外国人が見た近世日本
十九世紀の日本人       磯田 道史 
第二章 東アジア諸民族の特徴   237p
1 朝鮮人と書物
 第一章では、中国・朝鮮・日本の民族性の距離感を欧米人がどのようにとらえていたかをみた。次に、日本と地
理的に近い、朝鮮人・琉球人・アイヌ人・日本人のあいだの特徴がどのようにとらえられていたのか、この点を掘
り下げてみたい。
 十九世紀初頭、ヨーロッパ人は東シナ海の諸民族への接近を本格化させた。当時、東シナ海は海禁体制が二世紀
以上も続いており、民衆レベルでの交流が制限されたことから、中国・朝鮮・琉球・日本のそれぞれが一種独特な
民族性を温めるに至っていた。ヨーロッパ人たちが来航したとき、東シナ海沿岸の諸民族は、それなりに容貌は似
ているが、その行動や心理は、著しく違っていることに気づいた。つまり、ヨーロッパ人によって東シナ海諸国の
「民族性の違い」が再発見されることになったのである。
 ヨーロッパ人は来航すると、土地の有力者を船室などに招いたが、まず、そこで民族性の違いを発見した。民族
によって、ヨーロッパ人がもたらした事物のうち、興味をもつ対象が、まったく違っていたからである。
 一八一六年に東シナ海にあらわれた英国軍艦ライラ号の艦長ベイジル・ホールは、朝鮮と琉球を訪れている。朝
鮮でも琉球でも、船内に土地の有力者を招きいれたが、朝鮮人と琉球人とでは、船内で欲しがるものがまったく異
なっていた。
 たとえば、朝鮮人が、ヨーロッパ人と出会ったとき、最初に興味をもったのは、武器でも、地球儀でもなく、書
物であった。そこに民族性があらわれていた。ペイジル・ホールたちが、はじめて朝鮮人に接したとき、彼らが目
撃したのは、朝鮮の紳士が異常なほど書物に執着し、「文人」としての交流をもとめてくるというものであった。
「この紳士は、医者の手から釈放されると、われわれの書物を調べはじめたが、その様子は、書物というものを扱
いなれている人間の態度であった。この男は文人としての待遇を望んでいるようにみえた。彼はわれわれが無造作
に本を扱うのを見て、思い切ってその一冊を自分のほうに引きよせ、欲しいという表惰をしてみせた。(中略)外
見は立派な書物を一冊与えると、彼は大いに感謝してそれを受け取った」(ベイジル・ホール著、春名徹訳『朝鮮・琉
球航海記』岩波文庫、一九八六年、五八頁)。ペイジル・ホールたちは、文人として扱われることが、社会的権威に
なっている「文人社会」朝鮮の姿をみたのである。
2 琉球人と地球儀
 ところが、琉球人が興味を示すものは、朝鮮人とは異なっていた。朝鮮と同様に、琉球の首長たちを船内に招き
いれてみたが、琉球人たちがまず関心を示しだのは、地球儀であった。「われわれは首長たちに船室内をみてまわ
るようにすすめた。(中略)とりわけ関心を示しだのは、地球儀と書物、鏡であった」(ペイジル・ホール『朝鮮・琉
球航海記』 一〇二〜一〇三頁)。書物にも興味を示したが、琉球は元来、島国であり、海の文化をもっている。琉球
では上流階級は海を渡って中国で教育を受けることもしばしばであり、中国と海上交流し、書物文化をとりいれる
ことが、支配者の特徴であった。「この民族の学問にかんする実態はごくわずかしか知ることはできなかった。琉
球人自身の言葉で書かれた書物はほとんどなく、大部分の書物は中国語で書かれている。身分のある青年は時とし
て教育のため中国へ送られる。次良は少年の頃、この経験をしている。中国語の話し言葉を理解できるのは上層階
級のものだけであり、農民は一般に、中国語の話し言葉も文字も理解しない」(ペイジル・ホール『朝鮮・琉球航海
記』二七〇頁)というのが、当時の琉球であった。それゆえ、琉球の首長たちにとって、海を渡るための地球儀と、
外来知識をえるための書物はとりわけ興味をひかれるものであった。文人社会の朝鮮人に比べ、海人社会の琉球の
人が、地球儀や鏡といった実際的なものに、心を寄せていたことは、注目すべきであろう。
 また、琉球人の態度は、ペイジル・ホールたちの目に、朝鮮人と異なってうつった。「この人々の態度はきわめ
て温和で、ひかえめであった。注意ぶかく好奇心がないわけではないが、われわれがくり返してすすめたあとでな
ければ、決して近づいて見ようとはしなかった。好奇心にかられて我を忘れるような行動ははしたないことだ、と
いう上品な自己抑制を身につけているためと思われる」(ペイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』 一〇三頁)。朝鮮人
は、みずから書物に近寄ってゆき、「欲しい」という表情をみせたが、琉球人の首長たちは、温和で控え目で、誰
一人として、珍品をねだるようなことはしなかったという。
 琉球人の親切さは朝鮮人と対照的であったらしい。次のように述べている。
 「われわれは、これほど好意的な人々に出会ったことはかつてない。彼らは舟を横づけにすると、すぐ一人が水の
入った壷を、もう一人は、ふかしたサツマイモの入った龍を差し出したが、代価を要求したり、ほのめかしたりす
るようなことはない。その態度はおだやかで、礼儀正しかった。われわれの前では頭にかぶっていたものをとり、
話しかけるときにはお辞儀をした。(中略)アルセスト号のそばへも一般のカヌーが近寄って来た。ロープを投げ
たところ、その端に一尾の魚をむすびつけてくれ、そのまま漕いで行ってしまった。このようなことはすべて、よ
い前兆であるようにみえる。朝鮮人の冷たい反撥的な態度に接したあとだけに、うれしさもひとしおであった」
(ベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』九四〜九五頁)。
 琉球人の温和さは、その島に武器がまったくないことに象徴されていた。ペイジル・ホールは「われわれは、い
かなる種類にもせよ武器というものを見ていない。島の人々も、武器は一切ないと断言していた。マスケット銃を
発射した時の様子をみれば、火器を知らないことは確か」(ペイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』二七一頁)である
と、驚いている。
 つまり、琉球人は温和と無欲という性質をもっていた。琉球には、武器らしい武器はみうけられず、寡欲であり、
外国人には親切で、危害をくわえるようなそぶりが全くみられなかった。このような琉球人を、ゴロウニッは、む
しろ中国人に近いものとしてとらえていた。「日本人の話によると、琉球の国民は居住している島の面積からみれ
ば非常に多く、性質は柔和で臆病で、日本人より支那人によりよく似ている。彼らの言語も支那語に似ている」
(W・M・ゴロウニン著、徳力真太郎訳『ロシア士官の見た徳川日本』講談社学術文庫、一九八五年、一六九頁)。しかも、
彼は、琉球人の「性質は柔和で臆病」としているように、のちに述べるような好戦的な日本人とは異なる人々とみ
ていた。このような友好的な非武装民族が、日本の南方=琉球にいるというのが、十九世紀の欧米人の認識であっ
た。
 シーボルトも同様に報告している。琉球人は温和で武装しないという。「この島の住民は朝鮮人や韃靼人よりも
中国人に似ている。一般に誠実で正直、勤勉で器用、節度があり、ひじょうに清潔好きである。その温和な性格は
民族もその統治者も常に武装せず、武力をまったくといっていいほど行使しないことに現れている。女性はひじよ
うに行き届いたしつけを受けているので思いやりがあり、やさしく、極めて貞節で従順である。(中略)昔の日本
人叙述家は、この島国では女性は男性より敬われていると断言している」(シーボルト『日本』第6巻、雄松堂書店。
一九七九年、二七四〜二七五頁)。琉球人について、シーボルトが優しさということをその性質のひとつとしてあげ
ているのは注目してよい。ただ、琉球人は中国人に似ているとするが、女性のあつかいは中・朝と異なる。中国や
朝鮮、日本と比べても、琉球では女性が大切にあつかわれていた。また、勤勉・器用・清潔好きといった日本人に
ついていわれる性質と同じものを、琉球人について指摘している。また、次のようにもいう。「奴隷状態やおよそ
抑圧や苛酷に取り扱われるのをひじょうに嫌うのだが、自分と同等の者に対してはひじょうに礼儀正しく、身分の
上の人や上流階級の人びとに対しては卑屈なまでに従順である」(シーボルト『日本』第6巻、二七七頁。非武装性
と従順という点では、次に述べるアイヌ人と酷似した特質が叙述されていて興味深い。
 事実、琉球人はアイヌ人と同じ入れ墨の文化をもち、争いを好まない。この点はヘルツが指摘している。「琉球
の住民は争いを好まず、あけっぴろげです。けだるく、ゆったりとした身のこなしや、メランコリックな顔だちは、
朝鮮の人たちを思わせます。服装や髪型が似ていることも手伝って、体つきまで同じように見えます。怠惰で仕事
嫌いな男たちに代わって、きつい労働を引き受けるのは女です。彼女たちは手の甲から腕にかけて、蝦夷のアイヌ
女性と同じような入れ墨をしています」(ベルツ「琉球諸島島民、アイヌ、その他東アジアに残るコーカソイドに類似し
た住民」若林操子編訳『ヘルツ日本文化論集』東海大学出版会、二〇〇一年、八一頁)。このようにヘルツは、アイヌ人
と琉球人の共通点を指摘している。アイヌ人も琉球人も、ともに近世国家のなかでは抑圧をうけていたため、その
従順さが記述されやすかったといえよう。しかし、ヘルツの記述からは、アイヌ人と琉球人の違いもうかびあがる。
すなわち、琉球人には「あけっぴろげ」で開放的な姿がみられるが、アイヌ人にはそれがみられないという点であ
る。次にアイヌについて、やや詳しくみてみたい。

 3 アイヌ人と無欲

 十九世紀になると、欧米人によるアイヌ人に関する記述が増えてくる。日本の北方で欧米人とアイヌ人の接触が
活発化したからである。アイヌ人は欧米人にとって驚くべき民族であった。そのふるまいは、あまりに穏やかで欲
がなさすぎ、この地球上でもっとも人に危害を加えない民族なのではないか、と記している。
 一七九六年に来航したプロビデンス号の航海日誌には、アイヌ人と接触したときの驚きが記されている。「イン
ズlnsu〔エゾ〕の人々は貢ぎ物を納め、日本人の支配下に置かれて、たいへん服従していた。(中略)彼らはもっと
も無害で、不快を感じさせない部類の種族であるように見えた。(中略)インズの人々はのろのろ、おずおずと、
怖じけづいた様子で話す」(ウィリアムーロバート・ブロートン著、久米進一訳・編著『プロビデンス号北太平洋探検航
海記』室蘭市役所企画財政治開発課プロビデンス号建造検討委員会、非売品、一九九二年、一二八頁)。アイヌ人は世界各
国を航海した船乗りたちの目からみても、もっとも攻撃性のない、穏やかな人々であった。
 アイヌ大の性格を穏やかとするものは、これにとどまらない。十九世紀初頭、欧米人のなかで、アイヌ人のこと
を最もよく知っていた人物は、ゴロウニンであった。彼は一八一一年、千島列島を測量にきて、幕府の役人に拿捕
され、三年間、幽囚生活をおくった。その経験から、日本の北方事情を最もよく知る欧米人となったのだが、その
彼をしても、アイヌ大の穏やかさは、とびぬけたものであった。ゴロウニンは、アイヌ人について「彼らは仲間同
士非常に仲良く暮し、概して平和を好み、大変に善良である。外国人にも優しく親切であり、極めて丁寧に礼儀正
しい」と記し、「彼らの言葉に罵言雑言に類する言葉が少ないのは、彼らの性格の穏和なことを証明するものであ
る」(ゴロウニン『ロシア士官の見た徳川日本』一七八頁)と具体的根拠をあげて、アイヌ人の平和的性格を指摘した。
 ゴロウニンとほぼ同時期、欧米人のなかで日本通として知られたのは、シーボルトであるが、彼もアイヌ人の性
格について次のように叙述した。「アイヌ人は荒々しい外貌をしているにもかかわらず、物腰はいずれも柔らかく
かつ優雅で(中略)その風采、挙止までがなんとなく高貴さを疑わせるくらいである。フォン・クルーゼンシュテ
ルンは、(中略)半面悪くすると内気さととられかねないほどの慎み深さを賞賛している。(中略)彼らはちょっと
した思いがけない出来事でも驚きやすく、きわめて従順で丁重である」(シーボルト『日本』第6巻、七四頁)。シー
ボルトも、アイヌ人を優しい人々とみていた。性格は「悪くすると内気」「驚きやすく、きわめて従順で丁重」(同
右)すこしも戦闘的なところがない。
 さらに、アイヌ人には琉球人にみられるような客人への親切なもてなしと、気前のよさ、無欲さがみられた。
シーボルトはアイヌ人の善良さを、こう書いている。「貪欲性、さらに正確には掠奪欲などは、彼らにとっては
まったく無縁のものである。彼ら自身気前がよく、外来の客人にいささかも代償を求めることなく魚を譲り、また
人から物をもらっても、それが確かに自分の物として与えられたのだということがはっきりわかるまでは、決して
自分の物として認めようとしない」(シーボルト著『日本』第6巻、七五頁)。
 アイヌ人がこのように記録された背景には、おそらく、欧米人が、本土の日本人=和人に服従させられるアイヌ
の従順さをみたことも関係しているだろう。しかし、アイヌ人が狩猟採集の暮らしのなかで、和人とは異なる所有
観念をもっていたことも示している。欧米人によって、温和で控えめで無欲で客人に気前がよい、と指摘される点
で、アイヌ人と琉球人には共通点がみられた。そして、あらゆる点において、アイヌ人と日本人とはその性格が異
なるとされた。
 アイヌ人と日本人とのあいだに共通点があるとすれば、それは好奇心や知識欲の強さであろう。シーボルトは、
アイヌ人の特性について、服従心を失わない平和的な善良さとともに、知識欲の強さをあげている。「彼らはとく
に子供たちは極めて知識欲が強く、いろいろな事柄について日本人から教えをうけようと求める。彼が極めて無知
な状態にあったとしても、その原因は天性の素質が欠如しているからではなく、彼らを軽侮し、まるで奴隷か駄獣
のように取り扱っている傲慢な圧制者たちの罪である。それにもかかわらず、この善良な人種は、その我慢強さを、
否その厳酷な支配者たちへの服従心をも失うことはない」(シーボルト『日本』第6巻、七六〜七七頁)。
 結局のところ、十九世紀の欧米人は、列島の北辺において、日本人とまったく対照的な民族を発見したといって
よい。その民族は、琉球人と同様の慎み深さをもち、欧米人はその民族としての善良さに愕然とした。イサベラ・
バードは、アイヌ人のことを「温和な気質であり、気立てがよく、従順である。彼らは完全に、日本人とは別個の
民族である」(I・L・バード著、楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『日本紀行』雄松堂出版、二〇〇二年、一〇〇頁)
と記している。
 また、ベルツも、アイヌ人について、善良で従順であると断言する。
 「アイヌの顔の表情は独特の哀愁をたたえ、厳しく、時にははにかみ、まるで怯えた野生動物を思わせます。とはい
え、たいへんな善良さと従順さこそ、彼らの性格の基本です」(ベルツ「東アジアの人種、特に日本を中心に」『ベル
ツ日本文化論集』五一頁)。
ベルツにいわせれば、日本人とアイヌ人大のあいだの相違点は、二つだけであるという。彼は、こう書いている。
 「イギリスやアメリカの宣教師、とりわけ『アイヌの使徒』と呼ばれたJ・バチェラーのような人物が、アイヌは
日本人と変わらぬ知性を有すると断言しています。(中略)アイヌの人々は肉体と精神の資質において、またそれ
以外のいかなる点においても日本人に引けをとりません。ただエネルギーと好戦性だけは別ですが」(ベルツ「東ア
ジアの人種、特に日本を中心に」『ベルツ日本文化論集』五九〜六〇頁)。
 ベルツの見方では、エネルギッシュさと好戦性、これこそが日本人の特徴で、アイヌ人にはない性格であって、
肉体や知性において、日本人にひけをとらないアイヌ人が日本人に圧伏させられているのは、性格があまりに善良
かつ従順で、好戦性がないためである。ベルツのみならず、十九世紀末の欧米人は、そのように考えていた。

4 日本人と武器
 武器への興味という点で、アイヌ人や琉球人、さらには朝鮮人とも異なっていたのが、日本人であった。ペイジ
ル・ホールは日本本土に接岸していないため、本土の日本人の叙述を残していないが、日本人が異国船のなかに招
かれると、子供のように武器に飛びつく様子は、しばしば欧米人によって記録されている。たとえば、来日したオ
ズボーンは、日本人に銃と銃剣を贈っているが、「受け取った者の喜びようから察すると、大いにありがたがられ
たらしかった。武器を贈られた者の誇りは、まったく限りがなかった。そしてその職務が平和的なものと思われて
いた森山でさえ、砲兵のカービン銃とその長い銃剣に飛びついたところは、まるで軍事の礼だけが彼の特別な人生
の目的であるかのようだった。このような子供じみた武器愛好を見ると、微笑を禁じ得なかった。(中略)この銃
と剣への愛好が異様だったのは、小規模な反乱を除けば、日本で何にせよ軍人魂が必要なくなってから何世紀も
たっていたからであり、国民も支配者も、まったく 獰猛でも残忍でもなかったからである」(S・オズボーン著、島
田孝右・ゆり子訳『日本への航海』新異国叢書・第V集4、二〇〇四年、ニご了二二三頁)。
 オズボーンは不思議に思った。日本では何百年ものあいだ平和が続き、人々に猛々しいところが微塵もないのに、
なぜ日本人は、これほどまでに武器に恋着するのか。考えた末、オズボーンは一つの答えに、いたっている。「武
器を携行することが、あらゆる日本人の野心であり、二本の刀を身につける権利は、その人物が商人階級よりも上
位であることを示す身分のしるしなのである」(同右)。これは、きわめて重要な指摘である。一見、平和そうに暮
らしている日本人に「武」の愛好が宿りっづけたのは、「武器の携行」が身分制度と結びつけられていたからで
あった。「武」を有する者こそが社会的地位があり名誉とされる社会では、たとえ戦争がなくても「武」への執着
はなくならない。平和がっづいても、日本人から「武」の要素が抜けなかったのは、そのためであった。逆に、文
人であることが、社会的地位や名誉をあたえられた朝鮮では「文」の要素が永続した。
 日本に接岸したヨーロッパ人は、書物に執着する朝鮮人とも、地球儀を好んで「武」を知らない琉球人とも違う、
日本人を発見したといってよい。一見、平和的でおとなしい日本人が、子供のように武器を欲しがる姿をみて、欧
米人たちは微笑せざるを得なかったのである。日本は「文人社会」である中国・朝鮮とも、「海人社会」である琉
球とも、穏やかな「猟人社会」であるアイヌとも、明らかに、民族性が異なっていた。十九世紀のヨーロッパ人は、
東アジアの片隅に、ずっと戦争がないにもかかわらず、依然として「武人」でありつづける不思議な国民として、
日本人を発見していた。
第三章 東アジアにおける日本の位置
1 十六世紀の日本人
 ザビエルは日本人の知性を高く評価していた、と、一般に考えられている。彼が、天文十八(一五四九)年十月
十六日に鹿児島から送った次の書簡は、しばしば資料集に引用され、歴史教育につかわれてきた。
 「日本につきては我等が見聞して知り得たるところを左に述ぶべし。第一我等が今日まで交際したる人は新発見地
中の最良なる者にして、異教徒中には日本人に優れたる者を見ること能はざるべしと思はる。この国の人は礼節を
重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり」(村上直次郎訳、柳谷武
夫編『イエズス会士日本通信 上』雄松堂書店、一九六八年、四頁)とし、「多数の人読み書きを知れるがゆえに、速
に祈祷およびデウスの教を修得す。この地は盗賊少し」(同、五頁)と、読み書きができる者の多さと、盗みの少
なさを賞賛している。
 異教徒のうちでは日本人が最も優れている。室町末期の日本人に対するこの高い評価は、日本人にとって耳にな
じんだ論説であり、よく知られている。
 しかし、ザビエルの「日本人論」は、東アジアの比較文明論の視点から、客観的に検討されなければ、危うい。
というのも、ザビエルは日本人だけでなく、中国人、さらにはインド人についても、その知性の高さを賛美してい

inserted by FC2 system