刑死から100年、幸徳しのぶ 大逆事件、故郷で墓前祭

2011年1月24日 19:27 カテゴリー:生活・レジャー
 
幸徳秋水の墓前に献花する幸徳正夫さん=24日午後、高知県四万十市

 明治天皇暗殺を企てたとして、社会主義者らが弾圧された大逆事件で死刑になった幸徳秋水の刑死から丸100年を迎えた24日、故郷の高知県四万十市で墓前祭が開かれ、市民や研究者ら約220人が集まって思想や業績をしのんだ。

 幸徳は非戦や自由、平等を唱えた社会主義者。田中全市長が「天寿を全うしていればその後の日本の歴史は変わっていただろう」と悼み、墓前に花をささげた。

 幸徳の義兄のひ孫幸徳正夫さん(68)も参列し「今となっては無罪の証明は無理だが、ここをスタートに幸徳の思想が広まってくれたらうれしい」と期待を寄せた。

 事件は社会主義者らの一掃を図った国家によるでっち上げとされ、幸徳は無罪と考えられている。しかし最近も一部で関連行事が拒否されるなど「逆賊」との偏見は消えていない。

 事件で多くの連座者を出した和歌山県新宮市から駆け付けた「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」会長二河通夫さん(80)は「もう100年とも、まだ100年とも言える。1世紀を経て、犠牲者の名誉回復はやっと半歩進んだ」と話した。

大逆事件100年目の墓参り 顕彰会・新宮市長ら参加

2011年1月17日

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大石誠之助=新宮市立図書館提供

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大石誠之助の墓に手を合わせる参加者=新宮市新宮

 100年前に大逆事件で処刑された新宮市の医師大石誠之助らの命日(24日)を前に、市民団体「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」のメンバーらが16日、犠牲者の墓参りをした。大石の墓参りには、大石を名誉市民に推挙することに慎重な姿勢の田岡実千年市長も初めて参加した。

 事件で有罪とされた「新宮グループ」の6人のうち大石ら3人の墓がある新宮市の南谷墓地には「顕彰する会」の二河通夫会長、田岡市長、市議ら約30人が訪れた。大石、高木顕明(けんみょう)(1914年に獄中で自殺)、峯尾節堂(みねお・せつどう)(19年に獄死)の墓に一人ずつ線香をあげて手を合わせた。

 大石を名誉市民にしようと活動する二河会長は取材に「この1年、シンポジウムや名誉市民の問題で、多くの方に関心を持ってもらえたことを報告した」と語った。田岡市長は、大石を名誉市民に推挙することについて「市議会が全会一致で賛成いただける状況になれば考えたい」と話した。

 新宮市の名誉市民は市の条例では市長が議会に提案することになっている。田岡市長が慎重なため、昨年11月に推進派の市議有志が議員提案での推挙を目指し、条例改正案を出したが否決された。その後、「顕彰する会」が市長の推挙と市議会の尽力を求める請願を提出。14日の総務委員会で採択され、3月定例会の本会議で議論される見通し。

 大逆事件は、明治天皇暗殺を企てたとして1910年5月から社会主義者らが逮捕され、翌年1月に幸徳秋水ら12人が死刑、12人が無期懲役になった。「新宮グループ」の大石と成石平四郎が死刑、4人が無期懲役になった。

 成石と兄・勘三郎(31年死去)は田辺市本宮町耳打に、崎久保誓一(55年死去)は三重県御浜町に墓があり、「顕彰する会」のメンバーらはこの日すべて訪れた。(三島庸孝)

田中伸尚稿『大逆事件 100年の道ゆき』完結

Photo_2   今年2010年は、韓国を併合して100年になるとともに、日本の近・現代史最大の思想弾圧事件である大逆事件から100年になります。雑誌『世界』に、昨年1月号から毎月連載されていた田中伸尚稿『大逆事件 100年の道ゆき』が、今年の3月号で完結しました。これを機に、全編を読みなおしました。(写真は、幸徳秋水と管野スカ゛)

 筆者による大逆事件の概要は、次の通りです。
 「天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水ら26人が「大逆罪」で公判に付され、大審院特別刑事部は非公開裁判で、一人の証人も採用せず、半月の「急ぐこと奔馬」のような審理で11年1月18日に24人に死刑・・・の判決を言い渡した。このうち幸徳をふくむ12人は、判決からわずか1週間後の1月24、25日に縊(クビ)られてしまった。
 戦後の諸研究の積み重ねでこの事件は、当時の政府が無政府主義者、社会主義者や同調者、また非戦・自由・平等といった思想を根絶するために仕組んだ国家犯罪だと判っている・・・」。
 「大逆罪」とは何か。旧刑法第73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫に対シ危害ヲ加エ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という条項をさし、1947年、刑法から削除されました。民主主義とは相容れない条項であることは、いうまでもありません。
 では彼らは、何をしたのか。「非戦、平等、自由、・・・社会主義を達成するには天皇迷信の打破によって」と思い込んだ宮下太吉は、「爆裂弾・・・を天皇に投げれば、迷信の打破になる」として天皇暗殺を計画し、管野須賀子、新村忠雄、(古河力作)の2名(3名)の賛同を得て、爆裂弾製造へと駆けていきました(信州明科 爆裂弾製造事件)。しかし、大逆罪で逮捕された26名のうち上記3(4)名を除く23(22)名が、検察側の予断と推測によって、宮下らの暗殺計画に連座したとして、死刑を含む有罪とされたのです。そして、12名が処刑され、5人が獄死しました。近・現代史最悪の冤罪事件でした(古河力作の関与については、疑問とする見解あり)。
 筆者の田中伸尚氏は、大逆事件の被害者の生と死の記憶を、よみがえらせます。日本ではじめて社会主義やアナキズムを学び唱えた人びとの、人間的で魅力的な姿が、浮かび上がります。新宮町のクリスチャンの大石誠之助は、非戦論を唱え公娼制度に反対する一方で、貧乏人からはお金を取らない町医者でした。処刑されたのは44歳。新宮町の真宗大谷派住職・高木顕明は、部落問題と取り組み、仏教教団の主戦論を批判し、平和を説きました。死刑判決のあと無期懲役に減刑され、獄中にて50歳の誕生日に自死。教団から除籍処分を受けました。民衆の苦しみや辛さを、自らの痛みとして生きてきた箱根町の禅僧・内山愚童は、小作人の解放を「無政府共産」に求めました。36歳で刑死。曹洞宗から排斥。構造的な農業変革を目指した実践的な農業者・森近運平は、地元の岡山・井原市で、先進的な温室栽培に取り組んでいました。東京時代の幸徳秋水との交遊から逮捕、刑死。30歳。この4名以外の被害者についても、その生と死を、筆者は丁寧に追跡しています。
 これら被害者には、刑死や獄死があったばかりではなく、死後、家族・縁者に対する官憲の迫害とともに、「逆賊」という国家の烙印が、ついてまわりました。処刑された被害者の葬儀も墓を立てることも、許されませんでした。底なしの貧困と世間との断絶に、遺された家族の苦悩ははかりしれません。しかし、被害者の妻や兄弟、孫などの家族・縁者が語る、被害者に対する温かい言葉と高い矜持の心は、被害者たちの人間的な魅力がいまなお、近親者の間に語り継がれていることを、想像させます。
 田中氏は、国家による思想弾圧に対して、それを押し返えそうとした知識人の動向に、注目します。石川啄木は最も早く、事件の真相を見抜いていた知識人でした。石川は、事件の弁護団のうち最も若い弁護士・平出修から情報を得ていたのです。この事件を論じた石川の評論
『所謂今度のこと』を知るのは、戦後になってからのこと。その平出修は、裁判の不当性を衝いた小説『逆徒』を発表。しかし掲載誌『太陽』は発禁処分を受けました。この『逆徒』もやはり、戦後を待たなければ、一般には読めませんでした。平出は『逆徒』の末尾に「俺は判決の威信を蔑視した第一の人である」と書き記しています。啄木の評論も平出の小説も結局、当時は一般には読めなかったのに対して、徳富蘆花の第一高等学校弁論部での講演『謀叛論』は、処刑からわずか1週間後、公開の場で公然と「大逆事件」裁判を批判しました。12名の処刑を「暗殺」と呼び、宗教界が慈悲もなく除籍処分をしたことを批判し、最後に聴講している学生たちに、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」とすら問いかけました。当時一校には、「横浜事件」の細川嘉六、田中耕太郎、河合栄治郎、芥川龍之介、山本有三、久米正夫、菊池寛が在籍しており、近衛文麿も聴衆の一人だった、と筆者は書き添えています。
 1960年代に入って出された再審請求は、法的安定性を重視する検察の論理の前に、棄却されます。筆者は、「大逆事件」判決の法的安定性とは、「明治国家の過誤の守護」だと批判します。しかし、この再審請求がきっかけになって、「研究は目覚しく進展し、運動も広がり、社会の事件観にも変化の兆しが見えかけ」ました。
 1990年代は、「大逆事件」被害者の復権と名誉回復の画期となった時期でした。この連載記事最終回は、「闇を翔る希望」と題して、各地・各界での変化と復権の動きを報告しています。新宮市では96年、市議会における一人の市議からの質問をきっかけに、市の広報に大石誠之助、高木顕明、峯尾節堂が、事件が国家権力による冤罪という認識を前提に、紹介されました。さらに01年、「大逆事件の名誉回復宣言」決議を市長提案の上、全会一致で可決しました。また、曹洞宗は93年、内山愚童の処分を取り消し、真宗大谷派は96年、高木顕明の擯(ヒン)斥処分を取り消し、そして臨済宗妙心寺派も同年、峯尾節堂の擯斥処分を取り消しました。「仏教三派は、かつて国家に忠誠を誓う証しとして競って、自派の僧侶を切り捨て追放したが、今度はその処分を相次いで取消し、顕彰碑を建て、「復権」していつた」のですが、筆者はなお、仏教者がこの問題を深めていくことを願望しています。高知・中村市(現四万十市)は2000年、「幸徳秋水を顕彰する決議」を、全会一致で議決しました。
 しかし、古河力作の故郷、小浜では「今もコトリと音さえ聞こえない」と筆者は報告します。
 筆者は最後に、「紀州・熊野の市民らの目を瞠るようなアクティブな活動に、私は未曾有の国家権力犯罪によってつくられた百年に及ぶ暗く重い社会意識を切り拓く民衆の「底力」を感じる。闇を翔るような希望を見る」といつて、この長い報告を閉じています。

 「大逆事件」について詳細に学んだのは、今回が初めてです。戦後、日本国憲法によって実現していく非戦・自由・平等といつた思想が、全面的徹底的に否定され、死刑をもって国家によって弾圧された事件であったことを、あらためて知りました。そして、日本初期の社会主義者たちの人間的な魅力に、強く惹かれました。いずれこの連載記事は、岩波書店から単行本になって発売されるものと思います。100年を記念して、一読をおすすめしたい。

2011年01月23日(日)16時58分

大逆事件、森近運平しのび墓前祭
刑死100年で

 森近運平の墓前で手を合わせる人たち=23日、岡山県井原市
 
 明治天皇暗殺を計画したとして社会主義者らが弾圧された大逆事件で、連座した森近運平(1881〜1911年)が処刑されてから24日で100年になるのを前に、出身地の岡山県井原市で23日、墓前祭が開かれた。
 生家跡近くにある墓には地元の人や研究者ら100人以上が集まり、線香を手向けたり手を合わせたりした。森近を研究する金沢星稜大の森山誠一名誉教授は「みんなで財産を出し合い利益を分配する互助会の設立を唱えただけで国家に危険思想とみなされた。生まれたのが早すぎた」としのんだ。

シンポジューム「大逆事件100年を語る」−この100年、これからの100年−
2010年1月09日(土曜日) 22:44

私が如何にしてかかる重罪を犯したのであるか。その公判すら傍聴を禁止せられた今日にあっては、もとより十分にこれを言ふの自由は持たぬ。
百年の後、誰かあるひは私に代って言ふかもしれぬ。
                ――幸徳秋水

と き:3月14日(日)午後1時開場・1時半開始

ところ:大阪・天満橋 エル・おおさか
    大阪市中央区北浜東3―14/電話 06-6942-0001
    京阪・地下鉄谷町線「天満橋駅」西へ300m
    京阪・地下鉄堺筋線「北浜駅」東へ500m

入場料:無料

主 催:「大逆事件100年を語る」集会実行委員会
     連絡先・市民共同オフィスSORA内 電話 06-7777-4935

基調講演 (仮題)
    小松隆二 「大逆事件100年の断層」
    泉 恵機 「高木顕明、宗教者たちの100年」
    水野直樹 「大逆事件と韓国併合」
パネルディスカッション(コーディネーター)徳永理彩

大澤正道 ―大逆事件百年に寄せて―より
「百年がたち『不逞ノ徒実ハ多ク愛スベキ士』である歴史認識はほぼ定着した。けれども(中略)彼らの名誉は公には回復されていない」

 
  
大逆事件 100年 特別企画
革命伝説
大逆事件

明治の一大事件史を新版で復刊!

天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水をはじめ12名を処刑した、国家権力による一大謀略・・・。その真相を究明しさまざまな人間関係を綾に、事件の全容と真実を描きだす。明治時代最大のフレーム・アップ(でっちあげ)事件の全容を、神崎清が丹念に収集した膨大な資料から解明した古典的名著 『革命伝説』。読みやすいよう新たにルビ・注・解説を付け新版として復刊!

【著者】 神崎 清
【監修】 「大逆事件の真実をあきらかにする会」
【編集委員】
 ・山泉 進(「大逆事件の真実をあきらかにする会」事務局長 、明治大学副学長)
 ・堀切利高(平民社資料センター代表)
 ・大岩川 嫩(「大逆事件の真実をあきらかにする会」世話人)
【発行】 子どもの未来社


「大逆事件」とは?

【「新版『革命伝説 大逆事件』によせて──」
 山泉 進」より】

 一般的に「大逆事件」とよばれている事件は、一九一一(明治四四)年一月一八日、明治天皇にたいする暗殺謀議がなされたとして、幸徳秋水ら二十四名に大審院(現在の最高裁判所)において、死刑の判決(二名は有期刑)が下され、そして、ほぼ一週間後に幸徳秋水や管野須賀子ら十二名が東京監獄において処刑された(残りの坂本清馬ら十二名は恩赦により無期懲役に減刑)事件を指している。
 
 戦前の刑法七十三条には、「天皇、太皇太后、 皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」 という大逆罪についての条文があり、この規定に該当するものとされた。事件の「発覚」は、前年五月、長野県明科での爆弾製造の容疑で、製材所職工であった宮下太吉の逮捕にはじまる。

 六月一日、首謀者として幸徳秋水が神奈川県湯河原において逮捕、それから和歌山県新宮の医師・大石誠之助のグループ、大阪・神戸のグループへと拡大された。戦前の帝国憲法においては、天皇は「大権」の総攬者(そうらんしゃ)であり、かつ「神聖」なる存在として、刑法上においても大逆罪や不敬罪によって特別にまもられていた。
          ・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・
 神崎清の『革命伝説 大逆事件』は、「大逆事件」 の全体像を描いた唯一の書物であるといっていい。神崎清の資料への執念がなければ本書は完成されることはなかった。私は、神崎清の『革命伝説 大逆事件』(全四巻)に対して、「大逆事件」探求の前人未踏の金字塔として、つねに敬意をはらってきた一人である。そして、機会あるごとに、その復刊をよびかけてきた。

 今回、「子どもの未来社」が、新版を刊行することをこころより喜んでいる。「大逆事件」に関心をもつ人は、本書は、まず登ろうとしなければならないゆるやかな坂であるが、「大逆事件」を新たに探求しようとする人にとっては、高く聳えている険しい崖である。(二〇一〇年四月)

「大逆事件の謎をといた名著」
──故・松本清張氏が推薦

 神崎さんは長い間、この事件ととりくんできただけに、乏しい記録を集め、およそ事件に関連のある断簡零墨を各地に求め、その鋭い観察によって真実の姿を復原した。

 その資料に対する眼は、史家のそれでもあり、弁護士のそれでもある。その筆は虚偽を告発する文学者の情熱である。

 現在の政治権力の傾向を考えるとき、この本は何度も読み返されるべきであろう。

国家レベルの権力犯罪を暴く

【「はしがき」より】

 当時、大逆事件の真相は、「歴史の永遠のなぞ」であった。昭和十年七月、「君は調べることがすきだから」と、牧師沖野岩三郎(おきのいわさぶろう)の秘密伝導をうけることができた。老社会主義者の木下尚江(きのしたなおえ)は、「あれは陸仁(むつひと)が自分で自分の顔に泥をぬったようなものだよ」と、一言のもとに喝破(かっぱ)した。やっと糸口をつかんだものの、打ち続く十五年戦争と天皇制絶対化の重圧を受けて、大逆事件の解明達成は、ほとんど不可能に近かった。

 しかしながら、太平洋戦争の壊滅的敗北と価値転換のはじまりによって、大逆事件の「封印」が、自然に破られた。今まで固く閉ざされていた関係者の口がほころび、埋没された資料が続々と発掘されてきた。著者が雑誌『世界評論』に、「革命伝説」の第一稿を発表したのは、昭和二十二年十月のことであった。

 諸研究の集積は、大逆事件のフレーム・アップ(でっちあげ)を明らかにした。大審院の大量死刑判決は、明治天皇・元老山県有朋(やまがたありとも)・首相桂太郎(かつらたろう)に迎合した司法反動による国家的な権力犯罪であった。その背景に、幸徳秋水と明治天皇を対極とする凄絶な政治ドラマが展開されていたのである。

 虐殺された大逆事件の死刑囚は、「百年の後の知己を待つ」と、遺書を残したが、天皇信仰の迷信から日本国民を解放しよう、として挫折した彼らの願いは、百年を待つことなく、戦後の天皇人間宣言、新憲法の主権在民・基本的人権・戦争放棄の精神のなかに、色濃くひきつがれている。日本の将来に向かって、この「歴史の教訓」が、総資本と総労働との対立するなかで、さらに大きく生かされていくことを望んでやまない。 (昭和五十一年十二月六日 著者しるす)

“事件”はここから始まった

【序章 菊かおる天長節」より】

  明治四十年の十一月三日──菊かおる天長節のよき日の朝、サンフランシスコの日本総領事館に、昔の言葉でいえば、おどろくべき大不敬事件がおこった。館員が朝起きてみると、正面玄関のポーチに『ザ・テロリズム』と題して、「日本皇帝陸仁(むつひと)君ニ与ウ」と、過激な文字をつらねた無政府党暗殺主義者の檄文(げきぶん)が堂々とはりつけてあったのである。
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 神聖な天皇を猿扱いにする進化論の講義からはじまった『ザ・テロリズム』の檄文は、約四、〇〇〇個の日本文字を動員して、天皇制の積悪をあばいたものすごい脅迫状であり、斬奸状(築比地仲助談)であった。

 

【著者プロフィール】
神崎 清(カンザキ キヨシ)

  1904年(明治37年)香川県に生まれる。神戸二中、大阪高校を経て1928年東京帝大国文学科卒業、東京帝大新人会会員。戦後、文部省児童文化審議会会長、厚生省中央児童福祉審議会委員、労働省婦人少年問題審議会委員、東京都児童福祉審議会委員、児童憲章制定委員、日本子どもを守る会副会長、第5福竜丸平和協会常任理事などを歴任。1979年逝去。主な著書に「現代婦人伝」(中央公論) 「山谷ドヤ街」(時事通信社)など。

 

【「大逆事件略年表」より抜粋】

明治40(1907)年
1月4日 『革命』、国内で発禁。
1月15日 日刊『平民新聞』発刊。
2月4日 足尾銅山坑夫暴動。
2月5日 幸徳秋水、日刊『平民新聞』に「予が思想の変化」を発表。
2月7、8日 幸徳、足尾事件に関連して家宅捜索を受ける。
2月17日 日本社会党第2回大会において幸徳の直接行動論と田添鉄二の議会政策論との論争。
2月22日 日本社会党結社禁止。
4月14日 日刊『平民新聞』発行停止命令により75号で終刊。
6月1日 森近運平、『大阪平民新聞』発刊。のち『日本平民新聞』と改題。直接行動派の全国機関誌となる。
6月2日 片山潜、西川光二郎ら週刊『社会新聞』発刊。社会主義者硬軟両派の対立がこの頃より激化する。
8月31日 片山・田添ら議会政策派、「社会主義同志会」を結成。
9月6日 堺利彦・幸徳・山川均ら直接行動派、「金曜会」を結成。
10月27日 幸徳離京。11月24日高知県中村町着。
11月3日 サンフランシスコで『暗殺主義』(ザ・テロリズム)1巻1号として「日本皇帝睦人君に与ふ」という公開状が無政府党暗殺主義者の名で配布される。日本への密送される。「天長節不敬事件」。
12月13日 宮下太吉、亀崎から出張の途次、大阪平民社へ森近を訪問して、森近から天皇制の虚構をはじめて聞く。
明治41(1908)年
1月1日 幸徳、『日本平民新聞』に、11月3日の「天長節不敬事件」を報道。
1月14日 西園寺首相、山県有朋からの在米社会主義者取締り強化の資料送付と申入れに回答。
1月17日 金曜会屋上演説事件。
1月18日 宮下、亀崎での友愛義団の演説会のあと片山潜に天皇制の問題を持ち出して意見を求めたが片山潜の回答に満足せず。
5月5日 『日本平民新聞』23号で弾圧のため廃刊。附録「農民のめざまし」発行、禁止。
5月15日 新村忠雄ら『東北評論』発行、発禁。
5月22日 大阪平民社解散。
6月22日 神田の錦輝館で、各派合同の山口孤剣出獄歓迎会。いわゆる赤旗事件の挑発により、堺枯川・山川均・大杉栄・荒畑寒村・管野幽月ら14名投獄。
6月23日 原内相、宮中に参内して徳大寺侍従長の内話により、山県密奏の事実と、明治天皇に『何んとか特別に厳重なる取締りもありたきものなり』という思召し(鎮圧要求)のあることを知っておどろく。
6月26日 元老山県、明治天皇にふたたび密奏。
6月29日 原内相ら、赤旗事件被告を収容中の神田警察署留置場の壁に「一刀両断天王首」ときざんだ落書の不敬事件の厳重処分を決定。
7月4日 第1次西園寺内閣総辞職。
7月11日 佐藤悟、落書犯人として不敬罪で起訴され、東京地裁で重禁錮3年9月、罰金150円、監視6月の判決。22日に控訴棄却。
7月14日 第2次桂内閣成立。内相に官僚派の平田東助、警保局長に三重県知事の有松英義を起用。
7月21日 幸徳、クロポトキン『麺麭の略取』の訳稿をたずさえて上京。
7月25日〜8月8日 幸徳、和歌山県新宮町に医師大石誠之助を訪ねる。高木顕明・峯尾節堂・成石平四郎・崎久保誓一らの訪問をうける。大石らと熊野川に船遊びをし、その時大石に爆弾の製法を聞く。鳥羽・二見浦・伊勢神宮・名古屋を経由して上京。
8月12日 箱根に内山愚童を訪問。
8月14日 幸徳、東京着。柏木926に居住(平民社)。
8月15日 赤旗事件の公判開廷。幸徳、傍聴席に姿をあらわす。
8月29日 赤旗事件の判決。官吏抗拒罪および治安警察法違反として、堺古川・大杉栄ら10名に重禁錮2年6か月、2年、1年6か月、1年と罰金刑を併課。徳永保之助ら3名は執行猶予付。管野幽月・神川マツ子だけが無罪。
10月末 内山、『入獄記念 無政府共産』(小作人はなぜ苦しいか)を秘密出版。平民新聞の読者名簿によって発送。
11月10日 宮下、東海道線大府駅を通過する明治天皇のお召列車拝観のため集まった群衆に『無政府共産』を配布。日本で初めて反天皇制の革命宣伝を公然と行う。
11月19日 大石、平民社を訪問、パリ・コンミュンの暴動、一夜にして天下をとる法など、幸徳の革命放談を聞く。22日まで滞在。のちに天皇暗殺の共同謀議と曲解される。
11月28日 新村、『東北評論』の署名人として逮捕。
明治42(1909)年
1月30日 予約募集『麺麭の略取』(クロポトキン)。平民社訳としてこの日の日付で発行届出。発禁。署名人の坂本清馬に罰金30円。
2月5日 新村、出獄後上京して幸徳を訪ね、平民社に同居。
2月13日 宮下、上京して幸徳を訪う。森近をも訪ねて、迷信打破のために天皇暗殺の決意を語る。両名とも賛成せず。
3月29日 新村、紀州の大石方へ出立。薬局生となる。
5月22日 内山、神戸の海民病院に岡林寅松、小松丑治を訪問、爆裂弾の製法を尋ねる。
5月25日 幸徳、管野と共に発禁覚悟で『自由思想』を創刊。連続発禁のため2号で廃刊。
5月29日 内山、国府津駅で出版法違反事件により逮捕、家宅捜索の結果ダイナマイトが発見される。
6月6日 宮下、亀崎より明科製材所に転勤の途中、平民社を訪ね、天皇暗殺計画の実行を語る、幸徳に反応なく、管野に反応あり。10日に明科着。
7月15日 『自由思想』の発禁後配布の罪により、病床の管野を拘引。
9月1日 管野、出版法違反で罰金刑400円の判決。本人の身柄釈放となり、平民社にもどる。その直後、政府の迫害を憤慨した管野・新村が、宮下の天皇暗殺計画に参加することをきめ、幸徳も一時賛成にかたむく
9月28日 新村、明科に宮下を訪ね、爆裂弾製造の共同謀議。
10月上旬 古河力作、平民社で管野、新村より暗殺計画加入の勧誘をうける
10月26日 安重根、ハルピン駅頭で朝鮮統監伊藤博文を暗殺。
11月3日 宮下、明科の大足山中で爆裂弾の試発に成功。平民社に通報したが、反応なし。
11月30日 管野、病気快方に向かい、退院して平民社にもどる。幸徳、生命の尊重を説いて管野に暗殺計画の放棄をすすめる。
12月31日 宮下、爆裂弾の材料をカバンに入れて上京、平民社に一泊。
明治43(1910)年
1月23日 管野・新村・古河の3名、平民社で御馬車と投弾者の配置図を描き、暗殺の方法を謀議したが、未決定。幸徳を除外
1月26日 明科駐在所小野寺巡査、宮下がブリキ罐を注文した聞きこみを松本所長に報告、極秘内偵の指示をうけ、事件発覚の端緒となる。
2月6日 新村、明科に宮下を訪ね、決行の時期について謀議。きまらず。
4月24日 宮下、部下の新田融にノミトリ粉を入れるためと称して、小さなふたつきブリキ罐の作製をたのむ。
4月26日 宮下と新村、姨捨山で爆裂弾再実験の場所をさがしたが、見つからず。
5月17日 小野寺巡査、工場スパイ結城三郎よりブリキ罐の情報の入手。
5月19日 新田融、料理屋にさそわれ、警察に宮下からブリキ罐製造をたのまれた事実をしゃべる。
5月20日 宮下、下宿の家宅捜索でブリキ罐3個発見される。
5月21日 宮下、清水太市郎をたずね、8日にあずけた白木の箱が爆裂弾の材料であることをつげ、天皇暗殺計画の秘密をあかして、同罪だとおどす。
5月22日 宮下、清水にだまされて、木箱を工場内の機械場にうつす。清水、密告のために西山所長の官舎をたずねたが、不在。
5月23日 松本署長、宮下のブリキ罐をたずさえて、長野県警察部の指揮をあおぐ。
5月25日 清水、自宅で警察の取り調べをうけて、宮下の暗殺計画をしゃべり、爆裂弾材料をかくした工場内の機械場へ案内、証拠品として押収される。
宮下、爆発物取締罰則違反容疑で松本署に連行される
新村、自宅から屋代署へ連行される。
松本署長、宮下・新村兄弟・新田のほか、幸徳・管野・古河を爆発物取締罰則違反の現行犯と認定。
5月29日 宮下、長野の和田検事と東京の小原検事に、爆裂弾の使用目的を自供。
5月31日 松室検事総長、横田大審院長に幸徳ら7名の予審開始を請求
横田大審院長、予審開始を決定。
6月1日 幸徳、湯河原の門川駅前で逮捕
6月3日 管野、小原検事に自供。
新宮の大石誠之助ら、家宅捜索を受ける。
6月5日 大石、起訴決定。同日拘引。
6月11日 岡山の森近運平、起訴決定。
6月14日 森近、自宅より拘引。
6月26日 紀州の成石平四郎、爆発物取締罰則違反として処分。
6月27日 奥宮健之の起訴決定。28日、東京の自宅より拘引。
7月7日 新宮の峯尾節堂・崎久保誓一・高木顕明の起訴決定。
7月10日 成石勘三郎の起訴決定。
7月14日 成石平四郎の起訴決定。
7月20日 横浜監獄に服役中の内山愚童を東京監獄に移監して、取調べを開始。
7月26日 坂本清馬、浮浪罪で芝警察署に拘引。
7月27日 平田内相、桂首相にあてて「社会主義に対する愚見」を提出。
8月9日 坂本清馬、起訴決定。
8月12日 熊本の松尾卯一太・新見卯一郎・佐々木道元・飛松興次郎の4名、起訴決定。
8月28日 大阪の武田九平・岡本穎一郎・三浦安太郎の3名、起訴決定。
9月8日 元老山県、渡辺宮相を通じて明治天皇に意見書「社会破壊主義論」を提出
9月21日 ロイター通信、天皇暗殺計画の未然発覚を世界各国に報道。
9月28日 神戸の岡林寅松・小松丑治の2名、起訴決定
10月27日 内山愚童、起訴決定。被告人26名となる。幸徳、今村・花井両弁護士に弁護を依頼。
11月12日 エマ・ゴールドマンら、幸徳たの処刑に反対する抗議書を内田駐米大使に提出。
11月21日 幸徳、「基督抹殺論」を脱稿。
11月22日 エマ・ゴールドマンら、幸徳らの処刑に反対する最初の抗議集会をひらき、ニューヨーク・アピールを採択。
12月14日 弁護人平出修、与謝野鉄幹にともなわれて森鴎外を訪問。
12月18日 幸徳、誤解された暗殺と革命の関係、作為された調書のまちがいを正すために、反駁の書を磯部・花井・今村の3弁護人に送る。
12月20日 特別傍聴席をもうけ、1日10名を限り交代で弁護士の傍聴を許可。
12月24日 鶴裁判長、合議の結果、証人申請を全部却下。
12月25日 松室検事総長、全員死刑求刑
明治44(1911)年
1月15日 小村外相、「逆徒判決証拠説明書」を各国駐在日本公使館に送付。その英訳文を在日英字新聞社と外国通信社に配布して問題化。
1月16日 河村宮内次官、桂首相を訪問して、元老山県の内意を伝達。
桂首相・渡辺宮相、判決および恩赦の上奏手続きについて協議。
1月17日 渡辺宮相、判決および恩赦の手続きを明治天皇に内奏。
河村宮内次官、「閣下御考慮の通り」と、小田原古稀庵 の元老山県に報告。
1月18日 鶴裁判長、幸徳以下24名に刑法第七三条を適用して求刑どおり死刑を判決。判決に不満をもつ被告ら、法廷で万才をさけぶ。 桂首相、判決文写をたずさえて参内し、明治天皇に上奏。明治天皇より特赦すべきものについての御沙汰。桂首相、待罪書(進退伺い)を明治天皇に提出。
1月19日 明治天皇、死刑囚12名の特赦を裁可。無期懲役に減刑。
1月23日 岡部法相、死刑執行の指令を東京監獄に伝達。
1月24日 東京監獄の絞首台で、幸徳・新見・奥宮・成石平・内山・宮下・森近・大石・新村忠・松尾・古河の11名の死刑執行
1月25日 東京監獄の絞首台で管野の死刑執行。在米日本人の同志岩佐作太郎・岡繁樹ら、サンフランシスコの朝日印刷所で幸徳事件刑死者追悼会をひらき、1月24日を日本革命の国際的記念日と決定。
1月29日 ニューヨーク市ウェブスター・ホールで、幸徳死刑の大きな抗議集会が開かれ日本領事館に抗議デモ、警官隊と衝突。
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 革命伝説 大逆事件 全4巻

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大逆事件の首謀者とされた
幸徳秋水


 「平民社結成以来、幸徳秋水は、自然の人望というか、日本の社会主義運動の最高指導者のような地位におされていた。議会政策か直接行動かの論争をめぐって、党派的分裂をおこしてからも、秋水は、無政府共産の旗をふりかざして、つねに革命戦線の最左翼にたっていた……」

 「数え年四十歳の元旦を千駄ヶ谷平民社の孤塁でむかえた幸徳秋水の胸中に去来するものは、なんであったか。
 一個の革命家として、政府の迫害、警察の圧迫は、もとより覚悟の前である。しかし、赤旗事件を境にして、元老山県有朋の密奏(※ひそかに奏上=天皇に申し上げる=すること)による西園寺内閣の毒殺がおこなわれ、明治天皇の「何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召し(※お考え)」を体した桂軍閥内閣の社会主義鎮圧体制によって、のど首をしめあげられ、だんだん呼吸困難をかんじていたときであった。
 大量投獄された同志の救援と運動再建のために、郷里の土佐中村から上京してきた秋水は、たちまち警視庁の包囲攻撃をうけて、赤旗事件のとむらい合戦どころか、演説会ひとつひらけず、手も足も出ない窮地に追いこまれた。苦心して出版したクロポトキンの『麺飽(パン)の略取』は、すぐ発禁になったし、最後の反撃をこころみた『自由思想』も、わずか二号でつぶされてしまった。罰金、また罰金の加重である。
 言論の自由をうばわれて、非民主主義[天皇の特権廃止]と非軍備主義[軍備全廃]の宣伝が、不可能になったばかりではない。同時に、著述の印税や原稿料など、収入の道が杜絶(※とだえること)して、生活の危機がおそいかかってきた。現在、秋水の生活と平民社の経済をかろうじて支えているのは、郷里の財産 を処分した金ののこり、友人小泉三申(※明治〜昭和期のジャーナリスト・政治家。名は策太郎)のとどけてくれる月四十円の補助費、内外同志のなにがしかの援助だけであった。
 運動の困難と停滞にともなって、浮動的分子が、つぎつぎに離散していった。とりわけ、荒畑寒村の前妻、管野幽月とのフリー・ラブ(自由恋愛)が、多数同志の反感をまねき、警視庁の離間工作も手伝って、デマと中傷のきたない波紋がひろがり、秋水の身辺は、四面楚歌の声につつまれていたのである。
 生活の前途にも、運動の将来にも、あかるい見とおしが立っていなかった。八方ふさがりで、失意と不遇の暗い境涯(※身の上。境遇)であった。これが、国民の目ざめと労働者の開放のために、献身してきた革命家のうけとるべき正当な報酬をいうものなのだろうか。

秋水らが活動の拠点とした
平民社(有楽町)


  ▲平民社(東京市麹町区有楽町一丁目)にて。
    前列左から西川光二郎、一人おいて堺利彦、
    幸徳秋水、石川三四郎

 「明治三八年の観桜会も、警官隊のサーベルで叩きつぶされたが、しかし、五月一日には、日本さいしょのメーデーが、有楽町の平民社(現在の日劇付近。<※現在の有楽町マリオン付近>)でもよおされた。石川三四郎がたって、万国労働者の記念日としての由来を説き、堺枯川(利彦)がメーデーの国際的意義をのべ、木下尚江が政治的自由獲得の必要をさけんでいる。余興に落語があり、ハンド・オルガンの越後獅子があった。まことにささやかな室内メーデーではある。だが、人は、この室内メーデーが、さきの赤旗行進とともに、日露戦争の激流にさからって、強行されたことを思わねばならぬ。それはまた、片山潜がアムステルダムの第二インターナショナル大会に列席して、ロシア代表のプレハーノフと握手したあの劇的光景ともつながっていた。
 当時の平民社を中心として国際的な反戦運動のつばさのがげに、日本の社会主義思想、および労働者階級の革命的な成長があったのである」

秋水と深い関係にあった
管野スガ (幽月)

 「若い愛人の荒畑寒村と、幽月はすでに赤旗事件の以前から別れていたのだが、べつだん離婚のあいさつ状をくばったわけではないし、その後も『内縁の妻』という名義で面会や差し入れをしたから、周囲の同志が離婚の事実を知らないで、元のままの夫婦関係があるものと思い込んでいたところに、秋水との恋愛問題がもつれてくる原因があったといえるえだろう。
 赤旗事件の法廷における幽月の無政府主義宣言は、勇敢な革命婦人というつよい印象を秋水にやきつけた。一方、また、出獄してきた幽月も、柏木・巣鴨の平民社に出入りしているうちに、英雄崇拝のような気持で指導者の秋水にひきつけられていく自分自身を見いだしていた」

『自由思想』の印刷名義人を
務めた古河力作

 「 難産・流産の苦悩をとおり、警視庁の警戒網をくぐって、『自由思想』第一号が、堂々と発行された。新聞半切削・四ページ・定価四銭・月二回刊のささやかな雑誌である。発行兼編集人が管野スガ、印刷人が古河力作になっていた」

 「古河力作の名前が、突然捜査線上にうかんできたのは、五月二五日、工場内捜査で押収した爆裂弾の材料を整理していたときに、『僕ニ変事ノ有ッタ時ハ事情ヲ認メ、東京府下滝野川康楽園二二ノ古河力作方ヘ 御郵送ヲ乞ウ』と、宮下の書いた紙片が発見されたからであった」

 「その古河力作が、巡査につきそわれて、二九日午後二時、長野地方裁判所検事局に出頭したときは、権力の追求がすでに爆裂弾事件の外皮をやぶって、天皇暗殺計画の実体にせまろうとしている重大な段階であった」

署名人として『東北評論』の発行を主導した新村忠雄

 「(『東北評論』の)第三号が、また一〇月二日、新聞紙法違反の安寧秩序紊乱(あんねいちつじょびんらん)罪で摘発され、一一月二七日、前橋地裁から、こんどは発行人兼編集長の遠藤友四郎が刑禁錮四ヵ月、印刷人の新村忠雄が刑禁錮二ヵ月の判決言渡しをうけた。中心の高畠・遠藤と遊撃の新村をぬかれて、回転のとまった『東北評論』は、ついに廃刊のやむなきに立ち至った」

 「『新村は好い男という程ではなかったが、色白で目鼻立ちも整い、ことに笑うと笑くぼが深く目立って見えた。顔色は桜色とも云うべき程だった。性質は温順で他人に対し極めて遠慮深かった』(茂木一次・談) 」

 「三月二二日、千駄ヶ谷平民社を解散して湯河原温泉に向かう秋水・幽月のひっこしを手つだったあと、新村忠雄は、尾行の巡査二人をつれて、滝野川の康楽園(こうらくえん)をたずね、古河力作の部屋でひとつ蒲団にくるまってねた。翌二三日、東京をはなれて、郷里の屋代町にかえったかと思うと、二五日にまた家をとびだして、また明科の宮下の下宿にやってきた。
 その新村のおちつきのない行動が、警察の監視網に捕捉されて、『捜査顛末』を見るとわかるが、うるさい追跡をうけていた」

爆裂弾を製造したとされる
宮下太吉


  ▲逮捕直前(明治四三年五月十五日)の
    宮下太吉。明科製材所開所記念日に撮影。
    首に巻いているのは白い絹のハンカチ。

 「労働者宮下太吉の経歴を調べてみると、明治八年九月三十日、甲府市の若松町にうまれている。亀崎で片山潜に出あったときは、三十四歳の働きざかりであった。学歴は、小学校の補習科をでたばかりだが、研究心のつよい少年であったらしい。貧しい農村の子弟が、生きる道を求めて、都会の工場にながれこんでいたが、宮下もまた、十六の歳に郷里をはなれた。……東京・大阪・神戸・名古屋の大工場をわたり歩いているうちにだんだんきたえられて、腕のいいりっぱな機械工になっていた。その宮下が亀崎の鉄工所にはいったのは、明治三五年ごろのことと思われる。明治二七年に創立された工場で、製材の機械や蒸気機関をつくるために、工員・徒弟あわせて百人近くの労働者がはたらいていた。

再審請求を起こした坂本清馬


  

 「放浪中の清馬が、喧嘩別れをした秋水の就縛を知って驚いたのは、上越線の小山駅で買った『やまと新聞』をひろげたときであった。大逆事件でつかまって、明治四三年一二月、大審院大法廷の被告席の被告席で顔をあわせるまで、秋水・幽月と清馬の絶縁状態が、長いあいだつづいていた。翌年一月一八日、死刑判決がくだって法廷が騒然となったとき、最後の別れを惜しむ意味であろう、秋水と幽月が、清馬のほうを向いて笑顔を見せたのに、清馬は顔をこわばらせてニコリともしなかった……」

  

“大逆事件”はこうして発掘された

【『革命伝説 大逆事件』の「あとがき」より】

 太平洋戦争のころ、銀座松坂屋の古書展で、ふと私をよびとめた極秘印の小冊子があった。検事総長小山松吉が若い思想検事のために行った講演速記の『日本社会主義運動史』で、昭和四年二月、司法省の発行である。出品者は、本郷の木内書店で、売価は一円五十銭であったとおぼえている。
 小山松吉は、大逆事件当時の捜査主任で、「幸徳ほどの男がこの事件に関係のないはずはないという推定の下に、証拠はきわめて薄弱ではあったが、検挙することにきめた」とあるくだりが、国家権力による大逆事件のフレーム・アップ(でっち上げ)を裏書きするのに十分であった。戦時中の重圧にもかかわらず、この極秘文書の入手が、真相追及の情熱をうずみ火のようにかきたててくれたのである。
 昭和二〇年八月一五日、大日本帝国政府は、国体護持(天皇制の存続)を条件として、ポツダム宣言を受諾したが、連合国の本土占領を前に、機密書類の焼却を急いだ。司法省の構内で、焼却作業を命じられた守衛のような小官吏が、火をつけた書類の山のあいだに、、幸徳秋水、管野須賀子、大石誠之助らの署名のある古ぼけた書類を見つけて、こっそり自宅に持ち帰った。
 この私物化された大逆事件死刑囚の獄中手記が、やがて換金のために若いブローカーを通じて、雑誌『真相』を発行している人民社へ、ひそかに持ちこまれた。その情報を耳にした私が、汗をふきふき、飯田橋の三木ビルにある人民社を訪ねたのは、昭和二二年の七月であった。
 初対面の社長佐和慶太郎に、「秋水や須賀子や森近らの獄中手記を手に入れたそうだが…」と、たずねるや否や、「君の探しているものは、全部ここにある」と答えて、背後の大金庫のなかから、古びた書類の束を出してくれた。
 手にとって見ると、幸徳秋水の『死刑の前』があった。管野須賀子の『死出の道艸みちくさ』があった。森近運平の『回顧三十年』があった。大石誠之助の『獄中にて聖書を読んだ感想』があった。新村忠雄の『獄中記』や、奥宮健之の『公判廷ニ於ケル弁論概記』もあった。
 私は、ながい文筆生活のあいだに、いろいろめずらしい文献を発掘してきたが、まったく奇跡的に救い出された、この大逆事件死刑囚の獄中手記を手にしたときほど、興奮したことはない。これまで、歴史の逆光線のなかで、国賊扱いされてきたこれらの人びとの真実のすがたが、時代の先覚者として、急に蘇生してきたのである。
 ついで、大阪の青年が、土蔵のなかで焼け残った故大田黒正記検事正の私有本である『訴訟記録』一七冊と『証拠物写』九冊とを、大きなリュックサックに詰めて、洗足の私の家まで運んでくれた。大逆事件に関する類書は多いが、右の基本文献にもとづいた著作は、本書だけの特色になっている。
 長野県の明科へ踏査にいったときには、労働者宮下太吉を知る老人が、まだ数人生存していた。彼らは、宮下を逮捕して表彰された小野寺巡査を「小野寺」と呼びすてにし、逮捕されて処刑された宮下を「宮下さん」と、あがめていることで、私をおどろかした。
 『革命伝説 大逆事件』全四巻の完結にあたって思うことは、近ごろの高校日本史の教科書と、各大学の入試問題に、日露戦争における平民社の非戦論や幸徳秋水、あるいは大逆事件が、公然と登場してきた事実で、いわば、歴史の市民権を獲得しはじめている。日本の青年や若い労働者が、大逆事件の教訓をよく学び、象徴天皇を利用して、とみに権力支配を強化してきた資本家階級の攻勢を打破するのでなければ、日本国憲法の維持・発展も、むずかしくなるであろう。
 擱筆(※筆を置くこと)するにあたり、「新しいものは、つねに謀反である」と、喝破した蘆花・徳富健次郎の名言をもって、結びの言葉にかえたい。

  昭和五二(※一九七七)年四月七日

品川・洗足にて  著者しるす

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 お知らせ

●「高知新聞」2010年12月15日版で『革命伝説 大逆事件』が紹介されました。

「高知新聞」2010年12月15日版で『革命伝説 大逆事件』が紹介。

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●「高知新聞」2010年8月2日版で『革命伝説 大逆事件』が紹介されました。

「高知新聞」2010年8月2日版で『革命伝説 大逆事件』が紹介。

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●「asahi.com」2010年6月27日付けで『革命伝説 大逆事件』が紹介されました。

大逆事件100年で新装版

大逆事件の全体像を、丹念に資料を集めて描いた神崎清の画期的著作「革命伝説 大逆事件」の新装版刊行 が、事件から100年の今年、第1巻『黒い謀略の渦』から始まった。……
http://book.asahi.com/news/TKY201006290246.html
 

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http://irregularrhythmasylum.blogspot.com/2009/12/100-cira-japana-2010-calendar.html

IRREGULAR RHYTHM ASYLUM -blog: 大逆事件100年記念カレンダー (CIRA Japana 2010 Calendar) <http://irregularrhythmasylum.blogspot.com/2009/12/100-cira-japana-2010-calendar.html>

8月22日(日)放送 埋もれた声 〜大逆事件から100年〜
 

写真・左:熊野地方の連座者たち
写真・右:語り始めた犠牲者の遺族

写真:和歌山県新宮市

 

紀伊半島南端近くに位置する人口3万人の町、和歌山県新宮市。この町は100年前に日本中を揺れ動かした「大逆事件」の舞台となった。明治天皇暗殺計画に加わったとみなされた全国の24人に死刑判決が下されたこの事件で、新宮とその周辺の町からは最も多い6人が連座、以後、その家族までが国賊視され、社会から徹底的に排斥された。新宮では、戦後に至るまで「大逆事件」に触れることはタブーとされ、遺族も沈黙を強いられ続けた。真相の解明が進んだ現在では、6人は事件と全く無関係で、事件そのものも国家権力による思想弾圧事件だったと考えられている。しかし事件について市民が話し出すようになったのは、90年代後半以降のこと。2001年には市議会で、事件の犠牲者は非戦や平等を訴えた「郷土の先覚者」であったとして顕彰する決議もあがった。今ようやく事件について語り始めた遺族たちの声に耳を傾け、事件が持つ歴史的意味を探る。

 

[テレビ番組]ETV特集 埋もれた声 〜大逆事件から100年〜Add Starmatsuiismbii28satosuke-428125quagmadimitrygorodokpongpongland

最近、この番組のことばかり書いてるようで気が引けるのだが。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html


ETV特集 埋もれた声 〜大逆事件から100年〜 - Arisanのノート <http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100823/p1>

 

大逆事件」からほぼ百年が経って、ようやく弾圧による冤罪の被害にあった人たちの名誉回復が進められているということである。

ぼくは、一時中上健次の熱心な読者だったので、新宮の町の歴史や風土については文章(小説やエッセイ)を介しては知っているし、大石誠之助など「事件」に関わったとされ処刑されたり投獄された人々のことも少しは知っていた。

しかし、この事件が、そのひとつの町に、これほど大きな影を投げかけていたとは、迂闊にも今まで想像したことがなかった。

番組に登場した人たちは口々に、町全体が「大逆を犯した町」のように見做されることへの恐怖心から、被害家族たちへの排除・迫害に走ったのだろう、と言っていたのである。

こうしたことを軽くみていたことは、ぼくが「大逆事件」というもの、また近代の天皇制というものの存在の重さを本当には分かっていないということを、端的に示しているだろう。

この「事件」が、投獄・処刑された人々や家族たちばかりでなく、どれほど多くの人たちの人生を覆い、変えてしまったか。


それにしても、番組では何度も、「排除を行った自分たちの闇の歴史に光を当てようとする」町の人たちの姿が強調されていたが、番組の製作者たちも暗に伝えようとしていただろうように、これは新宮という町だけの「闇」ではない。

こうした排除や迫害を行ったのは、日本の社会全体であったはずである。

それだけに、その「闇」を背負って、自らそこに光を当てていこうとする新宮の人たちの勇気ある態度に、本当に頭が下がる。


番組では、言い尽くせない迫害や排除、差別にあってきた家族の人たち、またそれを見つめてきた人たちの証言がつづられるのだが、最も印象深いのは、最後のシーンだ。

子どもの頃から、ずっと苦しみを受け続けてきた、年老いた男性に、インタビュアーは「あなたにとって、大逆事件は過去のものですか?」と尋ねる。

恐らく質問者は、「いや、自分のなかで過去のものにはなっていない」とか、「なっている」とか、そういう答えを予測していたのではないかと思う。少なくとも、ぼくはそう予測した。

だが、帰ってきた答えは、それを裏切るものだった。

短い沈黙、だがそこで深い思考と思いがめまぐるしく動いていることを感じさせる沈黙の後で、老人はこう答えたのだ。


『いや、過去のものとは言えない。これから先、未来にもこういう事件は起こりうるから』


つまり、何か個人的な感想を言うだろうというぼくの予測に反して、この人の眼差しは、社会全体を見つめていたのである。

ここに何か、決定的な断絶がある。

社会や国家によって、あまりにも深い傷を受け続けた人たちは、そしてほとんどその人たちだけが、社会全体の変容(と変わらぬ体質)への確かな眼差しを、否応なく抱き続けている。

そうでない者は、そこに個人的なもの、内面、私的なものしか予想しないが、こうした人たちの瞳は、否応なく社会全体へと開かれている、そして見たくないものにまで向けられてしまうのだ。

その、曇りなく開かれた眼差しに捉えられた社会の映像のなかに、ぼくたちの(無防備ゆえに暴力的でもある)姿も映っているのである。


「こういう事件」は、たしかにこれからも(これからこそ)起こりうるし、これほど大規模であからさまでなくとも、すでに起こっているかもしれない。

その的確な、しかしぼくにとっては全く不意をつかれた言葉を残して、老人は去っていく。

大逆事件」が、決して「解決」や「清算」を(ましてや「忘却」を)待っている過去の出来事ではなく、われわれ自身にとっての現在と未来に関する事柄だという事実が、番組の最後にあざやかに、衝撃をもって示されるのだ。

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雑文亭・tok.: 韓国併合・大逆事件100年の今年を忘れぬために。憲法メディア紹介。 <http://tok.blogzine.jp/keizai/2010/01/post_73cd.html>

大逆事件100年 - Google 検索 <http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%B9%B4&hl=ja&lr=lang_ja&gl=jp&tbs=lr:lang_1ja&prmd=ivns&ei=FW8_TajoIo--uwPvu6H2Ag&start=10&sa=N>

 

第61回 不戦のつどい 「韓国併合・大逆事件」100年と『坂の上の雲』(7月11日名古屋) - 薔薇、または陽だまりの猫 <http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/2e347d0bccaccd64de076fc2abdf6cc0>

 

 

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