今年2010年は、韓国を併合して100年になるとともに、日本の近・現代史最大の思想弾圧事件である大逆事件から100年になります。雑誌『世界』に、昨年1月号から毎月連載されていた田中伸尚稿『大逆事件
100年の道ゆき』が、今年の3月号で完結しました。これを機に、全編を読みなおしました。(写真は、幸徳秋水と管野スカ゛)
明治天皇暗殺を企てたとして、社会主義者らが弾圧された大逆事件で死刑になった幸徳秋水の刑死から丸100年を迎えた24日、故郷の高知県四万十市で墓前祭が開かれ、市民や研究者ら約220人が集まって思想や業績をしのんだ。
幸徳は非戦や自由、平等を唱えた社会主義者。田中全市長が「天寿を全うしていればその後の日本の歴史は変わっていただろう」と悼み、墓前に花をささげた。
幸徳の義兄のひ孫幸徳正夫さん(68)も参列し「今となっては無罪の証明は無理だが、ここをスタートに幸徳の思想が広まってくれたらうれしい」と期待を寄せた。
事件は社会主義者らの一掃を図った国家によるでっち上げとされ、幸徳は無罪と考えられている。しかし最近も一部で関連行事が拒否されるなど「逆賊」との偏見は消えていない。
事件で多くの連座者を出した和歌山県新宮市から駆け付けた「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」会長二河通夫さん(80)は「もう100年とも、まだ100年とも言える。1世紀を経て、犠牲者の名誉回復はやっと半歩進んだ」と話した。
2011年1月17日
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大石誠之助=新宮市立図書館提供 |
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大石誠之助の墓に手を合わせる参加者=新宮市新宮 |
100年前に大逆事件で処刑された新宮市の医師大石誠之助らの命日(24日)を前に、市民団体「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」のメンバーらが16日、犠牲者の墓参りをした。大石の墓参りには、大石を名誉市民に推挙することに慎重な姿勢の田岡実千年市長も初めて参加した。
事件で有罪とされた「新宮グループ」の6人のうち大石ら3人の墓がある新宮市の南谷墓地には「顕彰する会」の二河通夫会長、田岡市長、市議ら約30人が訪れた。大石、高木顕明(けんみょう)(1914年に獄中で自殺)、峯尾節堂(みねお・せつどう)(19年に獄死)の墓に一人ずつ線香をあげて手を合わせた。
大石を名誉市民にしようと活動する二河会長は取材に「この1年、シンポジウムや名誉市民の問題で、多くの方に関心を持ってもらえたことを報告した」と語った。田岡市長は、大石を名誉市民に推挙することについて「市議会が全会一致で賛成いただける状況になれば考えたい」と話した。
新宮市の名誉市民は市の条例では市長が議会に提案することになっている。田岡市長が慎重なため、昨年11月に推進派の市議有志が議員提案での推挙を目指し、条例改正案を出したが否決された。その後、「顕彰する会」が市長の推挙と市議会の尽力を求める請願を提出。14日の総務委員会で採択され、3月定例会の本会議で議論される見通し。
大逆事件は、明治天皇暗殺を企てたとして1910年5月から社会主義者らが逮捕され、翌年1月に幸徳秋水ら12人が死刑、12人が無期懲役になった。「新宮グループ」の大石と成石平四郎が死刑、4人が無期懲役になった。
成石と兄・勘三郎(31年死去)は田辺市本宮町耳打に、崎久保誓一(55年死去)は三重県御浜町に墓があり、「顕彰する会」のメンバーらはこの日すべて訪れた。(三島庸孝)
筆者による大逆事件の概要は、次の通りです。
「天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水ら26人が「大逆罪」で公判に付され、大審院特別刑事部は非公開裁判で、一人の証人も採用せず、半月の「急ぐこと奔馬」のような審理で11年1月18日に24人に死刑・・・の判決を言い渡した。このうち幸徳をふくむ12人は、判決からわずか1週間後の1月24、25日に縊(クビ)られてしまった。
戦後の諸研究の積み重ねでこの事件は、当時の政府が無政府主義者、社会主義者や同調者、また非戦・自由・平等といった思想を根絶するために仕組んだ国家犯罪だと判っている・・・」。
「大逆罪」とは何か。旧刑法第73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫に対シ危害ヲ加エ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という条項をさし、1947年、刑法から削除されました。民主主義とは相容れない条項であることは、いうまでもありません。
では彼らは、何をしたのか。「非戦、平等、自由、・・・社会主義を達成するには天皇迷信の打破によって」と思い込んだ宮下太吉は、「爆裂弾・・・を天皇に投げれば、迷信の打破になる」として天皇暗殺を計画し、管野須賀子、新村忠雄、(古河力作)の2名(3名)の賛同を得て、爆裂弾製造へと駆けていきました(信州明科
爆裂弾製造事件)。しかし、大逆罪で逮捕された26名のうち上記3(4)名を除く23(22)名が、検察側の予断と推測によって、宮下らの暗殺計画に連座したとして、死刑を含む有罪とされたのです。そして、12名が処刑され、5人が獄死しました。近・現代史最悪の冤罪事件でした(古河力作の関与については、疑問とする見解あり)。
筆者の田中伸尚氏は、大逆事件の被害者の生と死の記憶を、よみがえらせます。日本ではじめて社会主義やアナキズムを学び唱えた人びとの、人間的で魅力的な姿が、浮かび上がります。新宮町のクリスチャンの大石誠之助は、非戦論を唱え公娼制度に反対する一方で、貧乏人からはお金を取らない町医者でした。処刑されたのは44歳。新宮町の真宗大谷派住職・高木顕明は、部落問題と取り組み、仏教教団の主戦論を批判し、平和を説きました。死刑判決のあと無期懲役に減刑され、獄中にて50歳の誕生日に自死。教団から除籍処分を受けました。民衆の苦しみや辛さを、自らの痛みとして生きてきた箱根町の禅僧・内山愚童は、小作人の解放を「無政府共産」に求めました。36歳で刑死。曹洞宗から排斥。構造的な農業変革を目指した実践的な農業者・森近運平は、地元の岡山・井原市で、先進的な温室栽培に取り組んでいました。東京時代の幸徳秋水との交遊から逮捕、刑死。30歳。この4名以外の被害者についても、その生と死を、筆者は丁寧に追跡しています。
これら被害者には、刑死や獄死があったばかりではなく、死後、家族・縁者に対する官憲の迫害とともに、「逆賊」という国家の烙印が、ついてまわりました。処刑された被害者の葬儀も墓を立てることも、許されませんでした。底なしの貧困と世間との断絶に、遺された家族の苦悩ははかりしれません。しかし、被害者の妻や兄弟、孫などの家族・縁者が語る、被害者に対する温かい言葉と高い矜持の心は、被害者たちの人間的な魅力がいまなお、近親者の間に語り継がれていることを、想像させます。
田中氏は、国家による思想弾圧に対して、それを押し返えそうとした知識人の動向に、注目します。石川啄木は最も早く、事件の真相を見抜いていた知識人でした。石川は、事件の弁護団のうち最も若い弁護士・平出修から情報を得ていたのです。この事件を論じた石川の評論『所謂今度のこと』を知るのは、戦後になってからのこと。その平出修は、裁判の不当性を衝いた小説『逆徒』を発表。しかし掲載誌『太陽』は発禁処分を受けました。この『逆徒』もやはり、戦後を待たなければ、一般には読めませんでした。平出は『逆徒』の末尾に「俺は判決の威信を蔑視した第一の人である」と書き記しています。啄木の評論も平出の小説も結局、当時は一般には読めなかったのに対して、徳富蘆花の第一高等学校弁論部での講演『謀叛論』は、処刑からわずか1週間後、公開の場で公然と「大逆事件」裁判を批判しました。12名の処刑を「暗殺」と呼び、宗教界が慈悲もなく除籍処分をしたことを批判し、最後に聴講している学生たちに、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」とすら問いかけました。当時一校には、「横浜事件」の細川嘉六、田中耕太郎、河合栄治郎、芥川龍之介、山本有三、久米正夫、菊池寛が在籍しており、近衛文麿も聴衆の一人だった、と筆者は書き添えています。
1960年代に入って出された再審請求は、法的安定性を重視する検察の論理の前に、棄却されます。筆者は、「大逆事件」判決の法的安定性とは、「明治国家の過誤の守護」だと批判します。しかし、この再審請求がきっかけになって、「研究は目覚しく進展し、運動も広がり、社会の事件観にも変化の兆しが見えかけ」ました。
1990年代は、「大逆事件」被害者の復権と名誉回復の画期となった時期でした。この連載記事最終回は、「闇を翔る希望」と題して、各地・各界での変化と復権の動きを報告しています。新宮市では96年、市議会における一人の市議からの質問をきっかけに、市の広報に大石誠之助、高木顕明、峯尾節堂が、事件が国家権力による冤罪という認識を前提に、紹介されました。さらに01年、「大逆事件の名誉回復宣言」決議を市長提案の上、全会一致で可決しました。また、曹洞宗は93年、内山愚童の処分を取り消し、真宗大谷派は96年、高木顕明の擯(ヒン)斥処分を取り消し、そして臨済宗妙心寺派も同年、峯尾節堂の擯斥処分を取り消しました。「仏教三派は、かつて国家に忠誠を誓う証しとして競って、自派の僧侶を切り捨て追放したが、今度はその処分を相次いで取消し、顕彰碑を建て、「復権」していつた」のですが、筆者はなお、仏教者がこの問題を深めていくことを願望しています。高知・中村市(現四万十市)は2000年、「幸徳秋水を顕彰する決議」を、全会一致で議決しました。
しかし、古河力作の故郷、小浜では「今もコトリと音さえ聞こえない」と筆者は報告します。
筆者は最後に、「紀州・熊野の市民らの目を瞠るようなアクティブな活動に、私は未曾有の国家権力犯罪によってつくられた百年に及ぶ暗く重い社会意識を切り拓く民衆の「底力」を感じる。闇を翔るような希望を見る」といつて、この長い報告を閉じています。
「大逆事件」について詳細に学んだのは、今回が初めてです。戦後、日本国憲法によって実現していく非戦・自由・平等といつた思想が、全面的徹底的に否定され、死刑をもって国家によって弾圧された事件であったことを、あらためて知りました。そして、日本初期の社会主義者たちの人間的な魅力に、強く惹かれました。いずれこの連載記事は、岩波書店から単行本になって発売されるものと思います。100年を記念して、一読をおすすめしたい。
2011年01月23日(日)16時58分
大逆事件、森近運平しのび墓前祭 |
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生家跡近くにある墓には地元の人や研究者ら100人以上が集まり、線香を手向けたり手を合わせたりした。森近を研究する金沢星稜大の森山誠一名誉教授は「みんなで財産を出し合い利益を分配する互助会の設立を唱えただけで国家に危険思想とみなされた。生まれたのが早すぎた」としのんだ。
●「高知新聞」2010年12月15日版で『革命伝説 大逆事件』が紹介されました。 ●「高知新聞」2010年8月2日版で『革命伝説 大逆事件』が紹介されました。 ▲ページのトップに戻る●「asahi.com」2010年6月27日付けで『革命伝説 大逆事件』が紹介されました。 大逆事件100年で新装版
http://irregularrhythmasylum.blogspot.com/2009/12/100-cira-japana-2010-calendar.html IRREGULAR RHYTHM ASYLUM -blog: 大逆事件100年記念カレンダー (CIRA
Japana 2010 Calendar) <http://irregularrhythmasylum.blogspot.com/2009/12/100-cira-japana-2010-calendar.html> |
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紀伊半島南端近くに位置する人口3万人の町、和歌山県新宮市。この町は100年前に日本中を揺れ動かした「大逆事件」の舞台となった。明治天皇暗殺計画に加わったとみなされた全国の24人に死刑判決が下されたこの事件で、新宮とその周辺の町からは最も多い6人が連座、以後、その家族までが国賊視され、社会から徹底的に排斥された。新宮では、戦後に至るまで「大逆事件」に触れることはタブーとされ、遺族も沈黙を強いられ続けた。真相の解明が進んだ現在では、6人は事件と全く無関係で、事件そのものも国家権力による思想弾圧事件だったと考えられている。しかし事件について市民が話し出すようになったのは、90年代後半以降のこと。2001年には市議会で、事件の犠牲者は非戦や平等を訴えた「郷土の先覚者」であったとして顕彰する決議もあがった。今ようやく事件について語り始めた遺族たちの声に耳を傾け、事件が持つ歴史的意味を探る。 |
最近、この番組のことばかり書いてるようで気が引けるのだが。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html
「大逆事件」からほぼ百年が経って、ようやく弾圧による冤罪の被害にあった人たちの名誉回復が進められているということである。
ぼくは、一時中上健次の熱心な読者だったので、新宮の町の歴史や風土については文章(小説やエッセイ)を介しては知っているし、大石誠之助など「事件」に関わったとされ処刑されたり投獄された人々のことも少しは知っていた。
しかし、この事件が、そのひとつの町に、これほど大きな影を投げかけていたとは、迂闊にも今まで想像したことがなかった。
番組に登場した人たちは口々に、町全体が「大逆を犯した町」のように見做されることへの恐怖心から、被害家族たちへの排除・迫害に走ったのだろう、と言っていたのである。
こうしたことを軽くみていたことは、ぼくが「大逆事件」というもの、また近代の天皇制というものの存在の重さを本当には分かっていないということを、端的に示しているだろう。
この「事件」が、投獄・処刑された人々や家族たちばかりでなく、どれほど多くの人たちの人生を覆い、変えてしまったか。
それにしても、番組では何度も、「排除を行った自分たちの闇の歴史に光を当てようとする」町の人たちの姿が強調されていたが、番組の製作者たちも暗に伝えようとしていただろうように、これは新宮という町だけの「闇」ではない。
こうした排除や迫害を行ったのは、日本の社会全体であったはずである。
それだけに、その「闇」を背負って、自らそこに光を当てていこうとする新宮の人たちの勇気ある態度に、本当に頭が下がる。
番組では、言い尽くせない迫害や排除、差別にあってきた家族の人たち、またそれを見つめてきた人たちの証言がつづられるのだが、最も印象深いのは、最後のシーンだ。
子どもの頃から、ずっと苦しみを受け続けてきた、年老いた男性に、インタビュアーは「あなたにとって、大逆事件は過去のものですか?」と尋ねる。
恐らく質問者は、「いや、自分のなかで過去のものにはなっていない」とか、「なっている」とか、そういう答えを予測していたのではないかと思う。少なくとも、ぼくはそう予測した。
だが、帰ってきた答えは、それを裏切るものだった。
短い沈黙、だがそこで深い思考と思いがめまぐるしく動いていることを感じさせる沈黙の後で、老人はこう答えたのだ。
『いや、過去のものとは言えない。これから先、未来にもこういう事件は起こりうるから』
つまり、何か個人的な感想を言うだろうというぼくの予測に反して、この人の眼差しは、社会全体を見つめていたのである。
ここに何か、決定的な断絶がある。
社会や国家によって、あまりにも深い傷を受け続けた人たちは、そしてほとんどその人たちだけが、社会全体の変容(と変わらぬ体質)への確かな眼差しを、否応なく抱き続けている。
そうでない者は、そこに個人的なもの、内面、私的なものしか予想しないが、こうした人たちの瞳は、否応なく社会全体へと開かれている、そして見たくないものにまで向けられてしまうのだ。
その、曇りなく開かれた眼差しに捉えられた社会の映像のなかに、ぼくたちの(無防備ゆえに暴力的でもある)姿も映っているのである。
「こういう事件」は、たしかにこれからも(これからこそ)起こりうるし、これほど大規模であからさまでなくとも、すでに起こっているかもしれない。
その的確な、しかしぼくにとっては全く不意をつかれた言葉を残して、老人は去っていく。
「大逆事件」が、決して「解決」や「清算」を(ましてや「忘却」を)待っている過去の出来事ではなく、われわれ自身にとっての現在と未来に関する事柄だという事実が、番組の最後にあざやかに、衝撃をもって示されるのだ。
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雑文亭・tok.: 韓国併合・大逆事件100年の今年を忘れぬために。憲法メディア紹介。 <http://tok.blogzine.jp/keizai/2010/01/post_73cd.html>
大逆事件100年 - Google 検索 <http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%B9%B4&hl=ja&lr=lang_ja&gl=jp&tbs=lr:lang_1ja&prmd=ivns&ei=FW8_TajoIo--uwPvu6H2Ag&start=10&sa=N>
第61回 不戦のつどい 「韓国併合・大逆事件」100年と『坂の上の雲』(7月11日名古屋) - 薔薇、または陽だまりの猫 <http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/2e347d0bccaccd64de076fc2abdf6cc0>