山本七平『現人神の創作者たち』1982 文藝春秋 ここでは『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』を採り上げることにした。 本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を落
としているのかを研究することにある。議論の視点は次の点にある。徳川幕府が開かれたのである。これは一言でいえば戦後社会だった。北条執権政治このかた
300年ほど続いた内戦と秀吉の朝鮮征討という無謀な計画の挫折に終止符を打ったという意味での、戦後社会である。 慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。 しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理
がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたという
ことを前提にしている。そこに”筋”がある。 一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。 ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。 中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。 けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみよう
とすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心
に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしま
うのだ。 幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。 ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。 幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。 闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。 これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。 安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。 こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。 参 考¶山本七平については『山本七平ライブラリー』全16巻(文芸春秋)がほぼ全容を押さえていて、ぼく自身は『静かなる細き声』(PHP研究所)などが山 七さんの生い立ちを綴ってウルウルさせられたものだが、ほかに『日本的革命の哲学』(PHP研究所)や『日本人とは何か』(PHP研究所)が本書の姉妹版 としては欠かせない。 なお、ここに述べた「慕夏主義・水土論・中朝論」といった言い方は、最近は「日本型華夷思想」「日本中華主義」などと呼ばれて、かなり新しい研究が進ん でいる。小池喜明『攘夷と伝統』(ぺりかん社)、荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会)、野口武彦『王道と革命の間』(筑摩書房)、桂島宣弘 『思想史の十九世紀』(ぺりかん社)などを読まれるとよい。また、丸山真男以降の国体論の研究については、最近は姜尚中の『ナショナリズム』(岩波書店) をはじめとする言及が抜群の冴えを示している。これもぜひとも参考にしてほしい。 |
東亜日報[社説]韓日海底トンネルの公式化提案、問題あり OCTOBER 23, 2010 02:59 http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2010102316198 韓国と日本の学者26人で構成された韓日新時代共同研究プロジェクトが22日に発表した報告書は、韓日関係の未来に向けた意味と明らかな限界を示している。両国は、民主主義や市場経済、人権などの価値を共有する北東アジアの主要国であり、両国の協力を越え、グローバルな問題解決のためにも力を合わせなければならない。両国は、未来志向的な協力のために過去と現在の認識を共有しなければならない特殊な関係でもある。さらに、今年が韓日併合100年という歴史的な意味を考えれば、これまでとは違う画期的な歴史認識が加害国である日本から出されなければならない時だ。 しかし、併合に対する同プロジェクトの認識は、今年5月に両国の知識人の共同声明に比べて大きく及ばない。当時、日本の知識人104人は、韓国の知識人109人とともに、「韓国併合は、大韓帝国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして実現された不義不正な行為である」と明示して、併合条約が当初から無効という共同声明を発表し、日本政府にこのような歴史の真実を受け入れるよう求めた。その後、参加する知識人が増え、最近までに日本で約560人、韓国で約590人が参加した。 いっぽう、今回の韓日の学者による報告書は、「日本は、武力で韓国人の反対を押さえ込み、韓国併合を断行した」という言及にとどまった。明白な過去の不法行為を認めず、「過去の重い歴史の事実を直視し、地平線の向こうの明るい未来を開拓しよう」と言うことは、空虚なレトリックに聞こえる。過去の真実を認めず、どのように過去を忘れないと言えるのか。強制併合が、「強迫による不法条約」であることを日本側が認めないのは、まだ心からの国家的反省が不十分だということを意味する。 同プロジェクトが選定した21のアジェンダにも、国民的論議を呼ぶ懸案が含まれている。両国の専門家たちが、海底トンネルの推進を含めたことは、性急であるだけでなく、誤解の素地が大きい。韓日海底トンネルは、日本の軍国主義時代に遡る。日本は1940年、米国の潜水艦などの海上攻撃を受けずに大陸に軍需物資を積み出す「不沈航路」を確保するために、海底トンネル工事を計画した。このような過去を見ず、海底トンネルを美化して、両国首脳への報告書に含めたことは不適切だ。日本側と特定宗教団体の海底トンネル推進ロビーについての風説も広まっている。トンネルが、両国の経済利益のために必要な点があるとしても、国民的論議とコンセンサスの構築が先行しなければならない。 韓日共同研究プロジェクトは、韓日首脳の合意によって発足し、昨年2月から20ヵ月間の議論を経て報告書を作成した。十分な時間があったにもかかわらず、問題の素地が多い提案をしたことは残念だ。両国首脳がこの報告書をもとに「韓日新時代共同宣言」をするなら、大幅な補完と修正、そして国民の合意が必要だ。 |
勝海舟 『氷川清話』 1914・1972 講談社学術文庫 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0338.html 勝海舟は明治32年まで生きていた。西郷・大久保が倒れ、帝国議会が生まれ、日本が日清戦争に勝って三国干渉で屈辱にまみれていたところまで見ていた。 晩年は赤坂にいた。明治5年に静岡から戻ってずっといたのだから、25年も棲んでいたことになる。氷川である。 松岡正剛事務所と編集工学研究所は赤坂稲荷坂に越してからは、毎年正月を氷川神社に挙って初詣をすることにしているのだが、その氷川神社のそばに寓居した。77歳で亡くなった。 幕末維新のすべてを見聞した男で、かつ自由な隠居の身で好きなことを喋れる男は海舟しかいなかったから、その氷川の寓居には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きした。それを人よんで「氷川清話」という。 新聞連載を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名だが、そのほかに巌本善治の『海舟余波』もある。子母沢寛や司馬遼太郎も海舟を描いて存分ではあるが、本人の言葉だけでできている清話は、もっと格別である。 話は、自分が「海舟」という号をおもいついたのは佐久間象山が「海舟書屋」と書いたのを見て、それがよくできていたからだったというところから始まり、 咸臨丸による渡航ののち浦賀に着いたとき、桜田門の変があったと聞いた瞬間に、これはとても幕府はもたないと見たというように進んでいく。 なるほどそうかと思わせるのは、幕末維新で「広い天下におれに賛成する者なんて一人もいなかった」というくだりで、海舟はそういうときは「道」という一 文字を思い描いて、ひたすら自分で自分を殺すまいと誓っていたらしい。その海舟の気持ちをわずかに理解していたのは山岡鉄舟くらいのものだったという。 それから人物論に入っていく。おそらく聞き手があの人はどうでした、この人はどんなもんですかと聞いたからであろうが、海舟は大人物というのは百年に一人現れたらいいほうで、いまの御時世からするとあと二百年か三百年のちになるだろうというような見識なので、容易に人物批評はしない。 なかで、「いままでに天下で恐ろしい人物がいるものだ」とおもったのが二人いて、それは横井小楠と西郷隆盛だという。小楠は他人には悟られない人物で、 その臨機応変は只者でなく、どんなときも凝滞がない。つまり「活理」というものがあった。南洲はともかく大胆識と大誠意が破格で、その大度洪量は相手の叩 く度合いでしか動かない。 それにくらべると、藤田東湖などは国をおもう赤心がこれっぽっちもなく、木戸孝允は綿密なだけで人物は小さく小栗上野介は計略には富んでいたものの度量 が狭かった。榎本武揚や大鳥圭介なんてのはただのムキになるだけの連中だ。 そんな忖度のついでに、山内容堂には洒落があったから英雄になれたのではないか、近江商人は芭蕉の心を生かしている、芸者や職人と付き合えない奴はなにほどでもない、おれが放免してやった泥棒たちの話に時代を読めるものがひそんでいたねえ、などという炯眼キラリと光る雑談がまじっていく。 海舟は「時勢が人をつくる」という見方を徹している。また、今日の時代(明治後半)は「不権衡」であるとみなしている。不権衡とは不釣合いという意味 で、バランスがないということ、こんなときに何を焦ってもうまくはいかないというのだ。 このあたりの清話はまさに政談で、今日の日本の政治家や経済学者にもよく聞かせたい。こういうことを言っている。 政治家の秘訣は何もない。知行合一をはかるだけである。ただ、国家というものは、1個人の100年が国家の1年くらいにあたるから、この時間の読みをま ちがえてはいけない。内政については地方をよく見るべきで、昔なら甲州・尾張・小田原だ。そこに秘訣が潜んでいた。 外交は、いったい誰が外交をするかということが重要で、その外交にあたった者はともかくいっさいの邪念を捨てて臨む。明鏡止水の心境をもたなければいけ ない。しかし、ひとつだけ外交の秘訣をいえば、それは「彼をもって彼を制する」ということだ。 それから外国に安易に借金をしないこと、軍備を拡張しすぎないことである。軍備がなければ国は守れないが、軍艦ひとつ1マイル走らせれば1000両かか るのだから、よくよく気をつける必要がある。逆に軍備縮小については、これを吹聴してはならない。軍事はあんなに重装備のものだが、実は呼吸なのである。 海舟の政談はまだ続く。 問題は経済で、と言う。たしかに経済がいちばんややこしい。しかし最初にはっきり言えるのは、まずもって経済学者の言うことなんて聞かないことだ。政治家が経済学者の言葉に耳を傾けるようになったら、おわりだというのである。そのうえで、言う。だいたい「日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはな い」。理屈では何も変わらない、それが経済だ。人気と勢力がすべてをゆっくり変えていく。 ただし、「然諾」(約束)というものだけは守らなくちゃいけない。この、経済の然諾を何にするかというのが難しい。人民が喜ぶからといって、おいしいこ と、いいことばかりを最初に約束してしまっては、あとが困る。大切なのは根気と時機(施策のタイミング)なのである。 海舟は実は経済施策につねに関心をもってきた。関心があるだけではなく、実際にもいくつもの手を打っている。 金の配分にも絶妙なところがあって、いつもタイミングをずらしている。もともと海舟には貨幣とか通貨というものに国家の秘密を嗅いでいるようなところがある。『全国貨幣総数大略』などという著述があるほどなのだ。 けれどもその一方で、経済の本当の活性化は、「待合や料理屋や踊りの師匠や三味線の師匠た ちを繁盛させられるかどうか、そこにかかっているのだ」という。これはかなりの卓見である。江戸本所に生まれて赤坂に死んだ江戸っ子気質が言わしめたとは 片付けられないものがある。実際にも、幕末の江戸の経済のため、海舟はそういった連中にお金をまわすのを忘れなかった。そのため、江戸は幕府倒壊の渦中ですら、おおいに繁盛していたのである。 海舟は行政改革や地方自治についても発言をしている。 行革をやるのはいいが、その方針がたったからといって何もできはしない。ケチな連中を相手の行革なのだから、そのケチにケチを言わせないようにやらなけ ればならない。方針なんてお題目で、それはそれで措いておきなさいというのだ。「それより改革者が自分を改革していることを見せるのが一番の行革なん だ」。 もうひとつ、猟官を出さないこと、出したら取締まること、これである。 地方自治の問題だって、いまさら珍しい名目じゃない。徳川を見なさい、すべては地方自治だった。それを真似ろとはいわないが、上からの地方自治をいくら 提案したってダメだろう。名主とか五人組とか自身番とか火の番とか、かつての工夫があったように、そういう工夫をもっと大きな仕組みで提案したほうがい い。 もうひとつ注告がある。それは政治家はめったに宗教に手を出さないことだ。これはとんでもない大事をひきおこす。それこそ「祟り」が返ってきかねない。そんなことも言う。 こうして海舟が「真の国家問題」として重視したのは次のことである。「今日は実に上下一致して、東洋のために、百年の計を講じなくてはならぬときで、国家問題とは実にこのことだ」。 おれも国家問題のために群議をしりぞけて、あのとき徳川300年を棒にふることを決意した。そのくらいの度量でなければ国家はつくれない。ただ、これからは日本のことだけを考えていても、日本の国家のためにはならない。よく諸外国との関係を見ることだ。そのばあい、最も注意すべきなのが支那との関係で、 すでに日清戦争でわかったように、支那を懲らしめたいと思うのは、絶対に日本の利益にならないということだ。 そんなことは最初からわかっていたことなのに、どうも歯止めがきかなくなった。これはいけない。支那は国家ではない。あれは人民の社会なのだ。モンゴルが来ようとロシアが来ようと、膠州湾が誰の手にわたろうと、全体としての人民の社会が満足できればいいのである。そんなところを相手に国家の正義をふりまわしても、通じない。これからは、その支那のこともよく考えて東洋の中の日本というものをつくっていくべきだ。 この海舟の読みは鋭かった。まさに日本はこのあと中国に仕掛けて仕掛けて、結局は泥沼に落ちこんで失敗していった。 かくして昭和の世に、勝海舟は一人としていなかったということになる。 参 考¶勝海舟にはすこぶる著作が多い。順にいえば『亡友帖』『断腸の記』『吹塵録』『吹塵余禄』『外交余勢』『流芳遺墨』『追賛一話』『開国起原』『幕府始 末』などを著したほか、請われて『海軍歴史』『陸軍歴史』『府城沿革』『全国貨幣総数大略』などの編集にも携わった。以前は改造社が10巻の全集を、勁草 書房が22巻の全集を刊行していたが、現在は講談社から決定版ともいうべき『勝海舟全集』全22巻が出版されている。本書『氷川清話』もいろいろ版がある が、ここで採り上げたものが一番いい。江藤淳と松浦玲が編集したもので、吉本襄があやしげな換骨奪胎をしているのを元に戻し、さらにそうとうの補充をし た。読むならば講談社学術文庫版である。もっとも、ごくごく現代語で軽く読むには勝部真長編集の『氷川清話』(角川文庫)がある。 ────────────────────────────────────── 深沢七郎『楢山節考』 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0393.html 山梨に石和温泉がある。ときどき訪れる。途方もなく大きな岩石や鉱物を、庭や風呂だけでなくどの座敷にも入れてある変な旅館があって、そこが気にいったためである。 深沢七郎はその石和に生まれた。少年時代はギターばかりひいていたようだ。青年になっても壮年になってもギターを捨てがたく、日劇ミュージックホールに 出演などしていた。それがどうしたことか、思い立って小説を書いて応募した。『楢山節考』である。これが第1回中央公論新人賞になった。 選者はいまでは考えられないくらいの羨ましいメンバーで、伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫があたっていた。三人が三人ともこの作品の出現にショックをうけたようだ。「私」とか「自由」とか「社会」をばかり主題にしていた戦後文学の渦中に、まるで民話が蘇ったかのような肯定的ニヒリズムがぬくっと姿をあらわしたからだったろう。 その後、深沢七郎の文学は、批評家たちからはアンチ・ヒューマニズムであるというふうに言われるようになった。 この用語はロラン・バルトな どもつかっているが、わざわざ深沢七郎にあてはめても仕方がない。こういう用語で処理しようというのは日本の文芸評論の悪い癖で、だいたいヒューマニズム などという概念が多くの良質な日本文学にさえあてはまらないし、ましてその西洋的なヒューマニズムに対抗する思想としてのアンチ・ヒューマニズムを『楢山 節考』のために用意したところで、どんな解説にもならない。 それならそれこそアンドレ・マルローではないが、深沢七郎の作品性はそれ自体が何にも属さない「連綿たる一個の超越性」であるなどと言ったほうが、よほど気分がいい。 さきほどぼくがつかった「肯定的ニヒリズム」という言葉にしても、伊藤整・ 武田泰淳・三島由紀夫のショックをいいわらわすために、武田泰淳自身が「そうだねえ、まあ明るいニヒリズムというのかな、肯定そのものが無であって、無そ のものから肯定が出てくるような、そんな印象だったね」と、のちにぼくに語ってくれた言葉から選んだものにすぎず、武田泰淳とてそれで何かを説明するつも りなどないはずなのである。 それで思い出すのは「深沢味噌」で、ぼくはこの深沢さん特製の味噌をいつも武田家から分けて貰っていた。 なぜこんな話を持ち出すかというと、武田泰淳にとっても『楢山節考』は深沢七郎がつくる味噌のようなものとしか、いや味噌の練り味そのものだとしか言いようがなかったはずであるからだ。 ぼくは『楢山節考』を発表すぐに読んでいる。中学生だから、何をどう読めたかはおぼつかないが、それから10年ほどして学生時代に読み、あとは映画を見た。 さらにゲッチンゲン大学の日本研究センターのリヒターさんが、ぼくに関心をもって来日したとき、何かのはずみで深沢七郎の話になって、次に会ったときにその話を聞きたいと言われ、それでまた久々に読んだ。 ところが、これらの数度にわたる読後感がほとんど変わらないのである。これはむろん読む者の力のせいなんぞではなく、『楢山節考』がもたらす味噌の味が変わらないということなのだ。ちなみに市川崑の映画は気にいらなかった。 ついでにいえば、中村光夫の「夢と現実のまざった無気味が出ている」、大岡昇平の「選ぶ言葉に喚起力がある」、平野謙の「棄老伝説のおそろしさ」といった批評もつまらなかった。 ぼくが読む『楢山節考』は歌物語だということである。 その歌はもちろん多少は日本の山村に伝えられてきたものであるが、むしろ深沢七郎が好きにつくった歌だといってよい。その歌が伊勢物語のように(マザー グースのように、と言ったほうがわかる人が多いだろうが)、おりんが楢山に負われて捨てられていくまでを追いたてる。 そういう作品なのである。実際にも作中でつかわれている歌、すなわち楢山節は、深沢七郎が作詞作曲をした。楽譜を見るとフラメンコ風である。
いくつの歌が作中に入っているか数えていないが、おそらく20近い歌が、物語の進行にしたがって出てくる。そのいちいちが作中人物がらみのもので、しか も作者はその歌の意味をことこまかに説明をする。まるでそれらの歌に引きずられて登場人物がなりふりを合わせているようにも、読める。 実際にも、そうなのだ。この姥捨の習慣が続く山村には、深沢がつくりたかった歌以外の出来事はおこらない。まず貧しい。食いぶちがない。祭りは一年に一 度だけ、嫁入りには式も披露宴もない。合意だけがある。何かがそのようにあれば、ただそのようなことがおこるだけの寒村なのである。正月もとくになく、仕 事を休むだけなのだ。 深沢はそのような寒村におこる出来事のすべてを、歌を挟んで説明をする。いや、歌が響きわたるように物語を綴ったのだ。 不思議なことに、歌というものは30年前に唄った歌をいま唄っても、その印象はそんなに変わらない。その歌を10年前に唄ったときも、きのう唄っても、それほど変わらない。 これは和歌などにもあてはまることで、いつ口にしてみても、一定の響きと意味を唱え出す。 深沢七郎にはそのような唄をつくる才能がある。それも作詞だけではなく曲が一緒になっている。深沢自身もプレスリーやロカビリーが好きで、ウェスタンに走っていたころは埼玉県の菖蒲町にラブミー農場を営んだ。 その作詞作曲のように小説があり、ララミー農場のように小説があるだけなのである。そう見たほうがいい。 だから、こういう作家がいるからといって、それをむりやり文芸評論の範疇で定義したり解説しようというのは、同慶のいたりではあるけれど、やはりとんちんかんになる。 それでもそうしたくなるのは、小説というものを何がなんでも「文学」という牙城に入れたいからで、許されるのなら放っておけばいいのである。 深沢七郎とはそういう生きた作品なのである。べつだんここで洋の東西を比較したいのではないが、いってみればボリス・ヴィアンなどもそういう生き方で小説を書いていた。 ところで、ぼくは『楢山節考』を読むたびに、泣いた。楢山に雪が降ってきたところなど、困るほどだった。 そのように僕が泣くのをわかっていて、辰平に「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」と言わせるあたりは、 これは深沢七郎の憎いほどの、しかしながら歌を作ったり唄ったりすることが好きな者だけが知る演出なのである。しかしそれは、ぼくが野口雨情の唄に何度でも泣くように、深沢七郎が自分のつくった歌の泣きどころをよく知っているということにすぎないのであろう。 物語は最後にこんな歌が出て、終わる。これが最後の最後の一行になっている。
誤解と偏見の中に−深沢七郎 |
頼山陽
『日本外史』上・中・下
1982 岩波文庫
original
頼成一・頼惟勤 訳注
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0319.html
親友の湯川洋が『日本外史』を読もうよと言ってきた。「勢極まれば即ち変ず。変ずれば即ち成る」なんていいじゃないかというのだ。九段高校2年の冬である。
湯川は山岳部で、いつも未到の山を物色しては計画をたてている山男。日本史にとりくむにあたっても、教科書や受験参考書ですませるような輩(やから)で
なく、なんだか歴史を山岳のように踏破したいという意気込みなのである。こちらは歴史にそれほどストラグルをもちこもうなどという気はなかったのだが、つ
いつい意気込みに押されて、うん、いいよと言ってしまった。
読みはじめて、原文が漢文であるのにたじたじとなった。が、これは読み下しがあったので、それを読んでバイパスを通ることにした。それにしても、異常に長い。改訳以前の岩波版でも1冊にたっぷり1カ月がかかった。
結局、春休みまで費やしてだいたいは目を通したのだが、途中に湯川との論争が介在するので、頼山陽を読んだというより、日本史を飾った武門をものがたる名調子を素材に、高校生が勝手な議論をしたという印象が強かった。
かくして、ごくごく早期に『日本外史』には付き合ったことになるのだが、またこれによってぼくは早々と日本史(人物中心型の武家の歴史)というものをと
もかくも通史的にアタマに入れたことになるのだが、さて、その後、ときどき頼山陽の考え方を各所でちらちら見るにつけ、どうも『日本外史』にはいろいろ問
題があるらしいことを知るようになっていった。
最初は中村真一郎の大著『頼山陽とその時代』だった(ぼくはこれ以降、中村真一郎の研究に敬意を払うようになる)。これでけっこう考えさせられた。次は『日本外史』を「日本の名著」で現代語に訳した頼惟勤である。ソツのない記述だが、いろいろ知らないことが見えてきた。ついでしばらくたってからのことだが、野口武彦の『江戸の歴史家』を読んで、また考えこんだ。
この三つの評価だけでもかなり異なっている。さて、どうしたものかとおもった。
案の定、山本七平さんと頼山陽の評価をめぐる雑談をしたときなどは、ぼく自身の評価軸が左右に大きく振れていることにみずから気がついたほどだった。
加えて、40代に入ってからは山陽の漢詩を読むようになり、さらに京都の骨董屋から山陽の書をいろいろ見せられ、そういう方面の山陽に惹かれることに
なった。大垣の江馬細香との交際がおもしろく見えてきたころは、どちらかというと細香に一途の気持ちを感じて、山陽には軍配をあげかねたのだけれど、それ
でも山陽のネットワークの広さや重みを知って、見直した。
どうも『日本外史』だけを単独に批評する立場ではなくなってきたのである。
『日本外史』はその叙述に漢文が選ばれただけでなく、独得の文体をつかっている。
冒頭の例言にあえて「けだしこの間、宇宙いまだかつてあらざるの国勢あり。これを叙するにあたって、宇宙いまだかつてあらざるの文体を用ふべし」と、その文体についての気概を仰々しく言挙げしているほどなのだ。
もともとは『史記』の「世家」と『春秋左氏伝』に刺激されてのことである。牧百峰に送った手紙にも「僕、法を左・史の二書に取る」とある。ぼくは試みな
かったが、この文体は音読するにもってこいである。山陽の歴史的浪漫主義に埋没したい者には、ことに音読がふさわしい。実際にも幕末の志士たちは『日本外
史』を朗唱して、勤皇佐幕の歴史を分かつ夢中に突入していった。
構成も折り目が際立っている。自分がすごした時代が徳川の武家の世だったので、通史とはいえ武家の時代の流れだけを扱っているのだが、それを、源氏正
記・新田氏正記・足利氏正記・徳川氏正記というように、まず「正記」を中心におき、これに前後をつけて、たとえば「足利氏正記」なら「後北条氏・武田上杉
氏・毛利氏」というふうに割った。
この構成法は山陽の歴史観を明白にするのを手伝っている。新田氏正記の前に楠木前記をおいて、南朝正統論を称揚することなど、最もわかりやすい例である。
では、このような手法を駆使して山陽が主張できたことは何かというに、これまではその南朝重視史観や勤皇思想が指摘されてきたのだが、あらためて頼山陽を考えてみると、必ずしもそうでもないところが目立つ。
その前に言っておかなくてはならないのは、すでに江戸時代には『日本外史』に先行していくつもの日本史論があったということである。このことは江戸時代
という歴史的現在が進行する中で、いったい当時の知識人がどのように「日本という歴史」を見ていたかということを考えるのに欠かせない。
最初は大久保彦左衛門の『三河物語』や堀正意の『参河記』などの大御所家康にまつわる伝記的なものである。それが林羅山と林鷲峰の父子による『本朝通鑑』で、一挙に通史化していった。これは司馬光の『資治通鑑』に倣った編年体によるもので、家光が『日本書紀』以来の国史の編集を命じたためだった。林家は苦心して全体を「綱」(目録)と「目」(本文)とで構成してみせた。
『本朝通鑑』は家康のマキャベリズムともいうべき王道論を生かしている。
当時の家康にとって気になるのは、自分が豊臣家を滅ぼしたことが「臣を以て君を伐つ」とした中国の湯武に匹敵する行為だったかどうかということ(いわゆ
る湯武放伐論)、ちょうど徳川幕府の成立前後に滅びていった中国の明には「道」はどのように説かれていたかということ、そして朱子学によって自身の歴史観
を正統化するにはどうしたらいいかということだった。
『本朝通鑑』はこうした家康のマキャベリズムに応えて、これを合理化してあげればよかったのである。それが徳川幕府が儒学を受容し、藤原惺窩や林羅山ら
の儒者をかこい、かれらによって徳川幕府の歴史を合理化すべき日本的歴史主義を確立しようという目的そのものだった。
しかし、次に編集が始まった水戸光圀の大号令による水戸藩あげての『大日本史』執筆では、家康のマキャベリズムを離れた史観がいくつか導入されていく。たとえば天武が壬申の乱で皇位についた事実を記述するにあたっては、それまで扱いにくかった大友皇子を前にもってきて、帝紀に列することにした。水戸史学の登場である。紀伝体を採用した。
こうした変化は、やがて江戸の知識人たちの歴史観に微妙な議論をすべりこませた。
神国史観の提言ともとられかねない山鹿素行の『中朝事実』、歴史を「経・子・史・集」で分類した荻生徂徠の『経子史要覧』、水戸史学とも徂徠とも重なっている安積澹泊の『烈祖成績』や『大日本史論賛』、あくまで歴史リアリズムに徹しながらも天命観を交えた新井白石の『読史余論』や『古史通』や『藩翰譜』、そのほか栗山潜鋒の『保建大記』、三宅観瀾の『中観鑑言』、中井竹山の『逸史』、中井履軒の『通語』などは、そうした変化にもとづいて叙述がこころみられた歴史書である。
これらのうち、白石が武家政権史を綴った『読史余論』が頼山陽に与えた影響は大きく、明治期すでに『日本外史』はあまりに白石の視点を援用しすぎているという批判が多かった。
湯川洋が「勢極まれば即ち変ず。変ずれば即ち成る、なんていいじゃないか」と言った、その「勢」と「変」のダイナミズムによって日本の歴史を語ってみせ
たのは白石だったのである。これをふつうは白石の「九変五変観」などという。山陽はこのような白石の歴史観を踏襲した。
それなら山陽が白石を丸写ししているのかというと、そういうわけでもない。だいたい白石の歴史実証主義と山陽の歴史浪漫主義は相いれない。その差は微妙であって、また決定的だった。それを見るには白石の時代と山陽の時代の差を見る必要がある。二人とも、歴史の転換には「天」の立ち会いがあるとみなしているのだが、その「天」がちがっていた。
この時期、というのは頼山陽が生きた文化文政天保のこと、および山陽の『日本外史』がさかんに読まれることになる嘉永安政のことをさすのだが、日本は歴史の荒波をどうかいくぐるかという決定的な分岐点にさしかかっていた。
いいかえれば、「千夜千冊」第61夜にマイネッケの『歴史主義の成立』をとりあげたが、日本はまさにどのように歴史主義を確立するかというところにさしかかりはじめたわけだった。
天保3年に53歳で逝った山陽が書いた『日本外史』という歴史書は、その直後のペリーの黒船来航の世の驚天動地のあとに読まれることになる。それゆえ
『日本外史』は勤皇佐幕の立場を分かつ踏み絵ともなっていく。勤皇の志士たちが山陽の叙述の名調子のうちに「勢」を変ずる「変」を読もうとしたのはそのた
めである。かれらは山陽の言う「天の立ち会い」がおこるにちがいないと見たわけだ。その「天」は徳川ではなかった。日本の歴史をどこかで牽引してきたはず
の「天」である。山陽はそのことを『日本外史』の随所にふれていた。
志士たちは、山陽の歴史記述の裡に王政復古思想が芽生えているじゃないかとみなしたわけである。
ところが、必ずしもそうではないのではないかという見方が出てきた。
野口武彦の『江戸の歴史家』がその代表的な見方だが、山陽は封建制の発生と発展を描いたのであって、ストレートには勤皇思想など鼓舞していない。それで
も、幕末の志士たちがそこに王政復古思想を読みとったのは、山陽の歴史観がたとえ浪漫主義的なよそおいをもっていたとしても、封建制の発生や構造を執拗に
描いたからではないかというのである。
実は、ぼくはこの見解の真意をちゃんとつかんでいない。あるいはそうかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし、それほどに頼山陽の『日本外史』の読み方には日本の歴史の分岐点を浮上させるものがあるということなのだろう。
それには水戸史学のその後の大胆な動向や、国学による日本史観の問題、さらには山陽に触発されて国民の歴史に挑んだ明治の徳富蘇峰のことなど、あれこれ眺める必要がある。
ましてやいまは日本史の高校教科書がアジア諸国で俎上にのぼっている時期である。日本史をどう見るかというよりも、日本史を見る歴史家をどう見るかということが、新たな問題になる。
そういう意味では、ひとつだけ本音を言うが、頼山陽を高校生にどう伝えるかということだって、ほんとうはめんどうなことなのだ。
参考¶『日本外史』は22巻ある。これをどう読むかは、ぼくの高校時代から40年たっているものの、まだ難しい。いま出まわっている岩波文庫の『日本外
史』は改訳版で読みやすい。頼山陽の名調子を"聞く"にはこれを読むとよい。ともかく通史を読みたいなら「日本の名著」28に入っている「頼山陽」の現代
語訳が早いのだが、これは抄訳だ(中央公論社)。研究書もおびただしいが、一般向けはほとんどない。ぼくが中村ファンになったきっかけの中村真一郎の『頼山陽とその時代』(中央公論社)、野口武彦『江戸の歴史家』(ちくま学芸文庫)がやはり参考になる。
ヴィクター・コシュマン
『水戸イデオロギー』
1998 ぺりかん社
J.Victor Koschmann : The Mito Ideology
田尻祐一郎・梅森直之 訳
佐藤一斎は水府学と言った。明六社の西村茂樹(592夜)が水戸学と名付けたという説もある。これは深作安文の説だった。天保学ともいわれた。
しかし、水戸学といっても、広くて、長い。決して細くはないし、短くもない。水戸の徳川光圀が『大日本史』編修を発起した明暦3年(1657)から数え
ても、それが完結したのはやっと明治39年(1906)なのだから、それだけで250年をこえる。これはケルン大寺院の建築期間に匹敵する長大な長さだ。
長いだけでなく、ここには日本の近世史と近代史の最も重大な変革期がすっぽり入ってしまう。そのあいだ、水戸学が日本イデオロギーの中心を動かしていた
とは、言いにくい。そんなことはない。その期間のどこかにだけ水戸イデオロギーが関与したと角砂糖を数えるように限定することも、難しい。そんなこともな
い。角砂糖は溶けた。
水戸イデオロギーを儒学や国学の箱に収めるのも難しい。そういうふうにはパズルは嵌まらない。それらをはみ出ているとも、それらを含んでいるともいえ
る。しかし、水戸学はまた「一国学」ともいわれていて、どこかに追いやられているようにも見える。どこか「べつ」のところに――。
『大日本史』 |
光圀は18歳のときに『史記』伯夷伝を読んで、その高義を慕って修史の志を立て
た。大井松隣による代筆ではあるが、「史筆によらずんば、何をもって後の人をして観感するところあらしめん。ここにおいて慨焉として初めて史を修むるの志
あり」という有名な序文がある。実際にもそのくらいの気概をもった青年だったろう。
その志はゆるがず、30歳で史局を江戸神田の別邸に設けて、広く“史人”を集め、以来、「彰考館」を編纂研究所として日本史の解明解読に努めた。こうし
てゆっくりと姿をあらわしてきたのが、250年をかけた『大日本史』である。厳密にいうのなら、この修史の開始日が水戸学のおこりにあたる。ある日の編集
会議が水戸イデオロギーをつくったのである。
江戸中期、その『大日本史』編纂におよそ半世紀にわたる中断と停滞があった。
そこで水戸学を、この中断を挟んで前期と後期に分けるのが研究者たちの見方になっている。この後期水戸学の集中的勃興が天保だった。だから天保学ともいった。
ところが、この前期水戸学と後期水戸学ではその思想も様相も活動も、馬と牛のごとくに大きく異なっている。前期は日本の歴史を幕府の史書とは別に独自に
解明しようという馬だったのだが、後期は尊王攘夷というイデオロギーと密接に結びつく牛になった。そればかりか『大日本史』の編修方針もかなり変化して、
たとえば後期においては神代の神話的出来事も史実に記述しようとした。
本書はその後期水戸学に焦点をあてて、シカゴ学派特有の方法論的な分析を加えようとした一冊である。
今夜は、前夜の陽明学につづいて、ぼくとしては長らくほったらかしにしていた水戸学をめぐる。
会沢正志斎といい藤田東湖といい、久々に目を通すものばかりなので、書くのに時間がかかりそうだが、それよりも、こういう主題をなんとか今日のインター
ネットの画面に走らせて、なお何かの息吹を感じさせようとすることが、そもそも陽明学や水戸学がかつてはあれほど時代のエンジンの役割をもっていたのに、
いまは遺棄された戦車のように夏草に覆われているので、まるで大友克洋(800夜)の廃墟と植物を描いた劇画のようで、妙な感じがする。
陽明学が古代中世アジアに根をおろした知と行の思想の柵(しがらみ)だとしたら、水戸学は日本の古代中世に根をおろそうとして「夜明け前」に噴き出てきた知と行の早瀬のようなものかと見えるのだ。
二つとも、世の中からはすっかり忘れ去られて、歴史の一角に埋没したか、埋没させておきたい動向なのだろう。それが宿命だったとも、またその宿命を知る思想だったともいえる。
まあ、それでもいいのだが、最近はひょんなことから研究者がふえている。アメリカの研究者たちが日本儒学や水戸学に関心をもちはじめているのだ。そのこともちょっと書いておきたい。
第327夜にジョン・ダワーの吉田茂論をとりあげた。そのときはまだ出版されていなかったのだが、その直後にダワーは大部の『敗北を抱きしめて』(岩波書店)で戦後の日本と日本人を論じ、ピュリッツァー賞を受けた。おめでとうございます。『吉田茂とその時代』上・下
そこでダワーが、日本を議論するには“plurals”(複数者)という見方をしたほうがいい、“Japan”ではなくて“Japans”なんだと書い
た。これは、ぼくの日本についての見方と一致するものだった。ぼくはそこを「一途で多様なおもかげの国、多様で一途なうつろいの国」というふうに、『日本
流』(朝日新聞社)そのほかに書いた。結構なお点前でございました。
そのダワーがかつて、アメリカの対日政策と「近代化・民主化の理論」は共犯関係にあると告発して、アメリカ政府による敗戦後日本に対する政治目標が次の
5点にあったという“証拠”をあげたことがある。本書の訳者である早稲田の梅森直之さんが「あとがき」にも書いている。
その5点というのは、なかなかすさまじく、@日本の左翼の信用を失わせること、A平和主義と再軍備の機運を殺ぐこと、Bアジア諸国に日本の社会的優越性
を感じさせ、それをもって日本人を資本主義陣営に誘導すること、Cそのため、アメリカのジャパノロジストを徴用して「心理学的なプログラム」を付した教育
を浸透させること、D日本を中国のカウンターモデルとして、不安定なアジアの発展途上国に提示すること、というものだ。
この対日政策こそ、アメリカがいまなお各国に押し売りしようとしている「近代化・民主化の理論」の原型だというのである。きっとそうだろう。きっとそうなんでございましょう、という5点だ。
こうしたアメリカ批判の学問成果は、ダワーやブルース・カミングスという研究者に
よって実証的な実を結んでいった。これは、ジャパノロジストがアメリカの対日政策の分析を通してアメリカを批判するという例なのである。こういう“アメリ
カ日本論”のたぐいは戦前戦後を通じてゴマンとあって、あまり読みすぎると、毒がまわる。竹中平蔵になる。
しかし、このような“アメリカ肩越し”の見方だけで、現在の日本を歴史的に位置づけるだけでいいのかというアメリカのジャパノロジストの批判もあった。
そういう批判をして脚光を浴びてきたのがシカゴ派である。ヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』(ぺりかん社)、テツオ・ナジタの『懐徳堂』(岩波書
店)などがその成果で、本書のヴィクター・コシュマンもその線上にいる。
かれらは一気に落下傘部隊のように日本の歴史の一角に入りこんで、そこに最新の学問的方法をぐりぐりさしこみ、それでもその走査に耐える日本社会や日本
思想の特質をタフな文体で書きあげる。コシュマンも、本当かどうかは知らないが、ポール・リクールの解釈理論やミシェル・フーコーの言説理論やルイ・アルチュセールのイデオロギー理論を駆使して、水戸学に入ってみたという。
そうすると、「国体」や「名分」といった概念が、歴史のなかで実際に動きまわった航跡のようなものとしてよく見えてくるらしい。これはもはや「柵」や「背戸」としての陽明学や水戸学ではないだろう。
日本の学界における水戸学の研究のほうはどうかというと、歴史学の遠山茂樹や政治学の丸山真男(564夜)らによる尊王攘夷のイデオロギーの社会性や運動性を総合的につきとめる研究から、浮上してきた。
当たり前のことだが、動機はアメリカのジャパノロジストとは、まったく異なる。敗戦前後、いったい日本はなぜあんなような戦争をおこしたのか、なぜ「天皇」や「国体」をあんなにもふりかざしたのか。その反省を歴史学者も政治学者もせざるをえないところへ追いこまれて、その問題を解明しようとしてその奥を覗きこんだ必至の目が、水戸学の特徴を検出する作業にいたったのである。
当時、すでに「国体」という用語が水戸の会沢正志斎の『新論』から出てきたことは知られていた。しかし、その「国体」にどんな危険思想があったのか。それが悪の病原菌なのか。その決着をつけたかった。
いろいろ調べてみると、遠山や丸山は、そういった国体を孕む思想は、必ずしも幕府を転覆させようとして出てきたのではなく、それゆえウルトラ・ナショナ
リズムでもなくて、朱子学イデオロギーを背景とした幕藩体制立て直しの思想として登場してきたもので、そこにはかえって「名分」を重視した封建的な階統制
があって、それが水戸学の特色なのだろうと考えた。
初期の国体イデオロギーそのものにはどうやら危険なものはない。その「国体」が歪んだのだとしたら(歪んだわけだが)、水戸藩の中ではなく、幕末か明治か、昭和史の中だろうという見方である。
この見方には反論が出た。水戸学は必ずしも幕藩体制の護持や立て直しのためのものではなく、もっと「前向き」のもので、だからこそ尊王攘夷のイデオロギーに結びついたのだという、尾藤正英などの見方である。
尾藤は、水戸学は幕末の一時期に影響力を発揮したのではなく、日本の近代国家の形成過程という長い射程で位置づけられるべきだと主張した。そうだとすると、水戸学は昭和史そのものの裏地としてずっと生きていたということになる。
尾藤はまた、朱子学と水戸学はかなり異なっていたこと(水戸学派はほぼ全員が儒者だった)、『大日本史』が寛政期を分岐として、前期の儒教的合理的な歴
史観から、後期の神話的な歴史観に転回していることなどをあげて、前期水戸学にはたしかに「理」を重んじた朱子学の合理があったものの、後期水戸学はむし
ろ徂徠学や国学と接近して、かなり広範な社会思想の根っこをつくっていったのではないかと論じた。
しかし、この見方にも反対意見が出た。それはそうでしょう。
水戸学がそこまで役割をもったとはおもえないという、橋川文三や野口武彦による見解である。これが、ちょうどぼくが水戸学に関心をもったころだった。1970年代半ばくらいだろうか。
橋川は「国体」の用語は水戸から出たが、その言葉がもつ意味やイメージが広まったのは、徳川社会そのものがしだいに国家的自覚を迫られていたからで、そ
の土壌としての要因をはずしては、水戸イデオロギーの傘を想定はできないと見た。野口はさらに広く水戸学以外の江戸の歴史家たちを比較して、水戸学の位置
を上空から鳥の目で俯瞰できるようにした。とくに野口の『江戸の歴史家』(現・ちくま学芸文庫)は刺激に満ちた一冊で、『江戸の兵学思想』(ちくま学芸文
庫)とともに、ぼくもずいぶん愛読した。
そこへ新たに名乗りをあげたのが、シカゴ学派だったのである。コシュマンの見方は以上のいずれのものとも、またまたちがっていた。
コシュマンは、水戸イデオロギーを名分論的朱子学が封建ナショナリズムに変形していったとも、徂徠学や国学が国家主義に発展していったとも見ずに、むしろ山崎闇斎などの「儒家神道」が水戸藩の特殊な事情のなかで複雑に再生編集されたのではないかと捉えた。
ざっとこういうふうに、水戸学研究といってもさまざまな視点が林立したのである。そこにはさらに、水戸史学会の名越時正や荒川久寿男らの皇国史観を標榜
する論客や(こういうものを読むのが一番おもしろい)、また、上山春平(857夜)や山本七平(796夜)やらも加わっている。
こうなってくると、いよいよ水戸イデオロギーの正体がどこにあるのか、にわかに判定がつきにくい。誰だって、そう思うであろう。が、そうではあるのだ
が、実はそのように研究者たちをいまもなお南にすべく北すべく、あれこれ走らせているのが、水戸イデオロギーだとも言えるのだ。
話を歴史の順番に戻して、進めることにする。
前期水戸学についての特色のほうからのべておくが、水戸徳川二代藩主の光圀が『大日本史』の編纂を発意したのには、もともといくつかの動機があった。
幕府が林羅山・林鷲峰に命じて『本朝通鑑』を書かせていた。これは司馬光の『資治通鑑』を踏襲したもので、儒による日本史だった。中国の皇帝を日本の天
皇につなげ、そこから将軍家が位置づけられるようにしたかった。この事態を光圀はほっておけなかった。実際にも、林家史学に対する水戸史学の対立は自分か
らおこしたようなものなのだ。
また光圀は、第460夜に書いておいたように、明朝からの亡命者の朱舜水を長崎から呼び寄せて、歴史の流れを互いにかわしているうちに、歴史におけるレジティマシー(正統性)の意味を諭された。とくに南北朝の楠木正成の忠臣性を舜水に示唆された。
そもそも日本の正史にとって北朝をとるか南朝をとるかは、日本史叙述の最大の選択だったので、光圀はその決断に挑みたくなったのだ。そしてできれば、そのような歴史記述のなかに「人倫の大義」を埋めこみたかった。その人倫とは、日本人ということである。
こうした動機があるにはあるのだが、では光圀はやがて仕上がるはずの『大日本史』に何を期待したのかというと、やはり皇朝主義を歴史の叙述のなかで浮かび上がらせてほしかったのである。
光圀という人物は、「我が主君は天子なり、今将軍は我が宗室なり」(桃源遺事)とか、「毛呂己志(もろこし=中国)を中華と称するは其国の人の言には相
応なり。日本よりは称すべからず。日本の都こそ中華といふべけれ」(西山随筆)とかと書いていたような、好んで歴史的現在に立脚しつづけていたかった藩主
なのである。
とうてい葵の御紋をちらつかせて諸国を漫遊する“水戸黄門”などでは、なかった。
光圀は『史記』に影響をうけたのだから、『大日本史』もそれにもとづいて本紀・列伝・志・表の紀伝体を採った。紀・伝は天皇中心の事績と主要な歴史を記し、志・表は諸分野・諸制度を扱う。これに対して『本朝通鑑』は編年体である。
フォーマットとプロトコルのちがいであるが、こと、歴史書をめぐっては、どのようなOSの上に日本の歴史情報ソフトが走るかということは、大きな差異をつくる。すでに『古事記』と『日本書紀』のフォーマットとプロトコルにおいて、この差異は噴出していた。
『大日本史』では、たとえば皇后紀を皇后伝にした。本紀から列伝に格下げした。儒教的な男尊女卑からの判断ではなくて、まさに天皇重視主義のためだっ
た。こういうことは、編年体では描けない。記述の構造に空間的レイヤーがないからだ。
編年体は「常→変→常」あるいは「正→邪→正」というようなサイクルをもって記述する。それなら朱子学の理念にはよく適合した。しかし光圀にはそれでは
不満だったのである。歴史の中に皇統の空間が漂っていてほしい。
またたとえば、大友皇子を“大友天皇”というふうに記載した。これは『日本書紀』が「名」と「実」を分断したことへの反論になっている。天皇に天皇とし
ての「名」を与えること、それが臣民の臣民としての「分」を確立することだという思想である。
こうした『大日本史』の歴史思想は、光圀が元禄13年(1700)に死去したのちも、安積澹白(あさかたんぱく)、栗山潜鋒らに継承される。澹白は元禄6年からの『大日本史』編修の総裁、京都の潜鋒はその年に江戸に出て光圀の目にとまり、4年後に総裁になった。
最も重要な継承は、天皇を祭祀王(祭主)とみなすこと、南朝を正統とし北朝を閨統とすることにあった。
古代儒学や近世朱子学では帝王とは政治的君主であり、儒的国家のレジティマシーとはそのことが人倫として保証される血統にいることをいう。そういう儒の王ではない和の王を、歴史的に立証するにはどうするか。それが光圀が編纂者たちに手渡した宿題だった。それを水戸藩あげて組み立てようというのである。
日本の天皇において血統を保証する正統性は、もっぱら三種の神器の授受によって象徴されている。南朝の皇系はその三種の神器をもっていた。それが吉野の朝廷である。
しかし、南北朝争乱のすえ、皇統は後小松天皇のところで北朝に移った。足利尊氏(高氏)がこの移動に関与した。これは史家たるもの、覆すことができない
事実である。三種の神器もそこから先は後小松天皇の系統で授受された(それが今日の天皇家に至っている)。しかるに、これでは南朝正統の記述にはならな
い。どうするか。
そこで、南朝がいったん三種の神器を「天」に返して、それが後小松天皇に亙ったというふうに接続させるところが、最大の眼目となった。綱渡りといえば綱
渡りであるが、ともかくもこれで南北朝は帰一して、その後の三種の神器の正統性は保たれた。
実際にも、そのように記述したのだが、このため、『大日本史』は皇統が北朝に帰一した時点で記述を終えるしかなかった。はたして光圀がそれでもいいと
思ったかどうかはわからないが、ここに『大日本史』の半世紀にわたる中断もおこった原因があったのである。
立原翠軒によって編纂が再開されるころは、もはや志・表は不要ではないのかというふうにもなっていた。
しかし、ここでちょっと付け加えたいことがある。
これはぜひとも留意しておくべきことであるのだが、光圀は『大日本史』ばかりを編集させていたのではなかったということだ。
かたわら、『神道集成』や『釈万葉集』や『礼儀類典』なども鋭意編集させていて、『大日本史』だけで皇朝主義を標榜しようとしていたのではなかったの
だ。『礼儀類典』など、なんとも全514巻に及んでいる。四方拝・朝賀・節会などをすべて網羅したもので、橋川文三は、ここには一歩あやまれば王政復古の
準備を感じさせるものがあると書いたほどだった。また、和文の精華も収集編集させていた。光圀ならやりかねない。
そういう意味では、『大日本史』の部門史ともいうべき志・表は、こういうところにすでに用意されていたともいえた。しかし、その光圀が亡くなった。
史誌編纂の中断は、光圀亡きあとの水戸学者のなかで問題になる。とくに藤田幽谷がこの史述中断と志表廃止に反意を示した。幽谷はなんとしてでも続行すべきだと譲らない。
けれども、ここには初期のころとの歴史観の連続と分断があった。もはや光圀のヴィジョンだけでは記述はしにくくなっている。水戸の史家たちは、ここでな
んらかの新概念を創出する必要に迫られた。そしてこのあたりから、前期水戸学はしだいに後期水戸学に大きく変位していったのだ。
その境い目のあたりに幽谷の『正名論』があった。
これは幽谷17歳の執筆である。その早熟きわまりない才気には驚かされる。
孔子が説いた「正名」が儒学思想の根幹にあることは、前夜にもふれた。これを破れば「狂言」である。水戸学は、そこは破らない。ところが幽谷は「正名」を論じるといいながら、ここで展開してみせたのは「名分」論なのだ。
名分という言葉は中国の儒学にはない。まして「大義名分」などという言葉は、まるっきり日本製なのである。これは巧妙な「漢概念」から「和概念」への転
出であり、しかもそうしなければ成り立ちそうもない、日本歴史の鍵を探るための、鍵穴の提案だった。
すぐあとで説明するが、この「名分」という鍵穴があったので、これに「国体」という鍵が突き刺せた。この鍵と鍵穴づくりには、あのインテレクチャル・
ワークに勇猛な水戸藩でさえ、数十年がかかっている。だいたい、本当のコンセプトづくりというのは、鍵と鍵穴の両方を、歴史の検証の中から作りあげるのだ
から、そのくらいはかかるのである。
藤田幽谷の弟子に会沢正志斎が育ち、幽谷の子に藤田東湖が出た。いよいよ水戸学きっての格別の“血統”の登場である。
幽谷と正志斎の二人は初めのうちは組んで、王陽明や熊沢蕃山や山崎闇斎や荻生徂徠をどの程度に水戸学的な日本思想に“応用”できるかどうかを検討していた。
二人の水戸を代表する儒者が、陽明学、蕃山の水土論、闇斎の神儒思想、徂徠学を研究していたのは、水戸学がまったく新たな後期のステージにさしかかって
いたことをあらわしている。時代は19世紀に突入する。
享和元年(1801)、千島を南下するロシアの歴史に関心をもった正志斎は、『千島異聞』を書いた。20歳である。ついで文化5年(1808)、イギリ
スが長崎でフェートン号事件をおこした。イギリス船がいつ常陸の海岸にあらわれるかは時間の問題だった。かれらはまだ、アメリカ人と同様、捕鯨をしてい
た。そこに食糧国家の資源と“原油”があったからである。案の定、文政7年(1824)のこと、水戸藩内の大津浜にイギリス人が薪水を求めて上陸した。こ
のときの筆談通訳にあたったのが正志斎だったのである。
こうした“寄り石”のような事件はますます頻発するばかりだった。文政8年、幕府は異国船打払令(無二念打払令)を発布した。正志斎は「無二念」という
表現に妙に感動する。暴走族の組の名の勢いに感じたようなものだろう。かくしてこのときとばかりに『新論』を書く。
これが日本史上初の「国体」概念の登場になる。正志斎は鍵穴にぴったりあてはまる鍵に気がついたのだった。
『新論』は序文と5論7篇からなっている。5論は国体・形勢・虜情・守禦・長計で、その国体が国家論・軍制論・経済論に分かれていた。
正志斎は地球が丸いこと、世界の主な帝国は七つあること、アメリカが日本の背後にいる「愚かな国」であることなどを、情勢論で述べる。七つの帝国とは、
回教のモゴル(ムガール帝国)、トルコ、ロシア、ゼルマニア(神聖ローマ帝国=ドイツ)、ペルシア、清、日本をさしていて、これらはそのうち世界宗教戦争
に突入するだろうと説いた。
まるでサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』めいているが、何がちがっているかというと、日本は天皇を祭主とする皇国だから、永遠であるとしたことだ。
しかし永遠になるには、参勤交代を廃止し、一国一城制を中止し、大艦隊を建造し、キリスト教を警戒する必要があるとした。なんだかバラバラのような施策
だが、ようするに正志斎の『新論』は、内憂と外患をともかくも串刺しにして、そこに国体の将来の安定をおこうとしたナショナル・インタレスト論なのであ
る。
ここで国体とは「国のすがた」というほどの意味で、正志斎はそれ以上の厳密な定義はしていない。また、幕藩体制を否定する意図も幕府を転覆する意図も、
まったくもってはいない。そういう意味では、ここには危険思想は見られない。鍵はまだ棒のようなもので、そこに、“くりこみ”や“えぐり”はなかったの
だ。
ただ、「すがた」(体)はひたすら天皇を中心とする皇国システムによって維持できると、そこばかりを強調した。そのため大嘗祭についてもそれなりの枚数を費やして、その祝祭的正統性を説いた。
ヴィクター・コシュマンは、こうした正志斎の思想には、エリアーデのいう「祖型と
なる行為を再生産しうる資質」に依拠する傾向があると読みとって、「正志斎のいう国体は、単に日本人の起源や共同体の起源への、儀礼を通じての回帰という
次元だけにかかわっているものではなく、〈道〉という次元での抽象化された不変の心理をも包摂しようとしている」と書いている。
コシュマンの目には、国体には、「日本国の起源が万世一系の皇統に具現されて今に続くものであることをあらわすばかりでなく、儀礼の実践を通じて、その
起源を集団的に再生することの可能性」があると見えたようなのだ。
これはあまりに甘々に国体論を評価しすぎているように思えるが、いくぶんかは当たっている。というのは、正志斎は武士が在地に帰って土地を守って生きる
ことが、こうした国体のためには最も重要な方策になるとも説いているからである。
つまりは、水戸イデオロギーは皇国思想ではあるが、皇統を入れておく聖なる空間さえちゃんとセキュリティされさえすれば、あとは各地のコミュニティ連合なのだ。
しかし、このような純粋無雑な国体イデオロギーだけで尊王攘夷が起爆するわけではなかった。そこには水戸藩の経済事情と国際情勢がからまっていた。
徳川斉昭が藩主になったのは、文政12年(1829)に兄の斉脩が病没してからである。斉昭はさっそく藤田東湖や正志斎を登用して、さまざまな藩政改革にとりくむ。
藩民の意識の充実もはかりたかった。これが藩校「弘道館」の設立となっていく。ここでは、神儒一致・文武合併のスローガンのもとに徹底教育をした。さら
に藩内各地に郷校(ごうこう)も設立されていった。その数と早さは、めざましい。だが、うちつづく飢饉や農政の低迷でなかなか改革が進まない。そこへもっ
てきて、根本的な慢性赤字があった。
弘道館 |
定府(じょうふ)とは、江戸の藩邸に藩士の半分が常駐することをいう。水戸藩は江戸定府が許されていて、そのため参勤交代はしないですんだ。
しかしながら、江戸に毎日何百世帯もの家族が住むということは、特定期の出費にくらべて、あまりにも大変な経済負担がかさむ。これが水戸の財政を悪化させていた。
そのうえ、人心が安定しない。東湖は『回天詩史』で、江戸定府が始まってからというもの、「風俗は軽薄化し、江戸と水戸との人々の気風がくいちがって、
気持ちが通じあわなくなった。文書をやりとりしても真意を疑うようになった」と書いている。
加えて、6年にわたる天保の大飢饉が重なった。家斉の文化文政期にはインフレ成長をしていた経済社会も、これで一気に冷えこんだ。幕府も12代将軍家重
が老中首座に水野忠邦を抜擢して、倹約改革で乗り切ろうとしのだが、焼け石に水。むしろ水戸藩のほうがなんとか持ちこたえている。しかし、次の2発の波濤
は、水戸学にとってはあまりに刺激的すぎたのである。
ひとつは天保8年(1887)の大塩平八郎の蜂起のニュース、もうひとつは天保11年(1840)のアヘン戦争のニュース。
前夜にも少しふれたが、大塩平八郎(中斎)は陽明学をもって「知行合一」を決意した革命家であった。大坂天満の与力の子に育ち、私塾「洗心洞」を開いて、つねに社会悪に挑みつづけることをやってのけていた。
いわゆる大塩平八郎の乱は、水戸でニュースを聞くだけでも大胆不敵で、かつ、どこか水戸の魂を揺さぶるものがあったにちがいない。それほどの驚天動地のニュースであった。
大塩はひそかに義挙の日を練ってきた。ところが密告があったらしく、急遽、前日の2月19日の寒い朝、蜂起を決行した。まず自宅に火を放つと、「救民」
の大旗を掲げて2隊に分かれて大砲を引き、天満一体を焼き払いながら難波橋を渡って船場に進み、鴻池屋などの豪商を焼き打ちして、金穀を救民に散じた。
勢力はたちまち300人に達したが、その慟哭するような怒涛が大坂中心一帯に広まる寸前に、取り押さえられ、潰えた。「檄文」だけが巷に舞った。大塩は
いったんは逃れたが、40日後に隠れ家を発見され、用意の爆薬に火をつけて爆死した。
燃える大坂の街 |
三島由紀夫がこの大塩の乱の精神をこそ陽明学とよび、『奔馬』の主人公にその精神をなぞらわせていたことも、前夜にのべた。のみならず、三島の自衛隊突入と「檄文」と自決は、どこか大塩平八郎につながっている。
しかし歴史的にみれば、大塩の乱は武士が、そして知識人が、初めて兵乱をおこしたものとして特筆できるのである。祖法とされた鎖国下、白昼にこれほどの
義挙がおこったことはなかった。そうか、武士が蜂起するのか。それができるのか。水戸は揺れたのである。
ちなみに、いつだったかのNHKの「歴史誕生」で大塩の密書が発見されたというスクープが提供されていた。いまその話をする余裕はないのだが、どうやら
大塩は大坂の構造汚職のような真相を嗅ぎつけていて、その暴露を含めた大きな変革構想をもっていたようなのだ。大塩の陽明学には“情報の爆弾”が秘められ
ていたわけである。三島由紀夫には、そういう計画があったのだろうか。
ところで、余談つづきで書くのだが、去年の秋ごろから、フランス文学者の鹿島茂が『一冊の本』(朝日新聞社の読書誌)の連載で、「ドーダの近代史」という痛快な議論を始めた。
ドーダというのは「どうだ!」と言ってみせる歴史観や文芸観のようなものを鹿島が面白半分に名付けたものだが、そのドーダの最初の例として尊王攘夷をと
りあげた。藤田東湖や会沢正志斎の国体論や尊王攘夷論は、学と呼ぶにはまったく体をなさない代物なのに、これをドーダの視点からみると、こんなに面白いも
のはない。これはいったい何だろうというのだ。
そこで鹿島は山川菊栄の『覚書・幕末の水戸藩』(岩波文庫)を引き合いに出してきて、水戸イデオロギーというのは極貧の藩がそこから脱出するのではな
く、その赤貧を自慢するために作り出したようなところがあるのではないか、つまりは見栄っぱりが生んだものではないか、そこに貧乏学者の意地とルサンチマ
ンの意識が相乗効果をおこし、さらに水戸と江戸の対立が重なったのではないかという仮説を紹介する。
わかりやすくいえば、水戸が「ドーダ、こっちのほうが凄いんだ」と言っているうちに水戸イデオロギーが生じてきたというのだ。
ふん、ふん、なるほどそういう見方もあるかと感心したが、たしかに水戸藩の事情と後期水戸学は密接に重なっている。が、やはりのこと、それとともに、世界情勢とも重なっていた。アヘン戦争がおきたのだ。
アヘン戦争のニュースは、そう遠くない日に神国日本に危機が到来する前兆だった。今度は神風も吹きそうもない。実際にもイギリスはこのあと日本を狙っていた。
天保13年(1942)、幕府は薪水給与令を出し、異国船打払令を緩和せざるをえなくなる。
水戸藩のほうでは、斉昭が幕政改革をおりこんだ「戊戌封事」を将軍に上程していたが、その扱いを含めて激怒するようなことが連続し、その力は内部に向か
い(外への怒りはたいてい中に向って吹きだまる)、敬神排仏の宗教政策などに転化するにつれ、藩内にもさまざまなきしみが悲鳴をあげはじめていた。そこへ
弘化元年(1844)、幕府が斉昭を隠居謹慎に処分する。
ここにおいてついに水戸イデオロギーは、尊王攘夷を広く天下に知らしめる決断をもったのである。そのリーダー格となったのが藤田東湖だった。
東湖もいったん江戸の一室に幽閉されていたのだが、ここにおいて起爆する。弘化元年5月、39歳になっていた東湖は有名な『回天詩』を綴る。
三たび死を決して而も死せず。
二十五回刀水を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。
三十九年、七処に徒(うつ)る。
こう、始まって、「皇道なんぞ興起せざるを患(うれ)えん。斯の心奮発して神明に誓う。古人云う、斃(たお)れてのち、已(や)むと」に終わる。この言いっぷりこそ、その後の明治の軍人と昭和の軍人が手本としたものである。
東湖は翌年には、これまた有名になった『正気(せいき)之歌』を書き、その年の暮からは『弘道館記述義』にとりくんだ。斉昭の『弘道館記』を解説するた
めだったのが、そこには東湖独自の思想が敷衍されていた。これこそ水戸イデオロギーの真骨頂というべきものである。
しかし、その真骨頂にはかなり意外なものが含まれている。それについては最後にあかしたい。
尊王攘夷という新しい言葉をつくったのはほかならず、徳川斉昭なのである。『弘道館記』に初出する。が、その尊王攘夷をイデオロギーとして動かしたのは、藤田東湖だった。
斉昭はこう書いた、「我が東照宮、揆乱反正、尊王攘夷、まことに武、まことに文、以て太平の基を開きたまふ」。これを東湖は次のようにパラフレーズし
た。「堂々たる神州は、天の日之嗣、世の神器を奉じ、万方(ばんぽう)に君臨し、上下内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるがごとし。然らばすなわ
ち尊王攘夷は、実に志士仁人の、尽忠報国の大義なり」。
こうして尊王攘夷の矢は放たれた。時代はいよいよ安政に入っている。その2年後、水戸を大地震が襲った。この地震で東湖が死んだ。
その直前のこと、一人の青年が萩から水戸を訪れた。平戸の端山左内に会沢正志斎の『新論』を教えられ、佐久間象山に入門して水戸の動向を聞き、矢も縦もたまらず水戸まで走ってきた吉田松陰(553夜)である。
山鹿流の兵学者の宮部鼎蔵からも噂を聞いていた。のちに史家となった那珂通高も同行している。松陰は正志斎に会い、そのころ動きはじめていた水戸天狗党のメンバーにも会った。
この松陰の水戸行は、この直後に尊王攘夷が全国に飛び散っていく最初の弾道となった。松陰自身は萩に帰るとすぐさま六国史をとりよせて夢中で読み(まだ
『大日本史』は刊行されてはいない)、皇国というものが日本のなかをどのように貫通してきたかを全身に感じている。
松陰は最も遠方の水戸学衆第1期生になったのである。
ここから先の幕末の激変については、とくに付け加えたいことはない。桜田門に井伊直弼を水戸浪士が暗殺してからというもの、もはや水戸イデオロギーは知行合一どころか、水戸激派の行動ばかりになっていく。
水戸藩内も天狗党の跳梁を内部の敵として鎮圧する羽目になり、それまでながらく雌伏していた薩長土肥の口裏あわせた一斉の台頭にはまにあわず、そのエンジンは水戸の中には残らなかった。
かつて藤田幽谷が「帝室を尊び、覇府を賤しむ」と言った哲学も、すっかり外部化してしまい、水戸学こそ残ったろうが、いっさいの水戸エネルギーはほぼ消滅してしまったのである。
しかしぼくが思うには、東湖の四男の藤田小四郎が攘夷の先鋒たらんとして筑波山に挙兵したという、この元治元年3月の一事の意味が解明をするまでは(ぼ
くはしていないのだが)、やはり水戸イデオロギーの行方はいまなおわからぬままだとも言っておきたい気がするのだ。その気分、わかっていただけるでござい
ましょうか。
やっと最後に、最も意外であろうことを書く。東湖の『弘道館記述義』に驚くべき援用があるということである。
それは東湖の記述のそこかしこに、本居宣長の『古事記伝』からの援用が、そうとうにしてあったということだ。むろん神々の事情からの援用が多いのである
が、なかで「別天神」(ことあまつかみ)を強調していることが、なんとも東湖らしく、また水戸的なのである。その神こそ、宣長が「別」して、創造神として
君臨させた神だった。
水戸学とは、やはり「べつ」という天地の
ためのイデオロギーだったのではないか。それはコシュマンがいうような闇斎流の神儒一致のイデオロギーというよりも、仮に朝方にはそこから出所していたと
しても、夕方にはそぞろ、宣長の神と近づいていったものではなかったのか。ま、そんなことも言っておきたかったのでございます。