二つの『大学』をもつことになったのだ。

 このあとの死を迎えるまでの陽明には、決して安寧はない。つねに軍事と思索と講学とに向きあう事上錬磨の日々であった。
 途中、“王門の顔回” といわれた徐曰仁が21歳の若さで卒したときは、さすがの陽明も悲嘆落胆して、その徐曰仁が陽明の言葉を記録しはじめていたノートを記念し、自分のノート を加えて『伝習録』とした。これがいま、われわれが読む『伝習録』上巻にあたる。
 少しでも時間があけば、濂渓書院という私塾を用意してそこに人々がとどまれるようにし、折りを見つけては駆けつけて講学をした。
 こうしたアクティブなスタイルも、かつての儒者にはまったくなかったものである。まるで動と静を高速移動しているようなものなのだ。しかし、今夜はふれ ないが、こうしたアクティビティのなか、陽明はたいてい詩を詠んでいた。なかなかの絶品である。西郷が読み耽ったというのが、よくわかる。ちなみに書もう まかった。
 かくて陽明は自身の哲学が「良知」と「知行合一」というものをめざしていたのだという結論に達し、その解説を門人たちに何度も説いた。なかでも本体と工 夫を離さずに心を前進していくという「本体工夫合一」の説明は、なんとも快適なものである。
 ざっとこのように、陽明学は仕上がっていったわけである。その間、陽明自身はついに体系には着手しようとしなかった。これまたいっこうに儒者らしくない。

 朱子学と陽明学のあらかたの流れを見たが、結局、二つに共通して、しかも鋭く対比されるのは、何にどのように「格る」(いたる)かということである。
 もともと儒学は已発(いはつ)から未発に向かい、未発から已発に戻って、そのロジックをつくろうとするものだった。
 朱子は外に向かって窮理に格ろうとし、陽明は内に及んで心幅に格ろうとした。しかも陽明においてはそこに知行合一があるのだから、その内に向かったものが、外での行為なのである。
 さて、そうなると、ここからが陽明学の陽明学らしいところというか、日本が再生させた陽明学にしだいに顕著になってきた特徴ということもできるのだが、 内に向かった良知を外であらわすことの劇的なダイナミズムが、巧まずして出てくるのである。格るところが、あまりに内奥と外延の両極に分かれているため、 そこを往復するうちに、意外なスパークや過熱がおこってしまうのだ。
 これは陽明学が、内なる心性と外なる動勢を両極におきながらも、これを割符のように重ねようとした理論的な欠陥をもっていたせいである。
 そしてこのことは、陽明学がいつかは熱狂的な精神的行動主義に転じる可能性を予告した。

 陽明ののち、陽明学を異様にしていった者たちがいた。陽明学左派と李卓吾である。
 朱子学の話のなかには、この“はみ出し部分”がなかなか語られない。すでに王陽明は死んだのである。けれども、そこまでの話をしないと中国陽明学の話は おわらない。それどころか、そこからやっと日本陽明学の話が始まっていく。
 もう少しだけ、今夜の話をのばしたい。

 陽明学左派は泰州学派ともよばれているもので、穏健な銭緒山らに対して横流をおこした王竜渓や王心斎らのことをいう。二人は二王といわれた。
 この横流のきっかけは陽明の有名な「無善無悪」の解釈をめぐるものにあったのだが、それはいまはふれずに進むと、二王の思想は、こういうものだった。
 もしも陽明先生が言うように「極端な善もない、極端な悪もない」(無善無悪)というのなら、むしろさらに自由に、さらに自在に、目の前にある「現成」 (ありあわせ)をもって格知をめざし、良知をおこしたっていいはずだ。そうだとすれば、そこには「狂」も入れば、「空」も入れば、「虚」も入るのではない か。
 いや、それならそれらをまとめて「負」とよぶとすれば、それらを引き受けることこそが良知であって、「現成良知」というものではないか。おおまかにいえば、二王の思想とは、こういうものだった。
 このとんでもない発想は何なのか。すぐさま察知できるのは、ここには陽明学が仏教も道教も平気で呑みこもうとしている姿であり、本来は「孔子の正名」をもってスタートしたはずの儒学に、ついに「荘子の狂言」をも加えることを予兆させる姿なのである(425夜)。
 さあ、陽明学よ、そこまで本気で突き進んでもいいのかというところだが、実は中国陽明学のラストテーゼはこの左派にはとどまらなかったのだ。このところぼくが注目している李卓吾まで、進んだのだ。

 李卓吾(李贅)は、明代が最も爛熟した時期、嘉靖から万暦までの生涯をおくった。生まれたときは陽明が死ぬ1年前だから、二人の出会いはない。
 李卓吾の活動は30歳くらいまでを泉州を拠点にしていたのだが、この地の特別な事情を反映した。ここは密貿易のセンターであり、回教(イスラム)が公然 と動いていた。李卓吾の家が数代前からの回教徒だったのである。
 しかし、李卓吾自身は王陽明に共感した。良知による知行合一に共鳴し、さらに二王の無善無悪も学んだ。そこまではいい。
 ところがそこで李卓吾は、その良知の根本は「童心」でなければならないとした。 ここからの李卓吾はとびぬけて独創大胆になっていく。

 李卓吾は二つの奇書を書いている。ひとつは紀伝体による『蔵書』というもので、これは秦漢以来の歴史を独自に編集した。民生の視点でのみ歴史を記述して、価値観の移転をはかった。男女平等論まで入っている。
 もうひとつは『焚書』と題されていて(両書ともタイトルがすでに変である)、さまざまな様式が混淆している。なかで文芸論も展開されていて、驚くのは『西廂記』や『水滸伝』が四書五経に匹敵する至文だとしているところだ。それまでこうした民衆文芸は淫邪のもの、盗邪のものと卑しめられていたのだが、李卓吾はそれらに一気に息吹をあたえ、こうした民衆の動向と慟哭を生き生きと描いたものこそ注目しなければならないとした。
 これは文芸論としても画期的なことで、まさにその後の文芸評価はそのように動いていったのだが、李卓吾は文学史を書き直したかったわけではなかったのだ。
 彼が言いたかったことは、「童心」なのである。そのように文芸や儒学や歴史を見るには、絶対に童心が必要で、それをこそ真の良知とするべきだと考えた。 しかしながら、と、李卓吾は書く。童心というのはいつのまにか消えてしまうものである。これをなんとか食い止め、それが爆発するようにしなければならな い。
 そしてまた、李卓吾は書く。民衆とは、その童心の爆発を待っているものなのだ、というふうに(!)。

 李卓吾の著作はすべて異端とみなされ、発禁になった。李卓吾はそれ以前からとっくに剃髪して、隠士のような日々を送っていたのだが、いっこうにその非を認めなかったため、75歳で投獄され、そういう世間の反応があまりにばかばかしくて自決した
 結局、陽明学は、こういうふうになったのである。しかし明朝が滅び、異民族が国を支配する清朝になると、陽明学はすべて弾圧され、巷から駆逐されてい く。ついに李卓吾が最後の思想の暴徒であったのである。

 かくして、これらの変移と動向をもった陽明学が、朱子学とともに一緒に日本に徳川開府めがけてやってきたわけである。それなら日本儒学は沸くはずなのだ。
 ということで、ここからやっと日本陽明学のことになる。もう少しだけ、今宵の話の翼をのばしたい。ま、キリがないのだけれど‥‥。
 ところで、陽明学という言葉は中国にはなかった。中国では王学や陸王学である。徳川の日本にも陽明学という言い方はない。王学とか「余姚之学」と言った。
 陽明学という呼び方は、明治後期に井上哲次郎が『日本陽明学派之哲学』を著し、大正期に吉本譲・東敬治・石崎東国らが機関紙『陽明学』を刊行してから定 着した。その後、戊戌の新法にかかわり五四運動のきっかけをつくった梁啓超が、陽明学を変革の思想というふうに紹介して、中国にもそういう呼称が入った。
 梁啓超の役割はすこぶる重要で、日本から見れば中国人のジャーナリストが日本の幕末維新にふれてそこに陽明学を“発見”してくれたことになるし、中国か ら見れば日本にかぶれたジャーナリストが本国に陸王学の革命的解釈をもたらしてくれたということになる。
 できればその話もしたいのだが、ま、遠慮しておこう。

 そこで、徳川イデオロギーである。
 一番言っておかなくてはならないことは、日本の社会思想の変遷のなかで、徳川幕府が林羅山に命じて朱子学を導入したことは、よほどのことだったということだ。
 家康が信長秀吉時代のめまぐるしい政権変動にうんざりして、政治体制の絶対化と幕藩社会のための道徳の確立とその範囲での宗教の許容をはかるため、世俗 社会の規範や道徳を儒学に借りたのは、残された手がそこにしかなかったからだともいえた。
 もはや仏教では危険すぎた。仏門をほうっておけばまたぞろ一向一揆や本願寺が跳ねまわる。家康は一方で門徒制度で経済的保護を与えつつも、他方で宗門改 めや本寺末寺制などによってその勢力を無力化させた。キリシタンではもっと困る。海外侵略さえ招きかねない。これは禁圧するしかなかった。
 こうして儒学イデオロギーの導入に踏み切るのだが、これが日本のその後の社会にもたらしたものは、予想をこえて大きいものだった。
 たとえば幕末維新で王政復古がおこったのは、徳川社会に宗教の軸がなくなっていたことを王政(天皇制)に巧みに移行させたものだったのだし、伊藤博文が 明治憲法のために書いた「起草ノ大綱」には、「我国ニ在テハ宗教ナルモノ、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」とあって、天皇制を擬似宗教 化したいという意図がはっきり見えていた。
 それほど徳川幕府の宗教政策と儒学導入は大きい意味をもっていたのだが、さて、そこに導入されたのはいわゆる儒教儒学一般ではなくて、朱子学以降の新儒教・新儒学だったのである。
 それも、最初の藤原惺窩は朱子を正統とする朱子学派であったのが、次の林羅山では朱子とともに陸王の学(陸象山と王陽明の学)を同時に入れた。これが日 本の近世社会思想をすこぶるややこしくさせたのである。

 この先は、徳川儒学史になっていく。そこには、考えなければならない問題がいっぱい待っている。
 なぜ仁斎・徂徠は朱子学を批判して「古学」を提唱できたのか、中江藤樹はなぜ内村鑑三を感動させるほどに、陽明学を吸ってなお日本的な聖人になったのか。山崎闇斎はどのようにして儒学と神道を交ぜて垂加神道を提案できたのか、儒学を教えた懐徳堂はなぜあれほどに独創者を輩出させられたのか、それらと交差していた国学はなぜ宣長にまで及んだのか‥‥。
 これはやっぱりキリがないので、やめておく。いくら『伝習録』に次のようにあったとしても、である。
 「良知は夜気に在りて発する的(もの)、まさにこれ本体なり。其の物欲の雑(まじ)ることなきを以てなり」。


海津一朗
『神風と悪党の世紀』
1995 講談社現代新書
日本の支配者は彗星が接近しただけで変わることがある。執権北条貞時もそうして引退した。天人相関説による。地上の悪政があると、それが天上の彗星や流星や客星(新星)の出現をもたらすというものだ。
 このような日本に元(モンゴル)が攻めてきた。蒙古襲来(元と高麗の連合軍)は文永弘安の2度だけではない。サハリン・琉球・江華島などの日本近域をふ くめると、1264年から1360年までの約100年のあいだ、蒙古襲来は繰り返しおこっている。こうした襲来は、為政者や神社仏閣のあいだでは「地上と 天上の相関」によって解釈された。
 そうだとすれば、蒙古襲来という地上の出来事に対しては、天上の出来事が対応すべきであるということになる。それゆえ台風(暴風雨)によって異国人の襲 来を撃退できたのは、まことに天人相関説の“実証”に役立った。が、実際には神風ばかりに頼ったのではなかった。地上で天上を扱っているともいうべき神社 に祀られている神々も、実はわざとらしく闘った。巫女たちもさかんに神託をもたらした。
 本書には、蒙古襲来の状況下、そうした神々が異様な闘いを展開していたという各神社の記録がいろいろ紹介されている。その記述には、これまでの中世史ではみえなかったいくつもの視点が提示されている。

 異国人襲来の戦々恐々のもと、台風と神々だけが闘ったのではなかった。
 永仁元年(1293)に鶴岡八幡宮に一人ずつが銭指一連を出しあって700人もの民衆がかけつけたときは、鎌倉を大震動が襲ったためだった。マグニ チュード7を上回る関東大震災級の地震だったらしい。旱魃・地震・津波などで動いたのは、民衆たちでもあったのである。そしてかれらもまた、やはり「神々 の加護」を旗印に闘おうとした。
 13世紀と14世紀の日本には、こうした神を味方につけて天変地異に乗じようとする動きが際立っている。
 とくに1310年の紅梅殿事件で見せた北野社による理不尽な暴挙や、祇園社の居住者追放事件などに始まった一連の騒動は、いささか異常であった。何が異 常かというと、国内のちょっとした敵対者たちを異国人同様の「悪党」とみなし、これを寺社権力が徹底して差別するようになったのである。これを一言でいえ ば「在地人の既得権侵害と悪党弾圧のムーブメント」ということになるのだが、そこに、数百年にわたって沈静していた神話的な力がにわかに復活し、そうした ムーブメントが“神の戦争”と解釈されたこと、そのことが異常だった。
 結局、蒙古襲来をきっかけに、“神の戦争”を名目とし、殺生禁断を建前とする寺社領域の拡張と寺社造営とが全国的に広まったため、山野河海をネットワークしながら生活の場としてきた民衆やそのリーダーたちが苦境に立たされたのである。悪党とはそうした苦境に立たされたリーダーのことでもあった。本書は、そうした風潮が「神国日本」のイデオロギーをつくりあげたのではないかと主張する。

 著者は40歳をこえたばかりの俊英で、神領興行法の研究を専門としている。前著の『中世の変革と徳政』(吉川弘文館)は学術論文の積み上げで、かなり堅かった。
 本書はその積み上げをいかして、中世南北朝の時代の構造を神国幻想の拡張という視点でまとめた。新書ながらそうとうに構成に工夫を凝らし、それなりに書きこんでいて、歴史の「地と図」がみごとなコントラストを描いている。
 神領興行法というのは、武士や民衆が神領の内部にもっていた諸権利を剥奪して社家に戻すという徳政令である。一円神領興行法ともいった。この命令は西の 宇佐八幡宮と東の伊勢神宮を先頭に、全国に適用されている。とりわけ伊勢神宮の神領は関東を中心に次々に拡張していった。
 下宮を拠点とする伊勢神道(度会神道)が確立していったのは、この勢力拡張を背景にしていた。ただし、伊勢神道とはいえ、この時期の“神道”とは神仏両方の勢力のことをいう。もう少し正確にいえば、この時期に日本の神仏の組み替え(神本仏迹)が遂行されたのである。それによって神祇観を批判するいっさいの反体制宗教勢力が消えていくことになる。著者は、それこそが「中世神国思想の成立」の意味だったろうという。
 この神国思想に拍車をかけたのは、従来なら後醍醐天皇だということになっている。もちろんそういう色彩は濃いのだが、後醍醐の建武親政は蒙古襲来以来の 公武の秩序を壊し、時計をふたたび百年前に戻して、諸国一宮国分寺の本家を廃止して、新たなしくみで荘園制を復活することにもあった。
 しかし、後醍醐の親政は挫折する。そして南北朝の争乱をへて、時局はふたたび幕府の手に戻る。それは蒙古襲来によって一大勢力と化した神本仏迹のシステ ムが幕府の管理に移っていったことと、「神国日本」の管理が武家の手に移ったことを意味していた。その流れはこれ以降、信長から家康にいたるまで変わらぬところとなっていく。


黒田俊雄
『王法と仏法』
1983・2001 法蔵館

ここには、いくつかの“常識”をくつがえす視点がまわりくどく提案されている。その骨格になっているのは、中世仏教は顕密体制だったのではないかということだ。
 ふつうの宗教史では、こうは見なかった。中世仏教は鎌倉新仏教を中心に語るのが“常識”で、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮が主語となっていた。しかし著者の黒田はそれよりも、密教を中心に神道的なるものを含むすべての宗教がいったん顕密体制と寺社体制の中に組み入れられ、これが拡張していったのが中世だったのではないかと見たのである。ここで密教とは台密・真密の両方をいう。いやもっと広い密教OSをいう。
 中世仏教では、名目上は八宗が併存している。しかしながら実際にはいくつもの派の教義や作法を兼学する者が多く、しかも全宗派に共通して承認されていた 教理があった。それがここでいう密教あるいは密教的中世社会というものだ。中世社会における「分母としての密教」といってよい。

 中世、密教が基調にあったのだ。その密教を共通のOSにして、天台法華・華厳・唯 識(法相)・律などを組み合わせた教理が、中世の正統的仏教の実態をつくっていた。つまりはそれが中世日本の仏教的な精神世界の「すがた」というものだっ た。これが黒田のいう顕密体制である。
 そのように見るべきなのではないかという黒田には、中世では王法と仏法は必ずしも別々のものではなく、むしろ「王法仏法相依の関係」にあったとみなせる証拠がいくらもあった。
 王法とは天皇を中心にした為政者による国の守り方であり、仏法は仏教者による国の守り方であるが、奈良時代の鎮護仏教が聖武天皇その他の“王”によって 司られたように、もともと王法と仏法は交差していた。しかし従来の歴史学では、そのような古代仏教性は藤末鎌初あたりでかなり崩れてしまい、そこに法然・ 親鸞、栄西・道元・日蓮らが出現して、新たなイデオロギーを持ち込んだのではないかと考えられてきた。
 別の見方でいえば、「武者の世」(慈円)とよばれた武士の登場の時代に、日本の宗教的体制に大きな変化がおこったという解釈である。これはしばしば武士中心史観といわれる。

 しかし黒田はこれに異論を唱えた。王法と仏法はよりいっそう相依相入の度を深め、王法と仏法は武者によってではなく、顕密体制によって広まっていったと見た。
 ということは、武士や武士団が果たした役割をそれほど大きなものとは見なかったということである。また武士の役割を機能性や職能性に特定したということ である。たとえば院政は上皇が法体の法皇となって一国の秩序の“家長”としての権勢をふるうことであるが、多くの歴史家がこの院政期の北面の武士などから武士の世界が一挙に傘を開いたと見るのに対して、むしろ法皇の存在自体に王法と仏法の親密な接近がおこっているのではないか、そこに顕密体制や寺社体制がからまっていったのではないかと考えたのだ。
 もっとも黒田は、王法と仏法が為政者の裡において合体していったと見たわけではない。顕密体制や寺社体制の融合力がその進行をしだいに拡張していって宗 教の世俗化を促進し、それがやがては日本の神仏観念に決定的な変質を与えていったというふうに見たわけである。

 顕密体制は寺社体制でもある。寺院だけではなく、神社や八幡宮や神宮が一緒くたに なっていた。だからそこには、当然ながら神仏習合状態の混合的併進がある。表向きの名称こそは寺院と神社に分かれていても、その教義や教理にはどこか互い に融通しあっているものがある。いわばシェアしあっている。
 このことは東アジアの宗教全体から見ても、はなはだ特異な現象だった。祭祀のイデアとスタイルが寺社の両方で共有されていたということになるからだ。
 ひるがえって、そもそも唐の『祠令』には公的祭祀の別として、「祀」(し=天の神の祭祀)、「祭」(さい=土地の神の祭祀)、「亨」(こう=死者の霊の 祭祀)、「釈奠」(せきてん=古来の聖人や祖師の祭祀)の4種が分統区別されていた。これが東アジアの中核にある「まつり」の系統というものだった。しか し日本の『神祇令』は最初の2つを採り入れつつも、早々にそこに即位儀礼や大祓を加えてしまったのだし、あとの2つは「民俗行事」の多様性に任せているようなところがあった。その民俗性こそがやがては「神道」の基盤になる。
 しかも日本では、このようなプロセスに仏教が関与した。仏教の考え方によってこそ、そうした神仏習合の多様性は辻褄を得た。どんな辻褄かというと、だいたいは次の4つくらいの解釈が当時にあったのである。

  @−


A−
B−


C−
神は自身が輪廻の世界を流転する存在であることを嘆き、仏法によって解脱することを望んでいる。
神は仏教を守護する善神である。
神は仏教経典に説く仏(本地)が、生きとし生けるものを救済するために日本へ化身して現れた(垂迹)。
神は仏の清浄なたましい(本覚)である。

 これらの解釈が交じったものが神仏習合の実態であって、本地垂迹説の内容なのである。この内容すなわちソフトウェアを準備したのが、密教OSなのだ。なにしろ天台教学の「本」と「迹」の関係をめぐる教理が本地垂迹説に流れこんだのだ。つまりは仏教教学が換骨奪胎されたのが、密教OSの上にのった本地垂迹型の「神道」だったのである。
 すなわち中世の神々は、仏の「化導」(教化・救済)や、あるいは「化儀」(教化の方式)のひとつのありかたを示すものとしての説明をうけることになったのだ。
 ここでは説明を省くが、このような動きが、やがて真言系の「両部神道」や天台系の「山王一実神道」にもなった。では、そうした換骨奪胎がたんなる仏教用 語の神道領域への転移や盗用にすぎないかといったら、そうではなかった。そこには、たとえば存覚の『破邪顕正抄』に「仏法王法は一隻の法なり、鳥の二つの 翼の如し」という有名な譬えがあったように、仏神の両方のコロスに王法=仏法の合唱がおこったと見るべきなのである。「神道」はこうした融合と分離の繰り返しのなかから成立してきたものなのだ。

 このあたりの事情、黒田の説明にはワインディングが多くてわかりづらいところはあるのだが、その主張には当時の学界をたじろがせるものが満ちていた。第409夜の高取正男『神道の成立』にも少しふれておいたことだ。
 ともかくも中世の神道が、顕密体制と寺社体制の融合と分離のなかから生じてきたイデオロギーであったことは紛れのないことだった。しかし黒田はそれとと もに、このイデオロギーが王法と仏法の交差点で動くことによって鎌倉新仏教をも巻きこんだことも指摘した。たとえば栄西は「王法といふは仏法の主なり、仏 法は王法の宝なり」と言ったのだし、日蓮もしきりに王法と仏法の合致を説いていた。

 かくして本書はこのような王法と仏法の融合と分離を扱いつつ、中世のもうひとつの特色がどういうところにあったかということを仮説した。
 院政とは何だったのかということ、神道成立の背景に何が動いたのかということ、それらの中心的な担い手は必ずしも寺院だけでも神社だけでもなく、また武 士でもなかったこと、それをいうならむしろ武士にさえなりきれなかった「悪党」や「溢者(あぶれもの)」や「野伏」がそうした神仏習合観をシェアしていたこと、したがって『太平記』やさまざまの軍記物を読むには武士にのみ焦点をあてないで、その周辺の動向に注意すべきであること等々、だ。
 黒田はこれらのことを執拗に議論してみせて、それまで気がつきにくかった「底辺の中世」をあからさまにしたのであった。本書が名著と言われる所以は、こ ういう議論の仕方を通して、仏教の世俗化と神祇観の仏教的理論付けが同時におこったことを告げたところにあった。

 黒田節と言いたい。悪文の黒田節。黒田俊雄の歴史学や思想史の語り方や論証の仕方のことである。
 いまはそうでもないけれど、正直にいえば、ぼくはこの黒田節が長らく苦手だった。そのころ話題の黒田論文にときおり向かってみるたびに、馴染めないものを感じた。
 だいたいぼくは学術的論文の書き方が大嫌いで、そこへもってきて「誰某がどの論文でどうこう言ったのは、一定程度の成果はあるものの、しかしながらこの 点についての言及が足りず、これを補充するには‥‥云々」といった、持って回った学者たちの言い方に虫酸が走るほうなのだ。すぐれた発見や思索をしている研究者たちがこんなくだらない「論文の書き方」を固守するあまり、結局は学術の魂が学界の溝に墜ちていくのを見るのも嫌だった。
 ところが黒田俊雄は、そういう書き方に近いものをもっていながらも、つねにそこから抜け出して新しい主張を交ぜて、頑固なまでに思索をつづけ、新しい中 世像を掘り当てた。なるほど研究者にはこういう頑なな粘りも必要なのか。

 ついでにいえば、こんなことも当時に感じたものだった。黒田のような悪文を通してのみ、日本の中世像に近づける道があるのだということである。
 これは中世にのみあてはまることではあるまい。ひょっとして、「日本の秘密」の知り方には、こうした茨の刺の多い“隘路”がそもそも前提されていると見たほうがいいのではないかということでもある。『愚管抄』や『梅松論』を読むということも、また『古事記』や『日本書紀』を読むということも、きっとそういう隘路を通るということだったのであろう。
 学術的読書というもの、いまだそのことの「意味」や「方法」が問われたことはないのだが、ぼくは本書をきっかけに何かのコツをつかんだような気がした。 一言でいえば、そこにこそいまだ解きほぐされないままになっている和語のアーキテクチャーを動かす「日本という方法」があるのかもしれないということである。黒田節に接したということが、ひょんなことからぼくにこんな“おつり”をもたらしたのだ。
 こうしてぼくは、やっと契沖や宣長に近づくことになったのである。中世を通過することが契沖や宣長の「古意」(いにしえごころ)に近づく早道であったことは、現代日本の歴史学や民俗学が宿命的に孕んだ「方法」というものなのである。われわれはこのようにしてしか「日本」や「日本語」の解読に向かっていくしかないのであろう。日本、忘れやはする!



参考¶黒田俊雄の論文は『黒田俊雄著作集』(法蔵館)で読める。また、ぼくがいうところの“学術的悪文”の崇高な例を読みたいというなら、本書とともに 『寺社勢力』(岩波新書)などを読むことを薦める。ヒントは、三味線の「一の糸」のサワリを聞くように読むということである。その微かな鳴動から日本の中世のいくつもの秘密が聞こえてこよう。その音が日本の「奥」を暗示するサナギの鈴の音なのである。著者は1993年に亡くなった。


北畠親房
『神皇正統記』
1980 教育社
北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。
 しかし、親房と兼好とがまったく逆の世界を見ているのかといえば、そんなことはない。二人とも同じ社会の流れを凝視した。同じ日本人の気の振舞を凝視し た。二人とも日本の将来を憂い、二人とも無常をぞんぶんに知っていた。
 ただ、二人には大きな違いもあった。親房は動きまわった人であり、兼好はじっとした人だった。親房は権力の側にいて、兼好は権門に背を向けた。
 親房が『神皇正統記』を筑波くんだりで書いたというのも、このとき親房が小田城を拠点にして、南朝のための東国工作に従事していたからだ。そのころ南朝 の勢力はそうとうに逼迫しつつあって、なんとか常陸や下野を傘下におさめようとしていたのだが、北朝は足利氏を軸に高師冬をさしむけて、南朝切り崩しにか かっていた。関東での戦端もしばしば開かれ、親房はその合い間をぬって『正統記』を書いたのである。

 鎌倉南北朝時代の200年(150年+50年)は、日本を知るうえでわれわれが想像する以上に重要な時期になる。まことに異様な構造変化のおこった時代だった。
 また、われわれはついつい「倒幕」(討幕)というと江戸の幕末だけを思ってしまうけれど、実は最初の倒幕運動は鎌倉末期にこそおこったのである。ただ、 江戸幕末を勤皇佐幕とか公武合体というのに対して、この鎌倉幕末は「公武水火の世」というふうにいう。
 そもそも源氏将軍の支配力がわずか三代で終わったことが、あまりに早すぎる挫折であった。すぐさま北条執権政治による得宗体制が引き継いで、幕府の体制 は強化されるけれど、それで安定したかとおもうまもなく在地名主層が急成長し、社会構造が大きく変質していった。幕府はしきりに御家人を保護しようとした にもかかわらず、御家人たちは所領を失い、多くが食えなくなりつつあった。
 そこへ二度にわたる元朝モンゴル軍の襲来である。北条幕府はこれを機会に国土防衛政策を打ち出し、本所一円地を中心にそれぞれの兵糧徴収を試みるが、残った有力御家人は得宗政策とは対立しはじめる。
 そういうなかで、突如として立ち上がってきたのが江戸幕末同様の京都の朝廷勢力なのである。後醍醐天皇を中心におこったこと、その最初の事件を正中の変 というのだが、それこそが日本史上最初の倒幕運動の烽火であった。
 つづいて元弘の変では、いったん隠岐に流された後醍醐が、名和長年を頼って伯耆の船上山に移ってみると、各地の武将が次々に起ち、そこへ足利尊氏・新田 義貞らの有力層がこれに呼応することになった。これはさしずめ公武合体の先駆というものだった。こうなっては鎌倉幕府はあっけなく瓦解する。
 このとき北畠親房は41歳になっていた。

 翌年、後醍醐は建武と改元し、かつての院・摂政・関白をおかない天皇親政政治、いわゆる「建武の中興」を開始する。王政復古の断行である。
 解決しなければならない問題が山積していた。とくに問題は論功行賞と土地にある。後醍醐政府はさっそく記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所などを次々に 設置して、明治の維新政府さながらの処置にあたっていく。諸国には国司・守護をパラレルに置き、奥州には義良親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家(親房の 子)を、関東には成良親王と足利直義をそれぞれ派遣して、東国経営にあたらせもした。
 あとは敗退した北条与党の連中以外の所領の安堵をどうするかということになるのだが、そこでしだいに現実社会との適合を見失った。とくに武家階層の不満 を抑えるにはいたらない。後醍醐は理想を求めすぎたのである。準備も足りなかった。岩倉具視や西郷隆盛や大久保利通もいなかった。政治というもの、プラト ンのイデアだけではやはり途中から進まなくなっていく。
 新政権は行き詰まる。親房もこの新政権に参加したのだが、すぐに息子の顕家の後見として奥州に派遣されていた。
 この弱体化した新政権を見て、すばやく反旗を翻したのが関東武士の足利尊氏である。1335年(建武2)、後醍醐政権はたった2年あまりで崩壊した。尊 氏が最初にしたことは、光明天皇を擁立して京都に凱旋することで、それが1336年の8月だった。
 これを見て後醍醐が怒る。11月には吉野に遁れて、ただちに皇位の正統(レジティマシー・第796夜参照)を主張し、ここに南北朝50年の互いに譲らぬ前代未聞の両統対立の時代が始まった。
 ここまでが、親房の『神皇正統記』という書名に「正統」の二文字が入っている理由の背景になる。

 南北朝の皇統対立がどうしておこったかということについて、少し付け加えておくが、実は天皇の血統については、日本はここまでの歴史ですっきり落ち着いたことはない。
 継体天皇の就任をはじめ、兄弟ながら天智系と天武系の皇統が長らく別々に進行していたことなど、その血脈にはさまざまに複雑な輻湊関係がある。
 それゆえ両統(大覚寺統・持明院統)迭立の気運も、後嵯峨天皇のあとに二人の兄弟皇子が即位したことにすでに始まっていた。兄の後深草天皇(持明院統) が即位し、ついで弟の亀山天皇(大覚寺統)が即位するのだが、亀山が後宇多天皇に譲位したときに、両派の対立が剥き出しになっていた。
 かくていったんは、後宇多(大)→伏見(持)→後伏見(持)→後二条(大)というふうに交替が進んだ。けれども、これは単線的な交替による就任であっ て、複線的な両立平行交替まではいたっていない。しかもこの交替劇には公家貴族のほとんどが巻き込まれたとはいっても、まだ朝廷公家内の対立である。
 しかしそこに、尊氏の光明擁立の挙動が出た。尊氏は朝廷とも公家ともまったく関係のない武家である。後二条のあとを継いだ後醍醐としては、ここで引き下がるわけにはいかなかったのだ。

 二項対立としての南北朝が勃発し、それが長引くことになったについては、もうひとつ原因がある。
 南北朝の対立は皇統からみれば両統の抗争なのだが、そこには武家勢力における主導権争いとトラタヌ(とらぬタヌキ)の目論みが絡まっていた。当時は乱世 がまだ続いているなかで、のちに足利将軍による室町幕府が確立するというような見通しなど、誰も予想するだにできなかった状況である。武家たちも、ただた だ必死に有利な情勢につこうとしていただけだった。
 そのため武家勢力の一方が北朝につけば、他方は南朝についた。南北朝が長引いたのは、こうしてつねに南朝側にもくっつく勢力が絶えなかったからでもあった。

 それでやっと親房のことになるが、親房の家は村上源氏の血を引いていた。親房は父の源師重が後宇多天皇出家に従って剃髪し、そのとき北畠の家督を継いだ。15歳である。
 このとき親房は自分が大覚寺統に属することを強く意識する。親房の生涯にはずっと村上源氏と大覚寺統のシンボルを背負っているという矜持があった。
 親房はそうとうの才能の持ち主でもあった。もともと北畠家そのものが「代々和漢の稽古をわざとして」というような家であったけれど、親房はそれだけでなく、学問・和歌・ 管弦・神仏・宋学のいずれにも通じ、のみならず記憶力が群を抜いていた。冒頭にもふれたように『神皇正統記』は陣中で書かれたもので、きっと参考書などほ とんどなかったにちがいないにもかかわらず(簡潔な『皇統記』が一冊あっただけと本人は記している)、それなのに『神皇正統記』には夥しい知識が披瀝され ている。記憶力が抜群だったとしかおもえない。
 また親房は行く先々でかなり深い学習をしたふしがある。なかで最も有名なのは、宗良親王を奉じて伊勢に下ってこの方面の工作にあたったときに、外宮の禰 宜の度会家行について徹底して度会神道の精髄を学びとったことである。 

 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国 武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙” (かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の 後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命 中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。
 それゆえ、あそこまで書き尽くしたものなら、その後も書写され配布されてもよかったのに、親房はいっこうにこの一書に継続的な関心をもたくなっていた。一度手を入れただけである。
 そこであえて言っておきたいのだが、こうした事情を看過して、親房の著作をいたずらに神国思想の吹聴のために議論するのは無理があるということだ。のち のち『神皇正統記』はさかんに大日本帝国の宣伝パンフレットのごとく利用されるのであるが、実は親房にはその用途は東国工作の失敗とともに終わっていたの だった。

 このまま親房の最後まで見取ることにする。正平2年(1347)、楠木正行が河内で高師直の大軍とぶつかった。親房はここでふたたび動いて河内に赴いた。
 けれども翌年には正行は四條畷で戦死、高師直は吉野にまで進んで行宮を焼き払うにいたる。後村上は大和の賀名生(あのう)に退き、親房を頼ったため、ここに親房の果たすべき役割が久々に大きなってきた。
 歴史の舞台では、このあと南朝と北朝は尊氏と直義の対立と宥和の度重なる入れ替わりを反映して、めまぐるしいシーソーゲームを演じていくことになる。親 房がそこで動いたことも、もはや有効なものとはならなくなっていた。政治的には過剰になったり臆病にもなっていた。なかで16年ぶりに京都に入ったこと が、唯一の親房の宿願とも思想の実践ともいえるもので、このときばかりは胸中さぞかし、なにものかが漲ったのではないかとおもう。
 が、そのあとまもなく親房は死ぬ。それもふたたび退却を余儀なくされての、賀名生あたりでの客死だったと伝えられている。62歳であった。

 さて『神皇正統記』天地人であるが、これは神話的神代から後村上天皇までの事績を天皇中心に順番簡潔に述べたもので、要約すればただそれだけである。
 ぼくなどは「天」では『古事記』の焼き直しかと思い、ついで欽明天皇にはじまる「地」は日本古代史のトレースかと思い、やっと鳥羽天皇からの「人」で、 親房の意図が少し見えてきたかというのが、最初の印象だった。しかし、これはまだ20代のころの読書のことで、それ以前に頼山陽の『日本外史』を齧ってい たのがかえってアダとなったふしがある。
 あらためて日本について多少とも深く考えるようになってから読み直したときは、まったく別の感想をもちながら読めた。

 いろいろ感想はあるが、第一には上記にも述べたように、北畠親房を歴史に生きた姿ととして捉らえながら読めた。
 第二には、明治以降のナショナリストたちの『神皇正統記』の読み方を知ってのうえでこれを読むと、いかに八紘一宇型にこれを読むのがまちがっているかということが、よく見えた。
 親房は良くも悪くもナショナリズムを把握していないし、それを日本を超えたウルトラナショナリズムにするような思想も、まったく持ち合わせていなかっ た。近代日本がうっかり北畠親房を読み違えたことは、かなり決定的な過誤であったろう。
 第三に、『神皇正統記』は文化論としても読めた。文章が簡潔であることも手伝っているが、どこか花伝書の趣きがある。むしろ世阿弥がこれを読んで花伝書を綴ったのではないかと思わせた。
 それに関連して気がついたことは、おそらく日本の文化論はときどきこのように、神話を説き起こし、天皇の聖断と失政を問い、神仏の加護に配慮しているう ちに、突如として新たな構想に達するのではないかということだ。『正統記』はそのような文脈的な「たどり」のすえに、新たな日本の創発の日を願う「方法の 提示」であったようにもおもう。

 第四に、『神皇正統記』はむろん天皇の正統を議論するためのものであったわけではあるが、同時に初めて神道の立場を入れながら天皇を論じた最初の試みでもあったということである。
 親房の皇統正統の証しは三種の神器にあった。それゆえ、神器をもたないものには「偽主」の烙印を押している。しかしそれだけで帝王としての正統が完熟し ているかといえば、親房はそうは考えなかった。たとえば後醍醐天皇にはその政治に対して批判した。親房には摂関政治のほうがよかったと考えていた傾向も あったのだ。
 では、そんな親房がわざわざ“神皇正統”を執拗に持ち出したのはなぜだったかといえば、ひとつはすでに述べたように東国の説得のためであったのだが、も うひとつは日本の皇統の奥にひそむ「何がしか」ということを、慌ただしい「公武水火の世」のなかで考えたかった。それが神道とは何かという問題だったので ある。
 それを親房は伊勢の度会家行から学んだ度会神道(伊勢神道)に求め、さらに独自に外宮信仰の特色にふれようとした。残念ながら『神皇正統記』ではその神 道思想は開花にまではいたっていないけれど、この神道に着目した親房を考えることが、今後は日本の歴史思想の問題を解くうえでのひとつの課題になってくる のではないかとおもわれた。

 第五に、いったいわれわれは『神皇正統記』のような著作を、これからどんなふうに書けばいいのだろうか、もし書き直すとすればどのように書けばいいのかという気分をもちながら読んだことが、いまは思い出される。
 おそらく、いまぼくが述べたような感想を、近現代史に立つわれわれは正直に問題にしてこなかったのではないかとおもう。われわれはどこかで『神皇正統 記』の余韻のすべてを隠している者ではあるまいかということだ。
 この最後の感想については、ぼくのなかで少しずつながら深いものになっているのだが、「千夜千冊」においてもすでに、プラトン『国家』(第799夜)からミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(第360夜)に及んで、また、猪野健治の『ヤクザと日本人』(第152夜)滝沢誠『権藤成卿』(第93夜)安彦良和の『虹色のトロツキー』(第430夜)として、さらには高取正男『神道の成立』(第409夜)海津一朗『神風と悪党の世紀』(第109夜)黒田俊雄の『王法と仏法』(第777夜)などをめぐって、そのつど議論の端緒にふれてきたので、ここではくりかえさないことにする。

南朝・大覚寺統と北朝・持明院統

中江兆民
『一年有半・続一年有半』
1995 岩波文庫
こういう本を読まないで、それまで自分はそこそこの日本人だったと思ってきたことを反省したことがある。
 "東洋の蘆騒"こと中江兆民という名前は日本人ならだいたいが知っている。蘆騒はルソーの ことである。日本開明期のフランス学派の泰斗、ルソー『民約論』の翻訳者、共和主義の主唱者、噂にまでなった奇癖の持ち主、仏学塾の塾頭、ベストセラー 『三酔人経論問答』の著者、若いころからの三味線や義太夫への傾倒、幸徳秋水の師匠であったこと、大阪第4区で立候補して衆議院議員になったこと等々、こ ういった兆民像はよく知られている。
 かくいうぼくも、そんな程度にしか馴染んでいなかった時期が長かったのだが、あるとき、ある人から「ねえ、兆民の越路太夫の聞き方はどういうものだった んでしょうね」と言われた。婉然とそう言われたのに、ハッとした。これで覚悟が決まった。

 ある人というのは鷲見房子さんで、文楽のことなら何でも知っている。自身でチョボ付きの浄瑠璃台本を書くほかに、新月という俳号で句集もつくっている。NHKの文楽特集にはよくゲストで呼ばれていた。
 すでに最高裁判事の夫君を亡くし、おばあちゃんになられていたが、それでも少女のまま老いたような痩身の麗人で、ぼくとの出会いを「あたくしね、あなた とお会いできる前は乙女のようなときめきなんですよ」と言われて、当惑したものだった。ぼくがどこかで講演したりシンポジウムをしているとこっそりお忍び のように来ていて、いつも何人かのお付きの方とロビーで待っている。
 そのお付きの人(娘さんだとおもうのだが)の話では、「明日は松岡さんの講演に行くのだというと、それはもう一日たいへんなんですよ」ということらしい。

 その鷲見さんに「ねえ、兆民の越路太夫の聞き方はどういうものだったんでしょうね」と聞かれたのである。
 驚いて、「えっ、中江兆民? ああ七段目でしたよねえ、たしか大阪で倒れたときに2、3度つづけて聞いたんですよね」と言ったら、「あら、合邦ケ辻も寺 子屋も千本桜も聞いたようですのよ」と嬉しそうなのである。ぼくは慌てて「法師歌とかねえ、そうでしたねえ」と言うのがせいいっぱいだった。そして鷲見さ んは婉然と微笑んだのだ。「あたくしね、そのこと、娘時代からずっと考えていろいろ想像しておりますの」。
 その場はそれで終わったものの、兆民と義太夫については樋口覚の『三絃の誘惑』を思い出すばかりで、それ以上となるとこんがらかっていた。
 かくて、それからぼくの中江兆民像が一挙に改新されていったのである。

 兆民が3度にわたって浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』を見に行った話は夙に有名で、遺稿『一年有半』に出てくる。
 が、よく読むと、兆民はその前後に何度も文楽座や明楽座を訪れて、越路大夫だけではなく大隅太夫や津太夫の義太夫にも聞き惚れている。
 大阪に着いた兆民の喉から出血があったのが明治34年3月22日だった。喉頭癌の診断をうけ「余命は一年有半」と宣告されたのが4月中旬、気管切開の手 術は5月26日である。小塚旅館で療養に入り、6月には一念発起して『一年有半』の執筆にとりかかっている。
 その冒頭、兆民は自身にふりかかった宿命を「虚無海上一虚舟」と言いつつ、「一年半は諸君は短促なりといはん、余は極て悠久なりといふ」と書き、まずは 伊藤内閣から桂内閣におよんだ政情不安定を眺め、またマンチェスター派の自由放任主義経済を導入しすぎて「車輌ありて積貨なし」の経済社会になってしまっ たと批評をして、「今の日本はコルベールの時代なり」と長嘆息する。
 ここまではいかにも日本を睥睨して中江兆民ここにありという風情なのだが、このあと、「これより先、余の大阪に来るや、かつて文楽座義太夫の極て面白き ことを識りたるを以て(余は春太夫靫太夫を記憶せり)、旅館主人を拉して文楽座に至る」と、突然に書くのである。

 こうした兆民の、政治論につづいて義太夫議論を交ぜるという談義の作法には、まことに独得のものがある。
 のちに露伴四迷漱石そのほかの明治文人たちの多くが、挙って義太夫・常磐津・小唄などに耽ることになるのだが、その先例は兆民こそが拓いたものだった。が、政治と哲学と義太夫を一緒に語るという芸当は兆民をおいては、ずっとのちの九鬼周造にはその趣向と道楽の哲学があるものの、ほかには見当たらない。
 もともと兆民は明治維新とともにフランス語と三味線を習った土佐の青年だった。もう少し正確にいえば、フランス語と漢学と三味線である。兆民がおこした 門人2000人におよんだ仏学塾は漢学をこそ下敷きにした。
 しかし、その後の兆民がどのように三味線に親しみ、浄瑠璃に遊んだかは、まったく記録がない。それが癌宣告直後の『一年有半』で、あたかも伏流が噴き出るように義太夫の神技に酔う心が吐露される。

 どうみても兆民の義太夫への心酔は尋常ではない。
 そこで鷲見さんがいう越路大夫の聞き方のことであるが、『一年有半』の最初には「越路太夫の合邦ケ辻呼物にて、その音声の玲瓏、曲調の優美、桐竹、吉田 の人形操使の巧なる、遠く余が十数年前に聞きし所に勝ること万々」ということで、たしかに越路太夫を聞いている。二代竹本越路太夫である。
 が、そのあとすぐに「その後また越路の天神記中寺子屋の段を聞き、忠臣蔵七段において呂太夫平右衛門を代表し、津太夫由良之助を代表し、越路太夫於軽を 代表して、いはゆる掛合ひに語り、更に越路太夫が九段目の於石となせの取遣りを語るを聞き、また明楽座において大隅太夫の千本桜鮨屋の段を聞けり」とあっ て、越路太夫だけではなく大隅太夫ほかも聞いていることがのべられる。
 とくに竹本大隅太夫については、後段にも入院手術前に堀江の明楽座に聞きに行って、豊沢団平の名人芸をうけつぐ神品に酔ったこと、さらに壷坂寺の段で春 子太夫の語りののち、大隅太夫が法師歌を「夢が浮世か浮世が夢か」と謡い出すと、「ああ技此に至りて神なり」と陶然としている。
 そのほか二、三の浄瑠璃についての言及があるものの、これらだけでは兆民が義太夫に日本人の根本のようなものを感じていることはわかるとはいえ、それ以 上のことの説明はない。たしかに鷲見さんのように、われわれはそのことを思いつづけるしかないようなのである。

 こうしてぼくは、しばらく兆民と義太夫という関係を離れて、むしろ「兆民を生んだ時代と社会」の全貌に分け入ることにした。これはすぐさま、明治初期文 化の数々の謎そのものに介入していくという勝手な研究三昧の日々になる。
 研究三昧はベタに数年におよび、ファイルもたまり、やっと編集もそこそこのものになった。
 その成果がどの程度のものまで進んだかむろんはわからないが、その一端は兆民の「仏学塾」ならぬ「セイゴオ半塾」(青年が集ってぼくの話を聞く会)や、 桑沢デザイン研究所の「日本文化・明治篇」で披露した。そのきっかけが実は鷲見房子さんの婉然たる一言にあったということは、ここに明かすのがはじめて だ。

 ところで、『一年有半』にはたいそう興味深い「判釈」が出てくる。これは紹介しないわけにはいかない。
 おそらく、この「判釈」をほぼまちがいなく説明できるならば、明治文化がもたらした日本人が抱えた問題の本質、もっと端的にいうのなら日本人は何を見る べきだったのかという問題の一端がほぐれてくるのではないかとおもわれる。が、それができる人材は、いまはまったくいないだろうとしか思えない。
 兆民が何を判釈しているかというと、「余近代において非凡人を精選して、三十一人を得たり」というのである。これがすこぶる傑作なのだ。
 以下の31人である。
 兆民が並べた順に、綴りもそのまま書くと、曰く、藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋、竹本春太夫、橋本左内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ケ谷藤太郎、勝安房円朝、伯円、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢、越路太夫、大隅太夫、市川団洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、古川市兵衛、というふうになる。
 実に奇っ怪な顔触れである。生年順でもない。
 また、系統もついていない。
 ぼくとしては多少納得できないものもあるのだが、これが全生涯をかけた中江兆民の"遺言"ともいうべき近代同時代の日本人たちなのだ。

 なんといっても芸能者が多いのに驚く。おそらく説明しないとほとんどわからないだろうから、一言だけキャプションをつけておくことにする。
 東京亭猫八は大阪生まれの物真似名人(いまの猫八とはつながっていない)。紅勘は俗称で紅屋勘兵衛といわれた三味線名人だが、出自ははっきりしない。柳橋はのちに柳桜を襲名した三代麗々亭柳橋で人情噺を得意とした落語家である
 竹本春太夫・豊沢団平は「春太夫以来太夫なく団平死して三弦弾なし」といわれた希代の三味線名人、ここから越路も大隅も育っていく。越路は明治36年に 六代春太夫を襲名して摂津大掾を受領した。越路の弟弟子が大隅太夫だった。杵屋六翁は四世六三郎のことで、これは十代六左衛門とともに長唄三味線を中興し た。七代目団十郎のために長唄の名曲『勧進帳』を作曲した。桃川如燕・松林伯円は講釈師。新作を次々につくって一世を風靡した。
 和楓は清元から長唄にまわって独得の美声で鳴らした三代松永和楓のこと、林中は初代の常磐津林中である。一時、常磐津文字太夫を名のった。市川団洲は九 代目市川団十郎のことで、九女八は歌舞伎の女優で市川九女八。このほか、陣幕・梅ケ谷の相撲取りと三遊亭円朝があがっている。
 これらが坂本龍馬や勝海舟、藤田東湖や橋本左内、西郷隆盛や北里柴三郎と並んでいるわけである。伊藤博文・山県有朋らは注意深く除去されている。露伴や紅葉らの文学者が入っていないのは、まだ兆民の時代では北村透谷が自殺したばかりの時期で、大半の作家が20代・30代だった。ここにあがっている人物は60歳をこえた者ばかりとみていいだろう。

 なんだか兆民の不可思議なところだけを紹介するにとどまってしまったが、今日はこれでよしとしておく。つまりぼくは、いまは亡き鷲見房子おばあちゃんの問いにはいまだ応えられていないということなのだ。
 兆民が自由民権運動の主導者でもなかったこと、民主主義についてはルソーとはかなり異なる思想をもったこと、『続一年有半』の副題についているのだが、 終生「無神無霊魂」を貫いたこと、そして、日本の三味線音楽にぞっこんだったことだけを最後に強調しておこう。
 こんなふうに書いているところがある。

(常磐津・清元・長唄の話を綴ったのち)もしそれ歌沢に至つては、その中実に寸鉄人を殺す者あり。「色気ないとて苦にせまいもの」の一曲、及び「時鳥自由自在に聞く里の」の一曲、その他の如き即ちこれなり。



参考¶『一年有半』『続一年有半』はそのまま読んで十分にわかるとおもうが、口語訳は「日本の名著」『中江兆民』(中央公論社)に入っている。なお、原文は幸徳秋水らがうけとって編集したもので、序文には秋水の一文がそれぞれついている。

著者:中江兆民
中江兆民

加藤典洋
『日本人の自画像』
日本人は種的同一性のことばかり考えると言われているが、そんなことを話題にするようになったのは開国と不平等条約のなか西洋列強と伍そうとしてからのことで、それがイギリス人やイタリア人やスペイン人より濃いのかというと、そういうこともない。
 むしろ中江兆民が日本人の「恐外病」ないしは「侮外病」を警告したように、ガイコクやガイジンを気にしすぎるといったほうが当たっている。しかし、日本人が自分の自画像をまるでラカンの鏡像過程のように気にしているのはまちがいなく、自分で自画像を描くよりも、外から自分がどう見えたかを気にする。
 では、日本人自身はちゃんと自画像を描いたのか。どのように描いてきたのか。それはどこにあるのかというのが本書のテーマになっている。本書が検討する 自画像は荻生徂徠・本居宣長・福澤諭吉・柳田国男・江上波夫・小林秀雄・吉本隆明らによって描かれた自画像である。何を本書が検討したのか、かなりとばし ながら、そこにぼくの解釈をまじえて要約する。

 荻生徂徠は外国語と日本語を発見した。その本来のちがいに気がついたといってもよい。どのように発見したのか。たとえば、ここに「日本」という漢字2字 があるとして、これを何語といえばいいだろうか。これだけでは中国語とも日本語とも判断がつかないにちがいない。どう読むのか、どのような意味なのかとい うと、さらに当惑する。これと同じことに徂徠は直面した。
 酒井直樹は1996年の『死産される日本語・日本人』のなかで、日本人の種的同一性は、日本語を国民全体主義と個人主義を共犯関係にして成立させている ようなところがあると指摘した。そのうえで、たとえばいまあげた「日本」という2字を前にして、日本人はそれが本来的な言葉と意味をもったものなのか、外 来的な言葉と意味をもったものなのかを判断するところに追いこまれたと考えた。加藤もこのような酒井の指摘に促されて徂徠を検討する。

 徂徠の時代、日本人は書き言葉のなかですら漢文・和漢混淆文・擬古文・ひらがな和文・候文・歌文・俗語文などの多様な文章に出会っていた。それを日本人はおかしなこととはおもわず、許容していた。
 しかしあるとき、ここには何かが欠けていると感じた者が登場してきた。その一人が徂徠なのである。徂徠については第1008夜にあらかたの案内をしたので詳細は略すけれど、中国語を中国語のままに読むことにいったん戻れと言ったのだ。
 当時、藩校や町の儒者のところでは、『論語』学而の「過則勿憚改」という文章は「過てば則ち改むるに憚る勿れ」などと読み下して教えられていた。漢文訓 読法である。徂徠は前半期を独学で儒にとりくんだ。独学でとりくんでいたのがさいわいして、そのうち、このような漢文訓読はおかしいと気がついた。
 いまふうにぶっちゃけていえば“I am a boy”を「アイはボーイにしからしむるam者なり」と言っているようなもので、これでは英語を理解したことにも日本語をつくったことにもならない。
 徂徠は書物は「本来の面目」において読むべきものだという信念をもっていたので、「過則勿憚改」は中国語ふうに「コウ・ツェー・ホー・ダン・クァイ」と 読むべきだと考えた。チンプンカンプンでもまずそう読む。そう読めば、少なくともそれによって言葉が使われている場所が感じられる。そのうえで、今度は読 み下すのではなく、その言葉の意味を率直にとらえる。「しくじったらやりおなすことを遠慮するな」というふうに。訓じるのでは訳すのだ。こうして徂徠は、 漢文訓読法が「崎陽の学」であって「訳文の学」ではないと退けたのだ。
 なぜこんなことをしたか。チンプンカンプンなどなぜ必要なのか。そうすることによってこの文章が外国語で成り立っていることがわかるからなのだ。
 次に徂徠は、ひょっとすると中国人にとっても古代の言葉や文章は外国語のようなものだったのではないかと推理した。それなら中国の儒を学ぶには、もとも との中国の言葉の本来に戻って読まなければいけないのではないかと考え、そのような方法で孔子や孟子を読むことを「古文辞学」と名付けた。
 これによって徂徠が何を意図したかは、第1008夜に書いたように朱子学を批判した。中国中世の儒学が本来の儒学ではないことを乗り越えようとした。

   徂徠の古文辞学は、古言(ふること)をそのまま理解するほうが、妙な訓読や注釈を加えるよりずっと直截にその当時の思想が理解しやすいということを強調した。
 それはまた、「今言」によって歴史の起源をたどろうとすることが誤りであろうことを示唆していた。徂徠はそういう方法で日本人や日本語も発見したのだった。
 そこで本居宣長が登場して、徂徠の指摘したことの奥にはまだ片付いていない問題がある、そこに「漢意」(からごころ)があることこそがもっと深い問題なんだと指摘した。このことについても第992夜第564夜第387夜にふれたので詳しいことは省くけれど、いまそれをわかりやすくまとめれば、次のようなことになる。

 徂徠は、「外国人である中国人から見た外国人」である日本人を意識したわけである。つまり、日本人を向こうから見る方法で日本語をもつ日本人の自画像にアプローチしたわけだ。
 しかし宣長や、それに先立つ契沖や賀茂真淵が試みようとしたことは、朱子学を批判したり、儒学の本来を理解するために日本語や日本人を考えようとしたの ではなく、日本の古言(ふること)だけで日本人の思考の方法の根幹にたどりついてみようということだった。
 そのためには、もはや「日本人」という外在的な見方にとらわれることなく、もともとこの土地に育まれてきた言葉で日本人とか日本語とかとよぶことすら不 要になるような、純粋の思考ができるような方法を確立しなければならないのである。それにはまず漢意をアタマから排除する。ついでその純粋な思考を「真 心」あるいは「まことの道」とみて、その方法でたどった古言による古意(いにしえごころ)の世界を記述する(それが『古事記伝』になった)。
 宣長はこういうことを試みたのだ。加藤はこれが、日本人が試みた初めての自画像の制作方法の提示だったとみなした。これは「普遍」というもので「日本」を記述しようとした最初の方法だった。

 宣長は1801年に死んだ。それからまもなくしてアヘン戦争がおこり、中国がとんでもない晒しものになった。あの儒学と朱子学の国が列強の猛威に晒され、ガタガタにされたのだ。
 ここにおいて何が中国やそして日本にやってきたかといえば、ひとつには資本主義の原理の発動が届き、もうひとつには「万国公法(=国際法)」が届いてき た。つまり列強が用意した「普遍」がやってきたのだ。法学的にいえばグロチウスが『戦争と平和の法』に書いたことが押し寄せてきた。グロチウスは中世的な 自然法からトマス・アクィナスにはあった宇宙論的な背景を切除して、新たな人間中心の社会の法を普遍的なものにした。
 これは、中国も日本も国際的な関係社会の一員でなければならないことを強要するものだった。宣長にしてみれば、そんな必要はまったくない。「まことの 道」を歩んでいれば、外国も日本もないのであって、そのことを外側の目で、現代思想ふうにいえば他者の目でいちいち議論してもらわなくたってよかった。
 しかし、宣長ののちの時代はそれを許さない。たとえば佐久間象山はアヘン戦争の知らせを聞いたのち、やっと朱子学を捨てて洋学に走った。宣長の方法があることを象山は知らなかったのだ。
 象山だけではない。当時の知識人の多くが新たな普遍の刃の前で、それまでにない種的同一性に危機をおぼえ、それをもってナショナリズムに芽生えていったのである。
 そんなものは日本にはなかったのだが、そうなっていった。そのナショナリズムのひとつのかたちが尊王攘夷である。日本は外側を意識して、アヘン戦争ののちにナショナリズムをつくったのである。
 これは思想の問題ではあったが、実際には軍事力や経済力の問題として結果していった。思想の問題であれば、尊王攘夷にも「外側」の強要とぶつかって雌雄 を決するという方法はあったけれど、長州・薩摩が体験した下関戦争や薩英戦争はたちまちその思想を解体させてしまったのだ。

 明治になると、かつてはあったかもしれない「この土地の思想」というものが音をたてて崩れていった。それとともに「民族の記憶」よりも「国民の誕生」が志向された。
 三宅雪嶺の「日本人」や徳富蘇峰の「国民之友」は日本人の自画像を、民族像としてよりも国民像として描こうとした。あまつさえ、多くの思想は国権派と民権派に分立せざるをえなくなってきた。
 こうしたなか、福澤諭吉は独自な自画像のスケッチを試みた。福澤はまず「一身独立して、一国独立す」という立場をとって、国権や民権といった漠然とした集団像ではなく、一人一人において国や民族や世界や普遍を考えるしかないのではないかという考え方を前面に押し出した。それが明治維新直後のことである。
 ついで西南戦争が終わると、つまり明治維新が終わると、西郷隆盛が新聞などで一斉に国賊扱いされているのに呆れて、ひそかに『丁丑公論』に、こう書いた。
 これから書くことは、いま発表すると出版条例などにひっかかるだろうから、あえてひそかに「後世子孫」のために「現況」を書くのだが、それによって「以 て日本国民抵抗の精神を保存して、其の気脈を断つことなからしめん」とおもう自分の気持ちは伝わるだろう。自分は西郷とは会ったことはないし、西郷の行動 を擁護するものでもないが、その西郷の企てが破れるや、列島こぞって非難をしているのは我慢ができない。西郷は一度立って維新を成就し、二度立って目的を 果たせず、いま国賊として非難されているが、この二度のことはその思想も内容も同じことなのだ。そこには大義名分が正しければこれを果敢に実行に移し、ま ちがっているなら大義名分にすら抵抗するという精神が、「私情」においても貫いていることを示している。
 そもそもわれわれは国をつくるまでは私情で動き、維新がおこって国ができれば公的なりうるものだ。愛国心や忠君心といった公的なものは国家の子供のよう なものなのだ。しかし、国家をそれがないところからつくりあげ、それがたとえ滅びてもこれを支えるのは「私情」なのである。

 このように福澤は書いたのだ。
 これは有名な「痩我慢の説」と一対をなすもので、そこには日本国家のなかの私情による自画像というものが描かれていた。
 つまり福澤は、こう考えたのである。立国というものは一人一人の人間が他人と結ぶ関係を確立するもので、それゆえ立国された国と国は交易もし戦争もする のだが、それは「天然の公道」によってつくられたものではない。最初は私情によってつくられたのだ。ところが国が確立すれば、人間の私情は「立国の公道」 という大義名分に転移する。それは「人類の私情」ともいうべきものである。しかし、国家は立てられるものであるがゆえに廃されることもある。国家がなくな れば公道も根拠を失う。公的なものとは実は国を支えるのではなく、国に支えられるものなのだ。
 しかしながら、その亡国ののちにそこに残るものは「人類の私情」だけなのだ。痩我慢は、その無根拠の私情となった立国の最後の根拠を象徴しているのではあるまいか――。

 この福澤のスケッチは、宣長が無根拠として突き出した「もののあはれ」や宣長自身の生活思想であった「私有自楽」に通じるスケッチである。痩我慢とは「もののあはれ」を裏側から見たもの、国家確立後の精神のことなのである。
 それでは、このような宣長や福沢によって辛くも確立していた日本人の自画像は、近代社会がさらに進展するなかでは、どうなっていったのか。あいかわらず 少数者の自画像でありつづけたのか。加藤はここで柳田国男の例を出す。

 柳田国男が提案した日本人の自画像は「常民」というものである。常民の概念には変遷がある。
 最初は平地に住む定住生活者の意味として、ついで本百姓に象徴される稲作農民層をあらわす概念として、最後に日本人の意識をあらわす概念として、つかわ れた。もっとも、そこには民間伝承文化の担い手というイメージが一貫した。
 当初、柳田は「山人」に注目した。列島の記憶をさかのぼろうとしたとき、そこに異人としての山人が介在していて、その記録を集められればそこに先住民族 の痕跡を発見できると考えたからである。しかしその痕跡はあまりに少なく(実際には少なかったわけではないはずなのだが)、柳田は沖縄旅行とヨーロッパ旅 行ののち、列島に住む定住民に注目してそれを常民とよび、その常民が南島から稲とともにやってきたと考えるようになった。
 これはこれで明確な自画像のモデルの確立である。当然、日本列島に定着し、その後にマジョリティになった民間伝承文化の継承者を想定したのだから、これ は日本民俗学や日本民俗学の確立を意図したもので、それゆえのちに「一国民俗学」とよばれたように、日本人が残してきたものだけを学問することによって確 立しうる学問を、その後に柳田に続く者たちとともに形成するためのものであった。
 したがって、この方法を宣長の国学を継ぐ新たな国学だとみなす余地はある。柳田自身、何度かそのような発言もしていた。
 けれども、この常民のモデルは日本が農業や農政を基盤に国を富ませようとしているうちはともかくも、殖産興業や富国強兵を実現して軍事大国に向かうにつ れ、あやしくなってきた。いったい常民がどこにいるのかということになってきた(第1135夜に紹介した中山太郎から赤松啓介におよぶ民俗学は「非常民」を対象にした)。

 やがて日本は戦争に突入し、農民はただ鋤や鍬を捨てて戦争に駆り立てられるだけになった。むろんこのことは柳田の民俗学が有効にならなくなったことを意味してはいない。
 むしろそうした軍事日本とまったく無縁に、ひたすら過去の遺産に常民の声を聞くという意味で、柳田自身は戦争を超えていたともいえた。フォークロアに内在することが外在する戦争を超越したともいえた。
 しかし、戦争に大敗して焼跡に放り出された日本人にとって、もはや柳田の自画像は日本人の自画像とはなりえなくなっていたのである。内在にこだわった日 本は完膚なきまでに叩きのめされたのだ。こうして、ここに登場してきたのが、日本人の自画像を日本を征服した騎馬民族に求めるというものだった。

 江上波夫の騎馬民族説が敗戦後の日本人の人気を攫った理由は推測するに難くない。敗戦によって日本はアメリカを中心にした連合軍に乗っ取られたのである。日本は完全な敗者となった。
 ところが江上は、もともと日本は外からやってきた騎馬民族に乗っ取られたと言い出したのだ。その騎馬民族が大和朝廷をつくり、天皇一族をつくりだしたと 言い出したのだ。これは、奇妙な仮説だった。いったい日本人の自画像を内部に求めるのか外部に求めるのか、はっきりしていない。外部の内部化を自画像とす るというロジックだった。それに、この仮説を敗戦後の日本にあてはめるとすれば、マッカーサーこそが新たな騎馬民族の大王(おおきみ)ということになる。
 むろんこのようなことを吟味して騎馬民族説は人気を攫ったのではない。敗戦の鬱憤を吹き払うものとして、あるいは人間宣言をした神格天皇の一族ももとも とは“よそ者”だという突っぱねるような捩れがうけたにすぎないのかもしれない。しかし、柳田民俗学にとってはこれはとんでもない話だったのである。農耕 的で祭祀的で南方的であった日本人の自画像は吹っ飛んで、北方的で荒々しい武力に富んだ民族像がそれを蹂躙していったからだ。
 それはまた世界民族学が日本民俗学を包摂した瞬間でもあった。その魅力には岡本太郎が持ち出した縄文性なども加わって、いっとき日本人の自画像に大きな変更が加えられることになったのだ。

 いまでは北方騎馬民族説は学問的に否定されている。それはそうなのだが、当時はこのような学説は、他方では外部の文化の優秀性によって日本を批評すると いう方法ともぴったり重なってもいたといわなければならない。
 つまり、ドストエフスキーランボオやゴッホを持ち出すことが、あるいはマルクス主義実存主義を持ち出すことが、日本の新しい審美性すら培えるのではないかというものとして、大いに流行したのである。 
 そのような方法をはやくから確立していたのが小林秀雄である。昭和初期から戦時中を通して、小林は文芸上の騎馬民族説を立証しつづけていた。ところが、 その小林も敗戦後以降はしだいに転換していくことになる。それが第992夜にとりあげた『本居宣長』である
 小林の宣長論についてもおおかた省くことにする。ここではただひとつ、小林が宣長の方法に「言語共同体」としての可能性を見ていたことに注目しておくこ とにする。つまり小林は、宣長からは言語共同体としての自画像の描き方を継承したのだ。
 このような小林の継承に不満を申し立てたのが吉本隆明だった。吉本は次のように書いた。

    わたしは宣長にも、それに追従し「訓詁」する小林にも哀しい盲点をみつけだす。日本の学問、芸術がついにすわりよく落着いた果てにいつも陥いるあの普遍的 な迷妄の場所を感じる。そこは抽象・論理・原理を確立することのおそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。


 なかなか鋭い見解である。たしかに日本人の自画像、とりわけ文芸や芸能による自画像には、あたかも普遍的であるように見えて、実はそこから何も出てこない迷妄の場所というものがある。
 それを「無」とか「無常」とか「粋」とみなしていけばいくほど、その説明が何も生まなくなるようなものがある。これはそのような思索をする者の大半が、 科学や論理学や自然学と交わってこなかった欠陥でもある。吉本のように東工大で応用化学と少しでも交わった者にとって、このような“芸談”ふうなものに進 むやりかたは、どうにも肯んじられないものだったろう(ぼくはまったく逆で、物理学をどこまで極めようと、それとともにロックパンクも芸談がありうると考えている)。 

 吉本は結局のところ、このように自画像が傾いていくのはそこに「世界認識の方法」が欠けているからだと見たのである。
 吉本にも紆余曲折はあった。かつては吉本も文芸的発想のなかにいて、そこで「内面性の自由」さえあれば他には何もいらないと思っていたのだが、やがて文 芸的発想というのはつくづくダメなもので、よくってヘーゲル的な全円性、たいていは勝手な誤謬にはまりこんでしまうだけだと気がついていったのだった。
 ということは、吉本は「漢意をみくびってはいけない」という意識がはたらいたということなのである。小林は漢意にこだわる学者的なるものに対して、宣長 の生活者的なるものを対置した。それによって宣長の日本的自画像を擁護した。吉本はそうではなくて、むしろ柳田のように外からの視線を感じつつも、徹底し て内面の思考を貫徹する視線を国土に届かせようとした方法に共感をおぼえるのである。柳田は外の力を借りないで、いわば独自の漢意を日本の自画像につくり あげたのだ。常民などという概念は、そういう漢意をあらわしていた。
 こうして吉本は、柳田の『海上の道』が外側の吟味に応えうる「世界認識の方法」のひとつのやりかただとみなしたのだ。そしてそのうえで、柳田が稲作民に こだわったことによって、制度化された大和朝廷的なるもののいっさいにかかわることなく、日本の自画像を描出しようとしてきた方法に、宣長や小林に勝るも のを感じるのである。

 以上が、ぼくの勝手な本書の要約である。とくに加藤がどこを強調し、どんな用語でこれらのことを解説していたかということにふれなかったけれど、まあ、いいだろう。
 ぼくとしては加藤のお手並みや包丁さばきにおもしろいものを感じたので、その料理を皿に盛ってみただけなのである。

附記¶加藤典洋は『アメリカの影』(河出書房新社)で颯爽とデビューした。山形出身 で、東大のフランス文学科を修めて現代日本文学を専攻した。その後、『日本風景論』(講談社)、『日本という身体』(講談社)、『敗戦後論』(講談社)、 『可能性としての戦後以降』(岩波書店)、『日本の無思想』(平凡社)、『戦後的思考』(講談社)というふうに、一貫して日本の現代を問うて、本書にい たった。いまは明治学院大学の国際学部の教授だが、もっとメディアが引っ張り出して、そのユニークなコメントの包丁さばきを享受してみてはどうかとおも う。

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