世に倦む日日


『龍馬伝』 − 司馬遼太郎に依拠しつつ『竜馬がゆく』から脱皮する

大河ドラマ『龍馬伝』の第1回は、予想以 上に面白い内容に仕上がっていた。年末からの前宣伝が洪水のように夥しかったため、多くの人が見ただろうと思っていたら、視聴率は意外に低い結果となった。『坂の上の雲』と『紅白歌合戦』と『龍馬伝』、この三つの番組の前宣伝は怒濤のように凄ま じかったが、私はそれを鬱陶しいとも感じることなく、チャンネルを民放に替えないままテレビの前に座っていた。最近のNHKの視聴率対策は実に戦略的で、 民放など足下も及ばないほど視聴率(シェア=市場占有率)に拘った編成に徹している。大型番組を告知案内するプレ企画がそれなりに視聴率を取れる事実を 知っていて、同時に、そうやって期待と関心を高めて本番の放送の視聴率を稼ごうとする。昨夜(1/3)の数字はNHKにとっては不本意なものだっただろ う。視聴率は低く止まったが、中身は素晴らしかった。初回放送のテーマは土佐における上士と郷士の対立で、75分間の中でこの問題が執拗なほど十分に描か れていた。視聴者は前宣伝から受けた印象とは全く違う衝撃と感動を第1回で感じたに違いない。明るく溌剌とした龍馬の人格が育まれる家庭や周囲の環境が描 かれ、青春ドラマの伸びやかなイントロになるだろうと思っていたら、そこに映し出されたのは土佐の階級社会の過酷で壮絶な現実だった。第1回の映像の断片 は前宣伝で何度も使われていたが、誰もこのような深刻な中身だとは想像できなかっただろう。NHKの見事な演出と言える。  

75分間の放送の中で、上士と郷士の対立と緊張の場面は、記 憶しているだけで四度にわたって描き込まれていた。無礼討ちされそうになった少年の龍馬を病身の母親が救出する場面、郷士(井上)が上士(山本)に斬殺さ れる場面、仲間の祝言の席の帰りに龍馬ら一団が上士から屈辱を受ける場面、上士と諍いになった弥太郎を龍馬が助ける場面。どれも歴史上の事実ではなくドラ マの上での創作だが、これでもかと言うほど監督は問題のテーマを叩きつけていて、強烈な歴史のメッセージが視聴者に届けられていた。これでいい。成功して いる。龍馬をイントロでどう描くかは作者の構想と判断に拠るだろうが、このドラマの作者は苛烈な土佐の身分制と階級対立を最初に提示してきた。この問題は 重要だ。龍馬を理解する上でも、幕末史を理解する上でも、近代日本を理解する上でも、決定的に重要なイシューである。土佐藩では上士による郷士への無礼討 ちは合法化されていた。番組で繰り返し紹介されたとおり、事件は常に上士が郷士に不当な言いがかりをつける経緯から始まる。一方的に難癖と侮辱を言い、上 士が郷士を斬り捨てる。上士は特権を持っている。郷士の方に不服申立の権利はなく、損害賠償の請求もできない。上士は山内家が土佐に入るときに連れてきた 東海や上方の侍の子孫で、領国支配の占領軍の末裔である。長宗我部侍である郷士とは血統が違う。山内家が支配する土佐藩は、内部に上士と郷士の激烈な対立 を抱えていて、その問題が幕末史の行方に大きな影響を及ぼす。 

龍馬もそうだが、土佐の場合、幕 末から明治にかけて強烈な自由と平等の志向がある。それは、天保庄屋同盟の一君万民思想から始まって、明治の自由民権運動まで一貫している。その思想的伝 統は現在も続いているだろう。土佐は権利においてフラットな社会を激しく希求するのであり、その情熱とエネルギーが近代日本を前へ前へ押し進め、日本史に 最良の近代を与えるエンジンになるのである。土佐の平等主義の秘密を考えるとき、その内部の凄絶な身分制と階級対立の実情に思いを馳せないわけにはいかな い。目の前に激しい差別があり、理不尽な不平等があり、悲劇や憤激や屈辱の数々が身近にあったがゆえに、土佐の郷士たちは平等社会を志向し、国民が選挙で 大統領を選ぶ米国の民主主義政治に憧れたのである。この対立の問題は龍馬の物語の全編に基調として流れ、ドラマの骨格を形作る重要な要素となる。そして、 容堂による土佐勤王党への弾圧と半平太の切腹死でクライマックスを迎える。被差別側であった長宗我部侍の郷士たちは仲がよく、無邪気に一致団結していた。 そこには、本当に偶然だと思うが、傑出したリーダーが揃っていた。中央には半平太と龍馬がいて、辺境には寅太郎と慎太郎がいた。あんな辺 鄙な田舎でなぜ一度にあれほどと驚くほど、英雄である優秀な指導者が群れ出て、土佐を幕末維新史の主要な舞台にする。そして四人とも非業に死ぬ。四人とも 上士と郷士の問題を背負っていた。特に半平太と龍馬の二人はそうだった。 

西郷の下で結束する 薩摩には内部対立はなく、最強の一藩が丸ごと倒幕の革命に突き進んで行く。恭順派をクーデターで打倒して革命政権を樹立した長州も、全国の中では孤立した が、藩は一つで纏まって最後まで革命勢力として行動できた。薩長の志士には藩の庇護があった。藩が志士の命を保障した。土佐の場合は、革命派たる勤王党が 弾圧され、首領であった半平太を失った後は、志士は領内では藩権力から追われ、京にあっては幕府権力(新撰組・見廻組)から追われ、生きる場がないのであ る。喩えて言えば、タシケントから国外に追放されて欧州から新大陸を逃れ歩いたトロツキーと同じ。どこへ行ってもお尋ね者で権力に捕縛される身だ。生きる 場を失った土佐の郷士仲間たちに、生きる場を提供すべく懸命に奔走したのが龍馬の事業であり、龍馬の生涯や実績はその観点から見なければならない。神戸の海軍操練所もそうだった。長崎の亀山社中もそうである。半平太亡き後、 龍馬は土佐革命派(郷士集団)のリーダーであり、脱藩して追捕される身になった仲間を保護する使命を負い、仲間たちは才能があり人間的魅力に溢れる龍馬を 慕い頼って集まった。龍馬の生涯の事業は、冒険的な国事奔走(革命行動)の連続であり、世界に羽ばたく海運事業の夢への挑戦であり、薩長同盟の締結と戦中 八策の発案であり、描けばどこまでも華麗な絵になるけれど、その一面において、土佐の仲間たちのいのちとくらしを守る場を必死になって探し続けた一生であ り、その重責を背負い続けた人生だった。 

弥太郎の視点から見た龍馬像という描き方も面白い。『竜馬 がゆく』の中でも弥太郎は登場するが、今回のドラマのように幼少期からの友人という設定ではないし、そうした史実は全くない。高知(城下)と安芸では地理 的に距離がありすぎ、あの年齢で川遊びを一緒にする設定には無理がある。弥太郎の家がそれほど赤貧だったという根拠もなく、地下浪人の身分とはいえ江戸に 遊学している史実を見れば、その設定にも疑問と当惑を覚える。だが、龍馬の実像を浮かび上がらす上で、弥太郎からの視点という方法の導入は画期的で、司馬 遼太郎の『竜馬がゆく』の世界を脱出する切り口が見出されている。着想がいい。また、弥太郎役の香川照之が原作者や監督の思いどおりに好演している。香川 照之は『坂の上の雲』の子規役も見事に演じていたが、どんな歴史上の配役も一瞬で自分のものにしてしまう。香川照之の個性的でプロフェッショナルな弥太郎 役の演技が、俳優の経験のないアマチュアの福山雅治が演ずる無色透明な龍馬像を引き立たせている。福山雅治の龍馬役の存在感は、脇役の香川照之の弥太郎役 の活動によって陰影がつけられ、くっきりとした立体感を得るのである。おそらく、香川照之の弥太郎は毎回出るだろうし、プレーンな龍馬の場面が出た次に、 そこからアクの強い弥太郎の場面に展開してドラマのリズムを作るだろう。子規になりきり、弥太郎になりきる。子規も弥太郎も同じキャラクターにしてしま う。性格俳優としての香川照之の底知れぬ力を感じさせられる。こういうバイプレイヤーが必要なのであり、映画やドラマを作る監督や脚本家にとっては重宝な 存在だ。 

福山雅治が、前宣伝の番組の中で土佐弁に苦労した話を吐露し ていた。この国の方言は独特で、NHKは言葉の指導係を付けているが、俳優陣が発音法を習得するのは簡単ではあるまい。どこの地方の方言も同じだが、その 方言について、中央(東京)を発信源としてパターン化されてきた擬似的な発音や表現の固定観念というものがある。高知の方言の場合は、80年代に人気を博 した宮尾登美子原作の映画だとか、そうした歴代の映像群の中で実際とは異なる発音形式が捏造され、一般の耳に馴染み、曲解されたまま 定着してしまっている。それは、高知だけでなく、名古屋とか広島とか鹿児島についても同じだろう。『坂の上の雲』の愛媛もそうかもしれない。愛媛の人々 は、俳優たちの発音に首を傾げているのではないか。だから、方言指導の担当者は、正確な発音を出演俳優に教育しようとすればするほど、すでに定着してし まっている捏造形式の発音や表現の壁にぶつかることになり、俳優たちは混乱してうまく台詞を発せられないのである。言葉の問題というのは大変で、どれほど 立派な熟練の名優であっても、英語で芝居をしろと言われれば、途端に演劇部の学生と同じ素人になって居竦んでしまう。台本のテキストを丸暗記して棒読みで 音読することしかできない。昨夜の『龍馬伝』では、父親八平役の児玉清がそうだった。逆に、高知出身の島崎和歌子とか広末涼子は、全ての事情を承知してい るから、自由に伸び伸びと演技ができるのである。窮屈にならずに自分の演技ができる。番組の中で最もネイティブな発音をしていたのは、弥太郎と喧嘩をする 端役の百姓を演じた無名の男優だった。 

『龍馬伝』には特定の原作者がなく、その代わり、演出家 (大友啓史)と脚本家(福田靖流)の二人が原作者のようにNHKに紹介されている。私の感想は、この二人は司馬遼太郎に忠実に即しながら、司馬遼太郎とは異なる龍馬像を創出するべく挑戦を試みていて、初回分を見たかぎ りはそれに成功している。そのような高度な歴史作品の課題に挑戦して成功を収められる知性と能力を持っていると思われる。司馬遼太郎に即している点は、最 初に述べたとおり、上士と郷士の対立という問題を強烈に初回に打ち込んだ点だ。この方法は司馬遼太郎の歴史認識に直截に依拠したものである。いわゆる司馬 史観の重要な一部であり、基本をなす一般論の紹介。しかし、例えば、郷士を「郷士」とは呼ばず「下士」と呼んでいる。これは最新の研究が歴史考証に入った のだろうか。この点、今後の番組の進行が興味深い。歴史は最新の研究によって姿を変える。坂本龍馬の歴史の真実について、最新で正確な研究成果を整理して いるアカデミーは、おそらく桂浜の坂本龍馬記念館であり、その成果や動向を著作で紹介しているのは歴史家(郷土史家)の平尾道夫だろう。この辺りが司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の世界をどう壊していくか、NHKの制作者(大友啓史・ 福田靖流)がどのように使っていくかが見どころだと思われる。それと、もう一つ、『龍馬伝』は従来の大河ドラマと映像が少し違う。撮影の仕方が異なってい る。印象として、カットの一本一本を丁寧に撮影していて、テレビドラマより映画の映像に近い。従来の大河ドラマにあったホームドラマ的なのんびりした感じ がない。もっと迫力がある。映像に緊張感があって、気が抜けない映像に仕上がっている。 

それと、『坂の上の雲』では菅野美穂の好演が際 立っていたが、同じ役割をこの番組では広末涼子が受け持っている。広末涼子が香川照之と二人で番組の見せ場を作っている。この番組が今年に回ってきたこと は、女優の広末涼子にとって実に幸運なことだった。 



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