b 「明治はよかった」司馬史観再考の動き
2010.11.26 サンデー毎日から
 12月5日から放映されるNHKドラマ「坂の上の雲」第2部。いまや「国民的作家」と呼ばれる司馬遼太郎の人気小説が原作だ。没後14年、歴史学者たちの間では「明治は明るい」とする司馬の歴史観を問い直す動きが広がっていることをご存じだろうか。

 司馬をよく知る歴史作家か懐かしそうに語る。

 「司馬氏は「歴史」の新しいスターを誕生させることに終生の熱意を持った作家でした。司馬氏が本格デビューした1960年代、吉川英治氏らによって歴史物のスターは出尽くしていた。『坂の上の雲』で描いた秋山好古・真之兄弟とは、坂本龍馬や新撰組の土方歳三と同じく、いわばけれんのスターなのです」
 『坂の上の雲』は松山出身の俳人・正岡子規と同郷の軍人である秋山好古・真之兄弟を軸に多くの人間群像を交え、日清、日露戦争を通じて明治という時代を描いた。子規は別として「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古、日露戦争時の連合艦隊参謀で9歳違いの弟・真之の兄弟は、司馬の筆によって脚光を浴びた存在といっても過言ではない。
 昨年末に続く今回のドラマ第2部では、1900年の北清事変から日露開戦に向けて連合艦隊が佐世保港を出港した04年2月までを描く,この間、日英同盟の締結(02年)や子規の死(同)など見所が多い。配役は好古役が阿部寛、真之役は本木雅弘、子規役は香川照之。

 「司馬氏は『ミリタリズムを鼓吹しているように誤解される恐れがある』として映像化を拒んできました,湾岸戦争(90年)のころに、日本国憲法9条を改正して軍を保有するという『普通の国』論が登場し、司馬氏はいっそう危機感を募らせていました。みどり夫人は原作通りに映像化することでドラマ化を許諾したのです」(ジャーナリストの牧俊太郎氏)
 『坂の上の雲』は準備期間に5年、執筆に4年3ヵ月を費やした。書き上げたとき、司馬は49歳だったという。司馬自身が次のように独白する箇所がある。
「この作品は小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、いまひとつつは、この作品の書き手−私のことだ−はどうにも小説にならない主題をえらんでしまっている」(文巻文庫8巻「あとがき四」)

平成の「日清、日露戦争」を回避する教訓 

「無名」(冒頭の歴史作家)である秋山兄弟を主人公にしたアイデアの斬新さに加えて、同書最大の特色は「ほぼ百パーセントが事実」と宣言した点だ。そのうえで、司馬の歴史観とされる「明るい明治、暗い昭和」という時代対比、いわゆる「司馬史観」を展開している。司馬史観とは−。
「ロシア脅威論は誇張だった」

 「日清、日露戦争を連戦連勝して『坂』を上り詰めた日本ですが、以降はその『坂』を転がり落ちるようにして第二次世界大戦の敗北、すなわち国家の滅亡に至りました。同書が『日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない』と明治国家を手放しで称賛するあたり、まさしく司馬史観を象徴している」(冒頭の歴史作家)
 これに対し、近年の歴史学者からは「司馬氏の小説作品が明治という時代の見方を歪めている」と、司馬作品と司馬史観を問い直そうとする動きが出ている。
 「司馬氏は膨大な文献資料を読んでいますが、歴史の解釈が我田引水的であったり、誇張や思いつきで書いている部分かある。誤った解釈や誇張が史実として浸透することは大変に恐ろしいことです」
 そう話すのは、一橋大の中村政則名誉教授(近現代史)だ。自著『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店)の中で「明らかに誇張」とするのは、たとえば軍備拡張のため「飢餓予算」を組んだ明治政府に対して、司馬が「当時の人々からは不満がほとんどなかった」とつづった部分である。
 1896年から98年にかけ、軍備拡充のため地租増徴を目指した第2次伊藤博文内閣から第1次大隈重信内閣までの四つの内閣が、世論の反発により短期間でバタバタと倒れた事実を司馬は書いていない。
 『臥薪嘗胆』する民衆が不満を蓄積していることが司馬には見えませんでした。民衆の視点が希薄なのです」(前出・中村氏)

 『坂の上の雲』で「ロシアが八分、日本が二分」と言明された戦争責任の記述も、中村氏は「事実誤認」と断じる。これは「ロシア=侵略、日本=防衛」という司馬の「日露戦争は祖国防衛戦争だった」との考えに沿った記述なのだ。だが、最近の研究ではロシア国内は主戦派、非戦派と国論が二分されていたという。そうなれば司馬の十八番であるロシア脅威論自体が「誇張された表現」ということになる。
 そもそも司馬が「日露戦争は祖国防衛戦争」とした定義自体、どうも雲行きが怪しい。近年は、日清、日露戦争が日本による朝鮮半島の植民地化、中国侵略への布石とみる研究者が多いからだ。

 「司馬氏が称賛した明治の栄光は、朝鮮や中国の犠牲の上に成り立っている。だが戦場となった朝鮮や中国の内情がほとんど描かれていないのです。少なくとも執筆当時、司馬氏は朝鮮の歴史を深くは知らなかったと断言できます」(中塚明・奈良女子大名誉教授=日本近代史)
 旅順攻略戦で死傷者6万人を出した陸軍第三軍、乃木希典司令官に対し、司馬が同書で展開した「乃木愚将論」も大きな論議を呼んだ。「愚将ではあまりに厳しすぎる」(前出・中村氏)と、乃木を慮る見方も多いからだ。『巨眼の男 西郷隆盛』『龍馬』などの作品多数がある歴史作家の津本陽氏は司馬の「乃木愚将論」の背景をこう読み解く。
 「戦前から『軍神』とされた乃木ですが、司馬氏が『実は愚将たった』という目新しい新説を提起したことで、大いに読者の気を引きました。旅順での乃木は、確かに愚将とみられる部分もあった。いかなる資料を小説の材料とするかは、作家の個性なのです」

「司馬史観」が問い直されようとしている現在、NHKドラマにどこまでそれを反映させるかは不明だ。NHKが新たな資料発掘で塗り替えられた部分を描くのかどうか、研究者たちの視線も熱い。

「日比谷焼き打ち事件」と「ビデオ流出」の「世論と外交」

 「それにしても、中国やロシアとの間で領土問題がくすぶっている今、『坂の上の雲』がドラマ放映されるとは何とも皮肉な偶然です。『平成の日清、日露戦争』を回避する教訓を得ようと、政界ではひそかに注目されています」(政治ジャーナリスト)
菅直人政権は、『坂の上の雲」の時代と同じく隣国の大国である中国、ロシアとコトを構えているところだ。沖縄・尖閣諸島沖で中国漁船船長が逮捕され、領有権をめぐる目中間の対立に発展した「中国問題」、そして、メドベージェフ大統領が初めて北方領土の国後島を訪問した「ロシア問題」である。
 とりわけ漁船衝突をめぐるビデオ映像が流出したことで国内世論は沸騰中。政府の「弱腰外交」に対しても非難囂々だ。
 日本女子大の成田龍一教授(日本近現代史)は、「坂の上の雲の放映が国内のナショナリズムを高揚させる危険性を指摘する。
 「ナショナリズムの根底にあるのが不安です。今の日本も政治、経済、外交とも八方ふさがりで不安が高まっている。不安が高じて日本が「暴発」しないためには、司馬がその後の作品などでアジアに向けた視点、司馬とアジアの付き合い方が参考になるはずです」(成田氏)
 成田氏が挙げるのは、司馬が執筆した最後の小説『韃靼疾風録』。明王朝から清王朝にかわる時期、主人公の平戸の武士が中国文化に溶け込み、活躍する物語だ。すなわち、アジアの一員としてふるまい、共存する姿勢が肝心、と説いている。

今こそ「歴史の教訓」に学べ
さらに、
 「日露戦争での日英同盟のように、国際関係を背景にした第三国支援が重要になります」
 平成の日清、日露戦争回避のカギをこう話すのは、日露戦争の著作を数多く発表している近現代史家の別宮暖朗氏である。
 日本海海戦でロシア・バルチック艦隊は、バルト海から喜望峰を回って日本海へ向かった。だが、日英同盟を背景にした英国の圧力で途中の停泊地で燃料である石炭の補給を受けることができず、かなり消耗している。また、ロシアと同盟関係にあったフランスが参戦してくるのを防ぐ効果もあったという。
 「中国やロシアという国家は当時と一緒で、為政者の本音が読みにくく外交が天変なのは確かです」と言う別宮氏は、こう続ける。 「日露戦争でいえば、当時、国内にはロシアとの同盟を模索する動きもありましたが、英国はロシアの南下を防ぎたいという利害が一致したことと、小村寿太郎外相が『英国は約束を守る国だ』と判断、日英同盟が結ばれました。今の日本にも、こうした外交力が必要です。『世界の中の日本』を意識していた明治時代の政治家を見習うべきです」
 政府の外交姿勢が「弱腰」として国民の憤激を招いたという点で、日露戦争後に起きた日比谷焼き打ち事件と今回の尖閣事件には、時代は違えど共通するものがあるといえそうだ。
 日比谷焼き打ち事件は、1905年9月5日、日露戦争の戦後処理をめぐるポーツマス講和条約の「反対国民大会」がきっかけだった。集まった3万人は「賠償金ゼロ、領土は樺太南半分だけとはなんだ」と気勢を上げた。その後に暴徒化し、警察署や交番への放火や投石が繰り返され、戒厳令が発令された。
現代ニッポンでも、同じような事態が起きるだろうか。
 「当時の衆院選挙制度では、一定の国税を納めた25歳以上の男性にしか選挙権が与えられませんでした。日比谷焼き打ち事件で暴徒となったのは選挙権のない人たちが中心でした。今は普通選挙権が保障され、政府の方針に賛成できないのならば選挙で答えを出せばいいのです。だから、尖閣事件で、当時のような暴動にまで発展しないのではないでしょうか」(別宮氏)
 尖閣事件に絡んで、仙谷由人官房長官は10月13日の会見で日比谷事件を引き合いにこんな発言をしている。
 「ロシアから賠償金も取れずに条約を結んだのはけしからんといって、日比谷公園が焼き打ちされる大騒動に発展した。(尖閣事件で)釈放や逮捕だけ取り出してどうこうと声高に叫ぶことはよろしくない」この発言を、別言氏はこうみる。
 「外交案件は通常よりも世論が沸騰しやすくなるので、冷静に対処しなければなりません。仙石氏が日比谷事件を持ち出した気持ちは分かりますが、そんな時だからこそ、官房長官たるもの世論を刺激するような発言は控えるべきです」

外交に詳しい政治ジャーナリストは指摘する
 「世論に迎合する外交は失敗すると言われ、日比谷事件が引き合いに出されます。平成の時代に世論を全く無視してきないが、世論に背を向けなくてはならない時もある。ネット時代の政治家は一層高度なバランス能力が求められます」
 ちなみに、『坂の上の雲』は日比谷焼き打ち事件については触れていない。
 だが、司馬はエッセー『この国のかたち』第1巻で焼き打ち事件に聞する見解を明らかにしている。
 「私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に−たとえば参謀本部に−蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない」
 前出の一橋大名誉教授、中村氏によると、この暴動で民衆の排外熱、戦争熱を煽ったのが新聞各紙だ。ビデオ流出でも世論が過熱、それを一部のメディアが煽る。現在の日本国内情勢とは似てなくもない。
 「司馬氏が言う『四十年の魔の季節』とは、太平洋戦争敗戦という国家滅亡の道のこと,ビデオ問題でナショナリズムに溺れた世論がこれ以上、政府を突き上げれば、今後の外交の舵取りに重大な影響を残すことになる。司馬氏がエッセーで指摘したような冷静な複眼思考で推移を見守るべきです」(前出・政治ジャーナリスト)
 ドラマ放映を奇貨として「この国のかたち」を改めて考え直してみたい。
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a 「これだけは知っておきたい日露戦争の真実」(高文研)から
(24-25ページ)
ロシアを〈脅威〉に思うことで、そのほかの列強はあまり〈脅威〉とは思われなくなっていく認識の構造ができあがっていくわけです。 これはなぜか。基本的に明治維新以来−幕末以来といっていいのですが----、倒幕勢力の中心となった薩摩・長州両藩や明治維新政府は、基本的にイギリスからの情報で世界を見ていたからなのです。イギリスの新聞やイギリス政府からの情報で世界を見るというやり方です。現在も同じですが、その情報がどこから発信されたかで、ものの見方が変わってきます。現在の日本の場合、アメリカからの情報が多く、たとえば反米勢力=テロリストというイメージがこの間、流布されてきました。明治維新以後は、基本的にイギリス情報で、例えば新聞だと『タイムズ』、通信社では「ロイター通信」というのちのちまで大きな影響力をもつマスコミが流す情報、そしてイギリス政府が日本に提供してくれる情報で多くの日本人が世界を見ていたのです。
 また、明治維新以来、日本政府は「お雇い外国人」をたくさん雇いましたが、一番多いのはイギリス人でした。学校関係では、アメリカ人、ドイツ人、フランス人が結構いましたが、重要なところはイギリス人が握っていたのです。だから、知らず知らずのうちに、日本人は日本からものを見ているように思いながら、イギリスの目で世界を見るようになってしまっていたのです。
 当時、イギリスはロシアと世界的に対立していました。バルカン半島を巡ってイギリスとロシアは衝突していました。それからアフガニスタンでも、インドを植民地としているイギリスと、南下しようとするロシアが衝突しました。そして極東です。朝鮮半島と「満州」を巡ってロシアとイギリスは牽制し合っていました。 このイギリスの反ロシア戦略が、日本の政治家やジャーナリストの意識に影響を与えていったのです。実際には当時のロシアに、朝鮮半島まで急速に南下し、日本に押し寄せるだけの余力は客観的にはありませんでした。ところが日本の為政者たちは、ロシアを実態以上に強大に見て、速やかに接近してくる最大の〈脅威〉であると思ってしまったのです。 

(写真:日本と同盟関係にあったイギリスで出版された『自由のための日本の戦い』。1904〜05年にかけて出版された本(全3巻)で、戦地に派遣された従軍記者・カメラマンがイギリス本国に送った記事と写真をまとめたもの。本書に掲載した、出典の記載のない写真・イラストは、この本から引用した。)


 
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