NHKドラマ『坂の上の雲』 - 遺族による司馬遼太郎の遺命の裏切り

私 は『坂の上の雲』のテレビドラマ化に反対の立場である。こうして放送が始まった以上、番組を見て楽しんで批評するしかないが、この作品は映像化するべきで はなかったし、絶対にして欲しくなかった。それは何より、原作者の司馬遼太郎自身が、生前、『坂の上の雲』の映像化を頑なに拒否していたからである。この ことは、司馬遼太郎の読者で あれば誰でも知っている。その理由は「軍国主義に利用される恐れがあるから」だった。この遺言は、司馬遼太郎が残した言葉の中でも重いもので、読者は重く 受け止めるし、関係者もまた重く受け止めて当然だろう。私は、『坂の上の雲』がこんなに早く映像化されるとは思わなかった。誰が司馬遼太郎の遺命に背いて 作品の映像化をアプルーブしたのか。NHK出版から出ているガイド本『スペシャルドラマ・坂の上の雲・第1部』を読むと、司馬遼太郎記念館館長の上村洋行 が登場して、「なぜ、今、映像化に踏み切ったのか」について説明している(P.149)。上村洋行が、司馬遼太郎の著作権を管理する遺族側代表として、ド ラマ化決定の責任者の立場で公式見解を述べている。だが、本当に許可を与えたのはこの男ではない。最終的に諾否の権限を握っているのは、夫人の福田みどり である。私は福田みどりに失望させられた。なぜ、司馬遼太郎の遺言に叛き、故人の意思に反して『坂の上の雲』の映像化を許可したのか。 

上 村洋行と福田みどりは姉弟の関係である。実の弟であり、写真を見てもわかるとおり、顔がよく似ている。そして、司馬遼太郎と福田みどりと同じく、産経新聞 の記者だった。それも、入社したときの配属先は京都支局で、文化部次長、京都総局長、編集局次長という経路を歩んでいる。すなわち思い浮かぶのは、上村洋 行の周囲で映像化への強い働きかけがあり、実弟の上村洋行が姉のみどり夫人を口説き落として、最終的なアプルーバルを得たというの真相の推理である。みど り夫人の許諾なくして『坂の上の雲』の映像化は考えられない。不穏な動きは、司馬遼太郎が死んだ直後から始まっていた。早坂暁という脚本家がいて、伊予西 条出身の男だが、『坂の上の雲』の映像化に執心で、司馬遼太郎死後の論壇誌上に幾度となく登場しては『坂の上の雲』映像化の解禁を訴え、世論を煽るキャン ペーンを続けていた。自分が脚本を担当したかったのだろう。早坂暁の思想的周辺は、一見して特に産経新聞だの安倍晋三だのの黒い政治的臭いは感じない。言 わば純粋中立な文化畑の男に見える。この伊予人が、福田みどりに向かって熱心に映像化の秋波を送っていた。一つの想像だが、早坂暁のロビー活動が、福田み どりの最終的意思決定に大きく影響を与えていると私は考えている。福田みどりは、迷いに迷った末、早坂暁と上村洋行の説得を受け入れたのだろう。

司 馬遼太郎にとっての福田みどりは、ジョン・レノンにとっての小野洋子である。マックス・ウェーバーにとってのマリアンネ・ウェーバーである。ジョン・レノ ンは小野洋子によって聖人になった。女は愛した男を聖人にする。「永遠の愛」の第一類型。突然の死の後、司馬遼太郎の聖人化プロジェクトは、特に司馬遼太 郎記念館の建立を中心にして、ほぼ成功裏に進んできた。東山五条鳥辺野への埋葬、安藤忠雄設計による記念館の建設、司馬遼太郎賞と菜の花忌の創設と記念事 業。それらはリーズナブルで、センスがよく、デザインとイメージの基調があり、バランスが取れていて、読者は司馬遼太郎の死後を安心して見て過ごすことが できた。福田みどりのセンスとバランス感覚に納得して信頼を寄せていた。政治的バランスの問題は重要だった。均衡を崩してはいけないのだ。国民的作家の政 治表象のバランスを左右に不均衡にさせてはいけない。この問題は、死後に総括マネージャーとなった福田みどりにとってきわめて重要な関心事であり、細心の 注意を払う任務であったに違いない。司馬遼太郎については、右の産経新聞から左の朝日新聞まで、すべての立場がコミットをしていて、そのコミットメントを 裏切ってはいけないのである。左右のバランスはフラッットにキープする必要があった。今回、『坂の上の雲』のドラマ化決定は、これまで続けてきたバランス の維持をバイオレイトする処断であり、司馬遼太郎の読者として憤慨を禁じ得ない。

NHK が『坂の上の雲』の映像権を取得したのは2001年で、この年、例の慰安婦問題を扱ったETV特集が、安倍晋三と中川昭一に圧力を受けて番組の中身を改変 させられる政治事件が起きている。この頃、時代は右傾化一直線で、書店では右翼マンガと右翼雑誌が平積みされ、ネットでは右翼掲示板が幅を効かせて、日本 の言論世界を右翼色に染め上げていた。安倍晋三がテレビ世界に支配を広げていた時期である。『坂の上の雲』のNHKによる映像化決定には、間違いなく安倍 晋三とその仲間が絡んでいるはずだ。死後、順調に進んでいた司馬遼太郎の聖人化事業は、ここで大きな挫折を余儀なくされ、政治問題となった。来年は韓国併 合百周年である。日韓関係に絡む議論に巻き込まれる不測の事態も想定される。こうした事故の遭遇は、遺族は絶対に避けなければならなかったはずだ。これま でのところ、韓国の歴史アカデミーから司馬遼太郎の歴史認識への批判が発せられたという情報に接したことはない。だが、今後はそういう展開が現実に起こり 得るだろう。「国民的作家」の偶像に傷がつく。上村洋行はこう言っている。「映像化についてはずいぶん悩みました。司馬遼太郎自身、映像化をしないほうが いい、と考えていましたから。それに日露戦争を取り上げるために、映像化すれば、どうしても戦争シーンが目立ったり強調されたりしかねません。活字で表現 した意図と違ったものになりかねない、という危惧ではないでしょうか」(P.149)。

「ま た、この戦争に小国日本が大国ロシアに勝利したというイメージがある以上、正面的な映像化は避けたい、ということになると思います。だからこそ、私どもも 慎重にならざるを得ませんでした。七、八年前、NHKからお話があったときもためらいました。私どもの財団の常任理事やNHKスタッフの皆さんと話し合い ながら進めてきました。その過程で、NHKの『総力を挙げて取り組みたい』という熱意や執筆当時の昭和四十年代と比べて映像文化が成熟し、技術力が大きく 進歩していることが許可をする背景にありました」(P.149-150)。この上村洋行による理由説明が、司馬遼太郎の映像化拒否の遺命を覆す根拠として 説得的なものとは私は到底思えないし、多くの司馬遼太郎読者が同意見だろう。このような浅薄な理由づけでわれわれが容認できるはずがないし、司馬遼太郎を 安直に裏切った遺族に対する怒りと憤りがこみ上げるだけだ。司馬遼太郎はわれわれ国民のものであり、われわれ読者のものである。遺族が好き勝手できる私物 ではない。映像化の判断に際して、どこまで読者の反応を拾い聞いたのだろうか。特に、こうした右傾化の情勢の中で、司馬遼太郎自身が最も恐れた思想状況が 現出し蔓延している中で、『坂の上の雲』をNHKで映像化するという問題の危険性や禁忌性を福田みどりはどこまで真面目に考えたのだろうか。福田みどりに 回答を聴きたい。14年前とは比較にならない政治環境下での映像化について、最初に火付け役を果たした早坂暁にも聴いてみたい。

最 大限、福田みどりに内在して理解を試みれば、概ね次のような判断だっただろうか。『坂の上の雲』はいずれは映像化される。それは自分が認めなくても、自分 が死んだ後、財団で著作権を握っている弟や周囲の関係者が映像化を許諾してしまう。それなら、自分の目の黒いうちに、自分が納得できる完璧な国民的決定版 をNHKに作らせた方がいい。それ以降、まがい物の『坂の上の雲』の映像が出ないように封じた方がいい。そのように考え、司馬遼太郎の遺影に向かって許し を得て、許可に踏み切ったのかも知れない。故人の意思を忖度できるのは夫人だけだ。だが、この決定には読者が排除されている。司馬遼太郎の読者の中で、右 側の読者の意思だけがすくい取られ、左側の読者の意思が切り捨てられている。現在、日中韓のアカデミーの世界では、歴史学者による東アジア近代史の共同研 究が国境を越えて粘り強く行われ、その成果が徐々に形になって現れている。20年前よりも10年前、10年前よりも現在の方が、東アジアの歴史認識は共通 化が図られ、各国独自のナショナルな<成功物語>の歴史認識は相対化されつつある。そうした中で、今度の『坂の上の雲』のドラマ化は、司馬遼太郎の思想的 普遍性の観点からは大きな失敗であり、歴史家としての司馬遼太郎の存在を危機に陥れかねない錯誤と言わざるを得ない。それは日本国民の損失に繋がる。福田 みどりは、映像化の誘いを拒絶し、未来永劫の映像化禁止を国民に宣告し、財団周囲に厳命して、司馬遼太郎のもとへ旅立つべきだった。

放 送の第2回では、正岡律役の菅野美穂が好演して、小説の世界にないラブストーリーの見応えを出していた。いい女優に成長している。律役は女優なら誰でもや りたい配役だっただろう。第2回の「青春」篇は、小説では最も面白くない部分で、文庫本を読みながら飽きて次の展開を急ぐところである。ドラマではどんな 具合に仕上がるだろうと思って見ていたが、やはり、子規と真之が江ノ島に徒歩旅行する一幕などは面白くなかった。真之が大学予備門を辞めて海軍兵学校に入 る事情も、小説でもよくわからなかったが、同じようにドラマでも伝わって来なかった。その意味ではドラマは原作に忠実に作っている。宣伝で強調して言われ る「明治の青春群像」が、伝わるようで、実は納得的に伝わって来ない。かなり無理があり、そして単純化と押しつけがある。少し時間が経ち、秋山兄弟につい て本格的に史料研究する歴史家が出てくれば、この司馬遼太郎の描き方も批判を受けるのではないかと、そういう予想を自然に抱く。それが第2回の感想だった が、その不具合を解消して、ドラマをドラマらしく盛り上げてくれたのが、正岡律役の菅野美穂だった。テレビドラマだから女性が出ないといけない。ドラマだ から男女の愛の物語を見せないといけない。司馬遼太郎の小説作品には、そういう要素が決定的に弱いのである。ラブロマンスで成功しているのは、例外的に『花神』 だけだ。男の第六感だが、このとき(『花神』執筆時)、司馬遼太郎には間違いなく秘密の女性関係があったはずだ。そして、原稿を読んだみどり夫人は異変に 気づいていたはずである。『花神』のイネは、『竜馬がゆく』のお田鶴さまや『功名が辻』の千代のキャラクターと全く違う。

所作が違い、そして愛の形が違う。お田鶴さまや千代はみどり夫人なのである。同じ人間像であり、主人公たる英雄との関係の描写が同じだ。


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