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韓日関係史講義レポート:「金石文を通じてみた古代韓日関係」

姜咲知子2004/10/22
歴史には客観性が必要で、感情を込めずに解釈しなければならないと言われたが、非常に難しい。古代、倭と百済に交流があったことは間違いなくわかるのだが……。
韓国 大学 NA
 ソウルで学ぶ「韓日関係史」の授業については、以前も紹介させていただいた。今回は「金石文を通じてみた古代韓日関係」について報告したい。金石文とは 石や金属に刻まれた文章のことをいう。今回取り合げられたのは、日本史にも必ず登場する『七支刀』と『広開土王陵碑文』。

 『七支刀』は、1877年に石神神宮の宮司によって偶然発見された。そこに刻まれた金石文を解読したところ、それが4世紀〜5世紀に百済から大和王朝に贈られたものだということがわかった。これは『日本書紀』にも記述されている。

 『日本書紀』によると、百済の人が大和の人に“七枝刀一口七子鏡一面”を奉ったとあり、その時の使者の約束でその後も続けて朝貢することになった、とい うようなことが書かれている。これは明らかに大和王朝が優位に立った記述だ。19世紀になって、この記述を裏付ける『七支刀』の発見があったわけだが、七 支刀に刻まれた金石文を丁寧に解読してみると、そこには百済の自尊心も伺える。

 表面には刀を褒め称える言葉が並べられ、裏面には「今までにない素晴らしい刀を、神の啓示を受けて生まれた尊い百済王世子が、倭王のために作ったことを 後の世に伝え示すこと」と刻まれている。表面は読めなくなっている部分があるので「侯王へ送った」という意味なのか「侯王が作った」という意味なのか、解 釈に迷う部分もある。しかし裏面を見ると、様々な解釈があるものの、百済王と倭王の対等性、もしくは百済王の優位性が伺える。

 先生は、歴史には客観性が必要で、感情を込めずに解釈しなければならないと言われ、私たちにどう解釈するか問い掛けられたが、非常に難しい。古代、倭と百済に交流があったことは間違いなくわかるのだが。

 『広開土王陵碑文』については、碑が建てられた集安という場所が、清朝が興隆した頃は禁則地とされていたため人々の記憶から消えていったが、19世紀後半に再発見される。ここは高句麗の城があった場所で、古墳群も発見されている。

 広開土王は391年〜412年の高句麗の王で、碑文は広開土王の業績をたたえている。3部に別れた記述の中には「百済と新羅は高句麗の属民で朝貢してき た。ところが、倭が391年海を渡って来て百済を破り、新羅□□臣民とした」と刻まれており、日本史においても、この時期大和王朝が朝鮮半島を攻めたこと が史実となっている。

 この記述の成否について、石でできた大きな碑文を写し取る作業は困難なため、写し自体の信憑性を疑う声もあったが、刻まれた記述にほぼ間違いはないらしい。それより重要なのは、この記述がどういう意図をもっているのかを読み解くことだという。

 4世紀後半、百済と新羅が高句麗の属民であったという記述は、当時の百済の勢力を鑑みると事実とは考えにくく、広開土王の偉大さを誇張するためにこのよ うな記述がされたと考えられる。そして、徳王とされた広開土王が百済や新羅を攻めるための口実として、「倭国」という敵を作ったのではないかという解釈が できる。このように考える歴史学者は日本にもいるそうだ。

 今回の講義では金石文から丁寧に意味を解釈し、史料を読み解くということを目の当たりにして、歴史を客観的に見ることの難しさを痛感した。しかし本音を 言えば、私にとっては碑文の信憑性を疑いつつ、どの国が優位だったのかということを分析することなど全く重要ではなく、『七支刀』や『碑文』などの遺物か ら、日本と韓半島、そして中国が長く関わりあってきた事実が活き活きと見えてくることが、興味深く感じられるのである。

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ソウルで韓日関係史を学ぶ

姜咲知子2004/09/22
価値観の共有が可能になってきた今だからこそ、韓日両国が近い隣人としてお互いに発展し分かち合える未来を作りたいという趣旨のもと、ソウルで歴史の講座が開かれた。
ソウルで韓日関係史を学ぶ
タプコル公園にある抗日運動を記念する像
ここは、1919年3月1日におこった「3・1独立運動」の発祥の地だ
 ソウルで暮らす日本人を対象に、ソウル市立大学の市民大学において、日本語による「日本人のための韓日関係史」という講座が設けられたと聞きつけ、受講 してみることにした。全16回の講座の初日は、なぜこの講座を開催することになったのかという経緯とねらいについてのお話と、講座のおおまかな流れについ て説明を受けた。

 この講座は、ソウル市立大学教授の鄭在貞(チョン・ジェヂョン)先生が、市民大学の学長になり、是非とも実現させたいということで開設される運びとなったものだ。

 鄭先生は、1979年から1982年までの3年間、東京大学に留学し、大学院で人文科学部において歴史の勉強をされたことがあり、この留学中の様々な経 験から日韓の関係史に深く関心を持つようになったそうだ。日本で歴史を学ぶということは、歴史学的にみると、「植民地史観」(帝国主義の流れの中、植民地 を進めた国の歴史観)を学ぶということで、“親日家”という批判を受けかねないため、周りからは反対されたそうだ。

 「しかし、私はある意味“親日”かもしれません。日本に親しんでいますから」と、鄭先生はおっしゃっていたが、韓国での“親日家”はそういう意味ではなく、非常に厳しい悪口にあたる。植民地時代に支配者側に協力して、国を裏切った人たちのことをそう呼ぶのだ。

 鄭先生が日本にいた1979年〜82年というのは韓国においては朴正煕大統領が暗殺され、軍事クーデターが起こるなど激動の時期だった。鄭先生は日本に いて、韓国に対する偏ったマスコミの報道や、知識人と言われる人でさえも間違った認識で韓国を語っている姿、そして一般の日本人の様子を見るにつけ、日本 人が韓国という国に対して無知であると強く感じたそうだ。

 そして82年に韓国に帰国した直後、日本で歴史教科書の記述が検定において書き直されるという「歴史教科書歪曲事件」が起きた。韓国国内ではものすごい反日感情が起こり、ソウルでは「日本人お断り」というタクシーやお店が現れるなどひどい状態になった。

 この2つの経験と、その後の日韓共同での歴史教材作りなどを通して、歴史観はそれぞれ違っていて当たり前なのだから、もっとお互いの歴史を知りあうことが大事だと先生はおっしゃっていた。

 特に近年、日本と韓国は様々な分野での交流がさかんになり、世界でも類をみないくらい人やお金が往来するようになった。「戦後の日本」と「民主化運動後 の韓国」という両国において民主主義が進展したこと、韓国が急速に経済発展してきたこと、という2つの流れによって両国に余裕が生まれ、価値観の共有が可 能になってきた。そんな今だからこそ、両国が近い隣人としてお互いに発展し分かち合える未来を作りたいと、鄭先生は述べられた。

 古代史から近代史までを網羅する韓日関係史を日本人向けに行なうという当講座は、市民大学にとっても大きな挑戦といえる。次回から本格的に始まる授業がとても楽しみである。

 ※途中からの講座参加も可能
 ソウル市立大学市民大学 電話:02−2210−2790
(毎週金曜日の15:30〜17:20、受講料6万ウォン)

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韓日関係史講義レポート:「神功皇后伝説」

姜咲知子2004/10/02
ソウルの大学で開催されている「日本人のための韓日関係史」で、「神功皇后伝説」が時代を超えて日本の外交政策の中で使われていることを知った。
韓日関係史講義レポート:「神功皇后伝説」
朝鮮半島地図(編集部)
 ソウル市立大学の市民大学で開催されている「日本人のための韓日関係史」の内容をレポートしたい。とても興味深い内容で、真剣に聞いた。

 講義のテーマは「神功皇后伝説と日本人の韓国観」で、『日本書紀』に記述されている“神功皇后の三韓征伐”が幾度となく日本の歴史の中で語られ続け、日本人の韓国観を形成してきたことを学んだ。

 日本と韓国の6世紀から7世紀の歴史を研究する際、最も重要な史料は720年に完成した『日本書紀』である。しかし『日本書紀』を読み解く場合、気をつけなければならないのは、その当時の時代背景。

 当時大和朝廷は、日本全土をようやく統治し、天皇を頂点とした体制作りを行なっていた。対内的には天皇がこの国を統治していくことの正当性を主張し、対 外的には古代の韓半島を日本の属国としている。しかし、この辺は特に客観性を持って研究する必要がある。あくまで朝廷の主観で『日本書紀』が編纂されてい るからである。

 『日本書紀』の記述から読み解くと、韓国の三国時代(伽耶、百済、新羅)、伽耶と百済は日本と友好的な関係性があったようだ。伽耶は日本の内宮家として 扱われている。ようするに天皇の直轄領と記述されている。しかし7世紀後半、新羅によって韓半島が統一され、伽耶と百済が滅ぼされた結果、その地の人々が 多く日本に渡り、渡来人となった。

 新羅は、8世紀に入ってからも朝廷にとっては脅威だったといえる。新羅との外交政策のため、「神功皇后伝説」が度々使われることとなる。……「神功皇后伝説」とは何か?

 『日本書紀』の中では、神功皇后は3世紀にいた人物とされ、神の啓示を受けて新羅征伐に向かったものの、新羅の王は“日本”は神国だから対抗できないと して服従したとされている。そして当時韓半島にあった、新羅、高句麗、百済を従えたことを“神功皇后の三韓征伐”と呼んでいる。

 しかし3世紀というのは日本の弥生時代にあたり、豪族たちが諸国にわかれ争っていた時代で、大和政権のできる前だ。その時代に海を渡り韓半島を征伐した とは考えにくいため、神功皇后は実在しない人物だと考えられているという。このような架空の物語が『日本書紀』に描かれた背景には、やはり新羅への対抗意 識があったからだと思われる。しかしこの「神功皇后伝説」は時代を超えて、日本の外交政策の中で象徴的に使われることになる。

 例えば鎌倉時代、高麗郡や南宋軍を従えた蒙古軍が日本を侵略してたきた。大嵐により失敗したところ、これを神功皇后の神力によるものだとする“神功皇后 信仰”が広められるようになった。そして、神功皇后が新羅征伐に向かったときにお腹にいたとされる「応神天皇」をまつる八幡神社も多く建立されるように なった。

 戦国時代には、あの豊臣秀吉も朝鮮出兵の際、長門国(北九州)で仲哀天皇と神功皇后が祭られている神社を参拝している。侵略の歴史的正当性を求めようと したと考えられる。この他にも、朝鮮に出兵した人々が残した文献には、神功皇后伝説を用い、朝鮮は日本に服属されるべき対象という考え方が記述されてい る。(参考:島津家『征韓論』/田尻鑑種『高麗日記』/『清正高麗陣覚書』)

 江戸時代には、儒学者、国学者たちによる研究が行なわれるが、日本の古典を絶対視、神聖視し、古代において日本の神や天皇が韓半島を支配し、王や貴族た ちもそれに服従したという古代史像がそのまま信じられることとなった。そして明治以降も、天皇中心の政治体制を作っていく過程で『征韓論』が語られ、韓国 侵略政策が正当化されたという。

 明治政府が1903年に作った第1期国定教科書には、『日本書紀』に描かれた神話の世界が歴史的事実にのように記述された。神功皇后の項目においては、 まさに新羅征伐がそのまま引用された。韓国への侵略と支配を歴史的に正当化するために、古代において一時的にも日本が韓国を支配していたという「史実」が 必要だったからであろう。そうして日本による韓国植民地支配が進められたと思われる。

 ……以上が、9月17日の講座の内容である。『日本書紀』のひとつの記述からの視点で歴史をみても、日本と韓国の深い関わりが見えてきてとても興味深 かった。現在ソウルで韓国語を学びながら、「言葉」という文化においても、多くの共通点や類似点を発見して驚くことが多い。近年急速に近くなった両国の関 係が、施政者たちが作った歪んだ歴史から生まれた誤解と偏見を越えて、これからも真に深まっていくことを願ってやまない。

※ 文中の韓半島、朝鮮などの呼称は、授業中に使われた呼称をそのまま引用しています。

韓日関係史講義レポート:「倭寇の世界」

姜咲知子2004/11/06
現在「倭寇」について、日韓の間で争点となっているのが、倭寇の構成員に関する歴史教科書の記述である。
韓国 大学 NA
 何度かお伝えしている“ソウルで学ぶ韓日関係史”。今回の講義のテーマは「倭寇の世界」だ。先週までは古代史を専門にしている先生だったが、今日から中 世がご専門のソン・スンチョル先生の授業がはじまった。孫先生が講義される時代は、日本でいう鎌倉時代が終り、南北朝時代にはいった頃(14世紀)から、 江戸時代がはじまる前(16世紀後半)までの時代の韓日関係である。

 この時代の韓日関係を語るうえで、外すことができない存在が「倭寇」である。倭寇とは、14世紀から16世紀にかけて、東アジア海域、特に朝鮮半島と中国大陸沿岸を侵犯し、人と物を対象に略奪行為を行なった海賊集団のことをいう。

 『日本史辞典』(平凡社)や『諸説日本史研究』(山川出版)などの解説書によると、倭寇の構成員は14世紀の前期倭寇が、主に対馬・壱岐・松浦地域の漁 民。16世紀の後期倭寇は、中国(明)の人々と、日本人、ポルトガル人などもいたとされている。しかし近年の研究により、前期倭寇の中には、高麗時代に最 も低い身分とされていた禾尺(かしゃく)や才人(さいじん)が含まれていたことが注目されるようになった。

 講義資料の中で紹介された日本で発行されている日本史の辞典、参考書などの記述を見ると、それぞれが様々な書き方をしていて面白い。山川出版から出てい る『Story日本の歴史』の中には、“海洋と密接な関係を持つ諸民族が雑居するこの地域で、国籍や民族を問うことは無意味だが、現在の国籍からすると、 倭寇は日本人や朝鮮人、あるいはその混血などを中心とした雑居集団といえよう”という記述がある。倭寇の構成員に関しては様々な諸説があることがうかがえ る。

 「倭寇研究」の材料となる史料は日本にはほとんどなく、中国、韓国に残る史料から研究されている。日本にあるのは、現在東京大学史料編纂所に保管されて いる『倭寇図巻』(全7枚)で、明の画家が描いたものだ。倭寇がどんな姿をしていたかということを記す資料として唯一の絵画史料となっているという。講義 では、その図を本から写しとり、スライドで全て見せてもらった。船の形、人々の姿、武器の種類など、倭寇の姿が克明に描かれているのと共に、明の人々が避 難する姿なども描かれていた。

 そして、倭寇がどのような行為を行なっていたか、倭寇に関して高麗王朝がどのような対策をとったかなどの記述は『高麗史』や『国朝典彙』や『籌海図編』 の中にあり、この記述を見ると、倭寇が朝鮮半島の奥深くまで侵犯したことがわかる。高麗王朝が外交的、軍事的な政策により倭寇を鎮圧しようとしたことや、 倭寇が穀物や野菜、人を略奪し、残虐な行為を行なっていたことが詳細に記述されている。この時期に倭寇によって略奪されたと思われる「朝鮮鍾」や「高麗仏 画」が多く日本に残っている。

 現在「倭寇」について、日韓の間で争点となっているのが、倭寇の構成員に関する歴史教科書の記述である。特に、扶桑社から発行されている『新しい歴史教 科書』の中には、“倭寇とは、当時朝鮮半島及び中国大陸沿岸に出没した、海賊集団をいう。彼らの中には日本人以外にも、朝鮮人も多く含まれていた”と記述 され、韓国側から深刻な歪曲部分として指摘されている。

 当時の時代背景を鑑みると、「倭寇」像は、室町末期の日本と高麗末期の朝鮮の、混乱した情勢が生み出した産物といえるかもしれない。

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韓日関係史講義レポート:「ジャパンタウン」

姜咲知子2004/11/19
室町幕府と朝鮮王朝は、明という大国を中心とした冊封体制のもとで、対等な関係にあったが、慶尚南道の港に“倭館”という日本人居住地があったことは、あまり知られていない。
韓日関係史講義レポート:「ジャパンタウン」
授業で見せてもらった図
 今回の講義のテーマは「慶尚道のジャパンタウン 三浦(サンポ)」である。1392年に建国した朝鮮王朝が、徐々に現在の慶尚南道に「釜山浦」「齋浦」 「塩浦」という3つの港を開いたことによって、“倭寇”が、朝鮮半島に脅威を与える海賊から、貿易と外交の相手へと変化していった。その友好的な関係は、 1510年まで続くのである。

 この3つの港の様子が、朝鮮の申叔舟によって編纂された『海東諸国紀』(1471年)の中に描かれている。山に囲まれた港には、その地域を収めていた領 主の城と、“倭館”と呼ばれる日本人の居住地域が描かれている。倭館の周りには住民のためのお寺がたくさん存在し、近くには、倭館を見張るための“営庁” が設置されていた。当時もっとも栄えていたのは齋浦(現・鎮海市齋徳道)で、15世紀の末には2500人の日本人が滞在していたという記録が残っている。

 2500人もの日本人がどのように朝鮮半島に渡り、貿易を行なったり生活をしていたかということは、『海東諸国紀』や画家の謙斉が描いた『草梁倭館図』で知ることができる。

 今回見せてもらった史料の中で、この『倭館図』が一番興味深かった。『倭館図』によると、およそ東西に680メートル、南北に470メートル、10万坪 の敷地の中に、居住地、館主屋、市場、裁判屋、神社などの様々な施設があった。ここは一種のジャパンタウンであったことが伺える。“倭館”に暮らす日本人 には、対馬の人が多かったと言われている。彼らを相手に商売をする現地人もいたことは言うまでもない。通交が盛んだった14世紀末から15世紀初頭の三浦 は、大変にぎやかだったことが想像できる。

 三浦での通交に関しては、もちろん様々なきまりごとがあった。朝鮮王朝から官職を受けたものだけが貿易を許されたということや、年間何隻の舟の入港を認 めるかなどという規定や、日本からの通交者の区分と対応の仕方などが『海東諸国紀』の中に詳しく残されている。通交者の区分を見てみると、“国王使”“諸 臣酋使”“九州節度使・対馬島主”“諸酋使”の4つに区分されていたようだ。

 当時室町幕府と朝鮮王朝は、明という大国を中心とした冊封体制のもとで、対等な関係にあった。明からそれぞれ朝鮮半島、日本列島の王として認めてもらっ たという外交的な秩序を作り、対等な関係で交流をしていた。三浦から首都の漢陽に向けてはいくつもの交通ルートが整備され、これを通じて通交者や室町幕府 の国使が朝鮮の王に謁見し、朝鮮王朝からも日本に通信使が派遣されていた。14世紀末から15世紀にかけての日韓関係は、国家間の外交関係も経済的な関係 においても、この時期、非常に友好的であったことが“三浦”を通して見えてくる。

 しかし慶尚南道の港に“倭館”という日本人居住地があったことは、日本の歴史上あまり知られていない。私も初めて聞いた話であった。是非一度、“倭館”があった場所に訪れてみたいものである。しかし先生曰く、残念ながら遺跡と呼べるものはほとんど残っていないそうだ。

 この友好的な関係も、1510年に起きた三浦倭乱により三浦が閉鎖され、その後1582年の豊臣秀吉の朝鮮出兵(韓国では“壬申倭乱”という)が起き、 崩れ去っていく。次回の講義はまさに“壬申倭乱”を取り上げることになっているが、残念ながら私は参加できないためレポートできない。次々回が朝鮮通信使 を学ぶことになっているので、こちらを乞うご期待。

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韓日関係史講義レポート:「戦後史」

姜咲知子2005/01/13
子どもの頃、在日コリアンの子どもにとっては忌むべき存在だったキムチが、いまや日本の食卓に上る漬物ナンバーワン。歴史を未来につなげ、韓日が真の信頼関係で結ばれることを願っている。
韓日関係史講義レポート:「戦後史」
1919年3月1日に起こった独立運動発祥の地、タプコル公園には、今も多くのお年寄りが集う
韓日関係史講義レポート:「戦後史」
韓国、板門店
中央のコンクリートを隔てて、右が北で左が南
 2005年は韓日関係にとって3つの大きな意味がある。1つは1965年の国交正常化から40年ということ。もう1つは1945年の日本の敗戦、韓国に とっての植民地解放から60年ということ。そして最後の1つは、1905年韓国の外交権が日本に奪われ、実質的な植民地支配がはじまった第二次韓日協約か ら100年にあたるということである。これら韓日の歴史の起点となる出来事をふまえつつ、最後の講義は戦後の韓日関係を振り返った。

 1945年の韓国は、日本の植民地から解放された以外に、ソ連の南下に対抗するためにアメリカがひいた防衛ライン、38度線が引かれた年でもある。そし て1955年に、この38度線を境に、韓国の歴史上最も悲惨とも言われる同じ民族による戦争が勃発する。日本はこの戦争の特需により戦後最大の好景気を迎 える。韓国でのこの戦争のおかげで日本は戦後から立ち直ったといっても過言ではない。

 韓国はその後、1961年に朴正煕がクーデターを起こし大統領となる。朴正煕大統領は軍事独裁政権をしき、光州事件などの悲惨な弾圧を行なった独裁者の イメージがあるが、彼の手腕により韓国が今のような経済発展を遂げることができたともいえる。そして、韓国と日本の国交正常化を行なったのも朴大統領であ る。

 1945年以降、幾度となく韓日の間で国交正常化に向けた会談が行なわれていたが、両国の主張がかみ合わず実を結べずにいた。韓国側は、日本の植民地支 配は当時の国際法においても不法なもので、1905年の韓日協約は無効だと主張し、謝罪・補償を請求したが、日本側は植民地は合法的に行なったとし、補償 の責任はないという主張を繰り返していた。そして、日本側の妥協案が「補償はできないが、経済協力はする」というものだった。

 最終的に朴大統領は、韓国の経済発展のためには多くの資金が必要だと考え、1965年有償のものも含め5億ドルの経済協力を受ける形で、日本との国交を 正常化した。これには国内からの反発も大きかった。しかし、この日本からの経済協力費・国民の“血の代価”によって、製鉄所、ダム、高速道路などを建設 し、韓国は経済発展を遂げたといえる。

 近年の韓日の友好的な関係は、民主主義と自由経済を土台にして成り立っていると鄭先生はおっしゃった。近年の韓日関係を示す興味深い資料として、日本の内閣府の「外交に関する世論調査」を元に作成された資料や、毎日新聞の世論調査などが配られた。

 “日本人の韓国に対する親近感の推移”とされたグラフには、1978年から2002年までのデータが掲載されている。興味深い年を拾い上げてみると、 1981年は“親しみを感じる”人が34.5%に対して、“親しみを感じない”人が53.5%となっている。これは前年の光州事件を受けて韓国政府に対す る不信感が生まれたためだと思われる。

 親しみを感じる人の割合が、感じない人の割合を初めて超えたのが1988年。ソウルでオリンピックが開催された年である。しかしこの後しばらくは、歴史 教科書問題や政治家の妄言などもあり、親しみを感じないという割合が50%を超え続ける。しかし経済発展を遂げ、先進国として力をつけた韓国の情報が日本 にもたらされるようになり、1999年には“親しみを感じる”が感じない割合を超える。以降はずっと親しみを感じる人の割合が高い結果となっている。これ はやはり2002年のサッカーワールドカップの影響であろう。

 他にも面白いデータがあった。日本の食卓に上る漬物の推移を示すグラフによると、1998年から急激にキムチの需要が増え、2000年の時点では浅漬けを抜いて食卓にのぼる漬物ナンバーワンがキムチとなっている。これは本当に驚くべきことだ。

 在日コリアン2世、3世世代なら経験ある人も多いと思うが、子どもの頃お弁当にキムチを入れられることが何よりイヤだった。自宅に友だちが遊びに来る時 は、キムチを出さないようにお母さんに頼んだ。そんな忌むべき存在だったキムチがいまや食卓に上る漬物ナンバーワンである。

 肌で感じる日本と韓国の友好関係ももちろんだが、こうして数字でみても、今後ますます両国の友好・交流は深まっていくばかりだと思える。いまや日韓の間を行き来する人々の数は年間400万人を超えているそうだ。

 歴史的にも文化的にも、非常に密接で深い関係のある両国が、未来においてもよりよい関係を保ち続け、両国の人々、在日コリアンが過去の傷も乗り越えて、真の信頼関係で結ばれ、共に豊かに生きていける社会を築けていけたらと強く願わずにはいられない。

 最後に、韓国において「日本人のための韓日関係史」という新しい試みに挑戦された鄭先生に心から敬意を表し、私のレポートの締めにしたい。

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韓日関係史講義レポート:鄭先生と一緒に見るソウル

姜咲知子2004/12/28
鄭先生と一緒に、日韓の歴史に縁のあるソウルの場所を巡った。「韓国の近代史」は「日本の植民地支配」と共にあったのだということを、あらためて深く感じ入った。
韓日関係史講義レポート:鄭先生と一緒に見るソウル
フィールドワークの様子
韓日関係史講義レポート:鄭先生と一緒に見るソウル
鄭先生の解説はとてもわかりやすい
韓日関係史講義レポート:鄭先生と一緒に見るソウル
奥に見える白い建物が、日韓協約が結ばれた場所
 ソウルには、日本の植民地時代の建物や、日本にゆかりのある場所がたくさんある。特に明洞(ミョンドン)周辺には、占領時に日本から企業が入り、百貨 店、銀行、物産会社などを作ったので、その跡地がそのまま現在の百貨店や市場になっている。こういった歴史の流れを知りつつ、今の明洞を見ると、ちょっと 違った趣だ。

 市民大学での講座も残すところあと2回となった。今回の授業はフィールドワークで、日本植民地時代ゆかりの場所を歩いた。いくつかを紹介しよう。

<徳壽宮にまつわる歴史>
 時の朝鮮王朝の皇帝、高宗は妻の閔妃が暗殺されたあと、自分もいつか暗殺されるのではという恐怖に怯え、景福宮での政務ができなくなった。そこでロシア 大使館に逃げ、生活を始める。しかし国民からの強い反発を受けた高宗は、アメリカ大使館やイギリス大使館などに囲まれた徳壽宮に移り住むことにした。

 徳壽宮はソウルの5つの王宮のうちの1つだが、めずらしいことに西洋式の建物が建てられている。ロシア大使館での生活で西洋の文化に触れた高宗は、徳壽宮の中にも西洋建築を取り入れたからだそうだ。

 そして、今現在は徳壽宮の敷地外になっているが、ロシアの建築家が建てた重明殿は、1905年に第二次日韓協約が結ばれた場所である。来年はちょうど 100年目にあたるが、この協約によって朝鮮王朝は外交権を日本に奪われ、実質的な日本の植民地支配がはじまったため、在日コリアンの間でも、在日の歴史 がはじまった年だと言われている。

<陪材中学校と梨花女子高校>
 韓国にはキリスト教信者がとても多い。4人に1人はそうだという話も聞いたことあるが、このように韓国にキリスト教が普及した理由の1つは、日本の植民地支配の反動・抵抗だったとも言われている。

 19世紀後半、日本の支配が徐々に強まる中、韓国国内に西洋の文化を運んだのはアメリカの宣教師だった。宣教師たちが学校を作り、キリスト教の布教とと もに、子どもたちに水準の高い教育を行なった。その代表的な学校が、陪材中学校と梨花女子高校である。この2つの学校からは、韓国の近代化を支えた多くの 知識人が輩出されている。独立運動で有名な柳寛順(ユ・ガンスン)もここの出身である。西洋式の教育をうけた者たちが、韓国の独立運動の波を作る力となっ たのだ。

<慶煕宮>
 ソウルにある5つの王宮のうちの1つであるが、1910年に日本政府が王宮を壊し、日本人子弟を通わせるための「京城中学」を建てた。そしてこの王宮の 正門だった“興化門”は、1932年に南山に作られた「博文寺」(伊藤博文を祭った寺)の門として移転された。(現在は王宮の敷地内に戻されている)日本 が植民地支配を行なううえで、景福宮内に朝鮮総督府を作ったことは知っていたが、他にもこのような傍若無人なことをやっていたのかと驚いた。

 それに加えて驚かされたのは、この王宮の敷地の一番奥にある、大きな防空壕の存在である。ここは、1944年に日本軍と通信機関が作った特殊な施設だそ うで、鄭先生曰く、幅が3mもある巨大なコンクリートの壁で作られているそうだ。日本軍の残したものなどを壊して王宮を復元しようという声もあるそうだ が、是非、戦争の傷跡として残して、いつか公開してほしい。

 他にもいくつかの場所を先生の案内で見て回った。このような機会はめったにないことで、有意義で楽しい時間だった。鄭先生も前回の授業の際に仰っていたが、「韓国の近代史」とは「日本の植民地支配」と共にあったのだということを、あらためて深く感じ入った。

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