世に倦む日日


NHKドラマ『坂の上の雲』と日露戦争の歴史認識 - 革命の防衛

NHKドラマ『坂の上の雲』が11/29からスタートした。 NHKの前宣伝の攻勢が凄まじく、普通の大河ドラマの20倍以上の規模で告知情報が投入されていた。制作発表からすでに3年が過ぎ、キャストの情報も巷に 周知され、メイキング映像も幾度となく紹介されていたから、正直なところ、やっと始まったかという感じが強い。キャスティングは実に成功している。秋山真 之に本木雅弘、秋山好古に阿部寛、正岡子規に香川照之。考えられる最高で絶妙のキャスティング。10年ほど前、秋山真之は誰がいいだろうと考えを廻らし、 真田広之かなと候補が浮かんだことがあったが、今なら本木雅弘がベストで、彼を抜擢するしかない。香川照之の正岡子規もいい。ぴったりと適役を選んでいる と誰もが納得する。キャスティングだけでドラマの完成度や説得力を確信できてしまう。それから、制作の着手は理由があって延期され、企画時点の予定よりも 大幅に放送開始が遅れたが、時代が変わり、自民党政権ではなく民主党政権の下での放送となった偶然についても、政治的に安堵の念を抱く。これがもし安倍政 権の下での放送だったら、一体どうなっていただろう。NHKドラマ『坂の上の雲』は、おそらく憲法改正に合わせた記念番組の意義を持たされ、時代の転換を 象徴するモニュメントとされていたに違いないのだ。改憲を祝賀する国民的行事として。  

『坂の上の雲』の放送に対して、有識者グループから「歴史認 識に誤りがある」として抗議が上がり、NHKに慎重な対応が要請されるという問題が起きている。報道記事によれば、このグループは、「(原作は)日露戦争を『祖国防衛戦争』と記しているが、ロシアが日本を侵 略しようとしていたことを示す歴史的事実はない」と指摘、NHKに訂正や補足を求めている。この問題は重要で、簡単な結論を言うのは難しいが、私の立場 は、有識者グループのNHKに対する要求には賛成するものの、彼らの主張を全面的に受け入れることはできない。記事は問題の断片だけが紹介されているの で、この有識者グループ(『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク)がどういう議論をしているのか正確に掴みにくいが、少なくとも、「(原作)が日露 戦争を『祖国防衛戦争』と記している」という点については、司馬遼太郎に即してもう少し丁寧な批判を加えるべきだと考える。『坂の上の雲』の文庫本第8巻 には、この小説の長い「あとがき」があり、作品全体で示された歴史認識を司馬遼太郎が総括している文章が載っている。司馬遼太郎の歴史認識が示された重要 文書であり、死後も頻繁に取り上げられ、論争の材料になっているテキストである。そこには次のように書かれている。

「人間と人生について何事かを書けばいいとはいうものの、この作品の場合、成立してわずかに三十余年という新興国家の 中での人間と人生であり、それらの人間と人生が、日露戦争という、その終了までは民族的共同主観のなかではあきらかに祖国防衛戦争だった事態の中に存在し ているため、戦争そのものを調べねばならなかった」(文春文庫 P.341)。「民族的共同主観」という言葉は、おそらく、「あとがき」執筆当時に日本の思想界で流行していた吉本隆明の「共同幻想」が意識されているよ うに私は思うが、それはともかく、司馬遼太郎の表現では、日露戦争は民族的共同主観の中で祖国防衛戦争だったと言っているのであり、学術的な歴史認識の定 義として祖国防衛戦争だったと断じているわけではない。この点については留意する必要があるように思われる。「あとがき」の中では、この表現とは別に次の ような言葉もある。「ロシアにとっては単なる侵略政策の延長線上におこった事変であるという面が濃いが、日本にとっては弱小であるがゆえに存亡を賭けた国 民戦争たらざるを得なかった。元老たちは戦争を回避しようとした。いずれにせよ日本は、別な文明体系へ転換してから三十余年後にその能力を世界史の上でテ ストせざるを得なくなった」(同 P.315)。

日露戦争は、果たして祖国防衛戦争であったのか、そうでな かったのか。仮に「民族的共同主観の上で」という限定を付してでも、日露戦争を祖国防衛戦争と呼ぶことは間違いなのか。この問題について、私は『追 悼と巡礼』のサイトに上げた記事の中で一つの結論(試論)を与えている。歴史認識というのは、どこまで行っても政治的立場の問題から離れる ことはできない。拠って立つ視座の何如によって、思想的立場によって歴史の見え方は違ってくる。歴史認識とは、学問的な問題であると同時に、きわめて政治 的な問題である。私の与えた結論とは次のようなものだった。すなわち、日露戦争は祖国防衛戦争と呼ぶのは不適当としても、歴史認識の表現として、少なくと も革命防衛戦争の側面があり、明治維新防衛戦争として性格規定することができる。それは、日本が朝鮮半島を侵略する侵略戦争であり、帝国主義侵略戦争であ ると同時に、明治維新という革命事業を防衛する革命防衛戦争だった。確かに、有識者グループが言うように、ロシア側に日本を侵略する意図など全くないのは 事実であり、その指摘は間違いない。だから、日本を侵略しようとするロシアに対する防衛戦争だったという認識はできない。だが、ロシアが朝鮮を侵略しよう とした事実については肯定できる。日露戦争は朝鮮半島の奪い合いの戦争だった。

このとき、司馬遼 太郎の言う「民族的共同主観」においては、当時の国民の多数の意識においては、朝鮮半島は日本の一部なのであり、明治維新という革命が外にエクスパンショ ンして獲得した「領土」の一部なのだ。明治維新の獲得物なのである。それをロシアに奪われるということは、明治維新という革命そのものの挫折を意味する。 革命防衛戦争であると同時に帝国主義侵略戦争。そういう戦争は歴史上数多くある。例えば、ナポレオンによるスペインやドイツやイタリアへの遠征と支配がそ うだし、トロツキー麾下の赤軍によるポーランド侵攻がそうだし、クロムウェルのアイルランド侵略もそうした戦争の一種と言えるかも知れない。毛沢東と人民 解放軍によるチベット侵略も典型的にそうだ。さらに、ホメイニ革命後のイラン・イラク戦争にもその性格が濃厚に窺える。革命は戦争を呼ぶ。革命は輸出され る。革命勢力は革命を近隣諸国に輸出する。革命で国内を武力統一した権力とエネルギーは、国境線をたやすく踏み越えて革命を外にエクスパンションするので あり、革命を経験した国民は、革命の激動の中で、従来の国境線の観念がすっかり変わってしまっている。つまり世界観が変わっている。ナポレオンの国民皆兵 軍とトロツキーの赤軍において、侵略は解放であり、戦争は世界革命の神聖な事業の一部だった。日本の明治維新もその点は全く同じだ。

明治維新は、西洋列強の東漸と侵略(ウェスタン・インパクト)をハネ返して一国独立を達成し、近代的な国民国家を建設 する革命だった。徳川幕府が結ばされた不平等条約の改正、すなわち半植民地状態からの脱却と世界の一等国入りこそが明治新国家の目的であり、その目的を日 本は日露戦争の勝利によって最終的に達成する。1911年の関税自主権の獲得である。このことは、中学高校の日本史の授業で強調して生徒に教えられる。歴 史を冷徹に見れば、明治維新という革命は、朝鮮半島を侵略して植民地にすることで成就されている。近隣他者の犠牲と抑圧の上で成果を花開かせている。日露 戦争とその勝利なしに、条約改正はなく、近代国家としての日本の独立はなかった。それが私の歴史認識であり、司馬遼太郎を擁護しつつ、敢えて言えば、有識 者グループと司馬遼太郎の中間に立ち位置を置く。今、スペイン人にとってのフランス革命やナポレオン戦争は、一体どういう歴史的意味を持って受け止められ ているだろうか。おそらく、その表象や観念はわれわれと同じではなく、それほど普遍的でピュアなものではなく、もっと複雑で薄暗いものではないか。燦然と 輝くものではなく、ゴヤの「マドリード、1808年5月3日」の薄暗さが纏わり付いたものだ。明治の日本にとっても、朝鮮への侵略は主観的にはアジア的停 頓と封建的呪縛からの解放だった。私は、決して明治国家の朝鮮侵略を肯定しているのではない。

革 命には両面性があることを言いたいのである。 確かに、小説『坂の上の雲』では日本の朝鮮侵略という基本的な歴史認識が欠落している。小説のどの章を読ん でも、当時の歴史の舞台において決定的に重要な朝鮮の動きが出てこない。完全に捨象されている感じがする。朝鮮は日本が実効支配する領土と領海の存在でし かなく、そこに人が出てこない。主張をしない。日本に都合の悪い問題は記述から除外され、「国民的共同主観」としての祖国防衛戦争の面のみが人間と国家の ドラマとして描き出されている。歴史認識としては一面的だ。だが、『坂の上の雲』が執筆された当時、アカデミーの近代日本史が明治国家を侵略戦争の機動機 関としてのみ捉え、日露戦争を帝国主義戦争としてのみ性格づけし、革命である明治維新の延長戦上に日露戦争を捉える視点が著しく欠落していたことも事実だ ろう。私の高校までの知識では、明治維新と日露戦争を繋げて考える視点はなかったし、大学で得た知識では、明治維新は最初から半島大陸に侵略する軍事的= 半封建的資本主義(講座派)が起動する除幕式でしかなかった。明治維新を革命として捉え、革命の最後の過程として日露戦争を描いたのは司馬遼太郎の歴史認 識(『坂の上の雲』)が最初である。私はこの歴史認識に説得され、現在もその延長線上にある。歴史認識は政治の問題であり、したがって、現在の私の政治的 立場は、日露戦争を帝国主義侵略戦争としてのみ強調する勢力とは一線を画する。

革命権力は膨張(帝国主義エクスパンション)の生理を持 つ。 



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