日本における文明開化論――福沢諭吉と中江兆民を中心に 2003.3.29 ソウル 米原 謙(大阪大学) はじめに 福沢諭吉と中江兆民は、ともに二〇世紀の最初の年に死去した。このふたりが、明治前期の みならず近代日本を代表する思想家であるという評価に、異論をはさむ人はいないだろう。し かし他方で、近代の思想家のなかで、このふたりほど対照的な組み合わせを他に見つけること はむずかしい。一点だけ例をあげよう。福沢はその自伝の末尾で、洋学者として自活できれば いいと思っていたら「図らずも」維新になって自分の願いがかない、さらに「絶遠の東洋に一 新文明国」を開くという第二の願いも、日清戦争の勝利で成就した。「左れば私は自身の既往 を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかり」と。向日性という性格もあるだろう。しかし人生 の終り(この一年半余り後に死去)に臨み、自分の人生を「愉快な事ばかり」と総括できる人 はざらにはいない。 兆民はどうか。「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり」。人生の終りに臨み、かれがこのよ うに述懐したことはよく知られている。『一年有半』はその満腔の「不満」を書きつけた訣別 の書にほかならない。この本の末尾で、兆民は義太夫と人形浄瑠璃の名優たちの名をあげて、 つぎのように語る。「此等傑出せる芸人と時を同くするを得たるは真に幸也、余未だ不遇を嘆 ずるを得ざると謂ふ可し」。強がりとも自己への憐憫ともとれるこの言葉が、『一年有半』の結 びである。 栄達をなし遂げたものと、企図したことにことごとく失敗したものとの違いだといってしま えば、それまでである。しかし同時代を生きたふたりの知識人が、自分たちの生きた時代につ いてこれほど違った評価をしたことは、やはりふたりのパーソナルな生活史に還元できない、 根源的な何かが存在したと考えるべきではないだろうか。ふたりをこれほど隔てたものが何だ ったのか、かれらの西欧文明に対する態度とそれをもとづいた近代化構想を中心に考察したい。 1 文明論と国体論――初期の福沢諭吉 明治初期の福沢の言論は、主として「国民」創出の必要性を説くことに向けられている。1853(嘉永6)年のペリー来航による「西欧の衝撃」に直面して、それに対応した国民国家の創出 の方途を福沢ほど的確に指し示した者はいない。それは端的にいえば、近代的な国民的エート スの養成と評することができる。近代化の両輪は産業化と民主化であるが、このふたつを達成 するには、まずそれを可能にするエートスを養成しなければならない。西欧の富強の根底に、 それを基礎づける特有の精神が存在することは、かなり早くから気づかれていた1。しかし西 欧の近代精神のあり方をもっとも的確に理解し、表現したのは何といっても福沢である。福沢 の表現に従えば、「一国の治乱興敗」を決するのは「人民一般の気風2」である(「国権可分の 説」、福沢R528)。数百年にわたって「人心に浸潤したる気風」を一掃して、国民個々人が「文 明の精神」を修得しなければ、到底、近代化は達成できない(「学問のすゝめ」第4編、福沢 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1 西周は、これを「学術より国家の典章文物」に至るまで「実測」に基づいていることにあると述べて いる(「藩主への建言書」1860年)し、加藤弘之『隣草』(1861年)で「武備の精神」に着目している。 2 ここに「気風」と表現されているのはspiritの訳語である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー B51)。この「文明の精神」と背反する「習慣」の精神を代表したのが儒教である。だから初 期の福沢は儒教精神の克服に大きなエネルギーを注ぎ、「世上に実なき」伝統的教学ではなく、 「人間普通日用に近き実学」を提唱した(同上初編、福沢B30)。 伝統精神打破の福沢の闘いが、学問の「勧め」という形で開始されたのは興味深い。ここで かれは、伝統教学が精神の奴隷化を生んでいると批判するとともに、「愚民の上に苛き政府あ り」と説いて、人民の無知文盲が専制政府を生み、自業自得の結果になると指摘している。つ まり福沢の戦略は、一方では伝統教学を批判しつつ、他方では新しい学知のあり方を提起する という二正面作戦をとることになる。そのとき採用されたのが「一身独立して一国独立する」 というテーゼである。この表現が朱子学の「修身済家治国平天下」をなぞっていることは明瞭 である3。福沢は伝統教学の形式を借用しながら、そこに新しい精神のあり方を盛り込むこと で、内側から「習慣」の精神を打破しようとしたのだった。 福沢のいう「独立の精神」とは、端的に「由らしむべし知らしむべからず」の伝統的な統治 精神の否定である。そこでは他者への依頼、とくに政府に対する依頼心が厳しく糾弾されてい る。「一国の全体を整理するには、人民と政府と両立して始て其成功を得可きもの」(同上第4 編、C49)と書いたように、福沢はつねに国家の構成要素を人民と政府に二分して捉え、政府 から人民が自立することを強調した。そしてこのような「自由独立の気風を全国に充満」させ て、「国を自分の身の上に引受け」ることが要請された。 『学問のすゝめ』第6編と第7編を執筆した1874(明治7)年2月頃、福沢は『文明論之 概略』執筆の構想に取りかかった。そして福沢としては異例の約1年という長い歳月をかけて それを脱稿したとき、かれの問題意識は初期の『学問のすゝめ』から大きく転回していた。福 沢の変化は、『文明論之概略』執筆中に刊行された『学問のすゝめ』の9編以後の叙述に刻印 されている。一例だけを挙げると、第10編(1874年6月刊)でかれはつぎのように述べてい る。「余輩固より和漢の古学者流が人を治るを知って自ら修るを知らざる者を好まず。これを 好まざればこそ、この書の初編より人民同権の説を主張し、人々自らその責に任じて自らその 力に食むの大切なるを論じたれども、この自力に食むの一事にては未だ我学問の趣意を終れり とするに足らず」(福沢B94)。ここでかれは「一身独立」だけでは不十分だと説いている。こ れは『文明論之概略』第6章の以下の文章と対応するものである。「元来人として此世に生れ、 僅に一身の始末をすればとて、未だ人たるの職分を終れりとするに足らず」(福沢C113〜4)。 ここに見られる「一身独立」への消極的ニュアンスは、『大学』の「修身」から「平天下」 に積み上げていく積分的思考では、「文明の精神」に対応できないという判断にもとづいてる。 『文明論之概略』は、徹頭徹尾、このことを説いたものと考えてよい。「緒言」の言葉によれ ば、文明とは「衆心発達論」である。これは『学問のすゝめ』第7編における以下のような定 義と明確な対照をなしている。「元来文明とは、人の智徳を進め人々身躬からその身を支配し て世間相交わり、相害することもなく害せらるゝこともなく、各其権義を達して一般の安全繁 盛を致す」。ここでは基本が「人々身躬から」に置かれており、個々人の「智徳」や「権義」 を「世間」や「一般」に及ぼすことが文明だと説かれている。『文明論之概略』ではこうした ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 3 「中津留別の書」(明治3年11月27日)で、かれは自由について述べた後、つぎのように説いてい る。「父子、君臣、夫婦、朋友、互に相妨げずして各其持前の心を自由自在に行はしめ、我心を以て他 人の身体を制せず、各其一身の独立を為さしむるときは、人の天然持前の性は、正しきゆへ、悪しき方 へは赴かざるものなり。(中略)一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天 下も独立すべし」(S49) ーーーーーーーーーーーーーーーー 積分的思考法を否定して、「一体」としての社会(福沢の語では「人間交際」)を考察しなけれ ば、「文明」は把握できないと考えるようになったのである。 いうまでもなく、このように「人間交際」をひとつの個性をもった集合体として理解する思 考は、ギゾーやバックルの文明論から学んだものである。とくにバックルの「スタチスチク」 (統計学によるマクロ的観察)の手法に福沢が感嘆したことは、バックルが言及したパン屋の パンの販売個数や結婚統計の実例を、第4章でそのまま引証していることでも想像できる。福 沢の認識によれば、西欧と日本を比較したとき、日本が劣るのは個々人の「智力」ではない。 問題は個々の「智力」の程度ではなく、その結合の仕方だった。「西洋の人は智恵に不似合な る銘説を唱て不似合なる功を行ふ者なり。東洋の人は智恵に不似合なる愚説を吐て不似合なる 拙を尽す者なり」(第5章、福沢C79)。集合体としての「人間交際」のあり方が「習慣」に支 配されているために、個々人が相互に切磋し高めあうことがない社会構造こそ、『文明論之概 略』における問題の出発点だった。 上記の『文明論之概略』第5章の叙述は、日本の社会には議論による「衆論」形成の伝統が ないことを指摘したものだが、同じ問題は第9章では「権力の偏重」として剔抉される。西欧 文明の本質が多元性にあるとのギゾーの指摘を受けて、日本では権力や価値が一元化している ために、「諸説並立」によって新たなものが形成されることがないと福沢は指摘する。「人間交 際」のあらゆる側面に「権力偏重」という現象が「浸潤」していることを指摘して、多元性の 欠如による社会の「停滞不流」こそが、日本文明の根本的欠陥であると説いたものである。 以上のように、『文明論之概略』において福沢は、西欧文明と日本文明の「全体の有様」を 総体として比較考察する視点を獲得した。第2章で論じられているように、文明には「外に見 はるゝ事物」と「内に存する精神」があり、前者は多様だが、後者は本質的に相対的な差にす ぎない。だから文明の精神における彼我の違いは、結局、進歩の「前後」関係に帰着する。そ して前にあるものが後ろのものを支配する状況にある以上、日本は西欧を目標にして進まねば ならないという結論になるのは当然である。単純化すれば、西欧文明の精髄は多元主義にある ので、日本もその「多事争論」の気風を学ばねばならないという点に帰着する。 しかし彼我の文明の差異を時間的な前後関係に還元しようとしたとき、福沢は頑固な論敵に 逢着した。それが国体論者である。水戸学や国学は日本の国体の固有性を説くことで、西欧文 明の普遍性を否定した。旧来の「全国人民の気風」を変革して、日本が「文明の精神」を獲得 するために、福沢はまず国体論という障害を除去しなければならなかったのである。文明の違 いは相対的なものだとして、一元的な文明観を展開した第2章で、福沢が国体論に言及したの はこのような理由による。ここでかれは国体を以下のように定義している。 「国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互 に視ること他国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、 一政府の下に居て自から支配し他の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立 する者を云ふなり」(福沢C27)。この定義はJ・S・ミル『代議政体論』のNationalityにつ いての説明をそのまま援用したものである。続いてかれは、国体観念の淵源をミルに従ってつ ぎのように説明する。「国体の情の起る由縁を尋るに、人種の同じきに由る者あり、宗旨の同 じきに由る者あり、或は言語に由り、或は地理に由り、其趣一様ならざれども、最も有力なる 源因と名く可きものは、一種の人民、共に世態の沿革を経て懐古の情を同ふする者、即是なり」 (同上)。 国体の核心は「共に世態の沿革を経て懐古の情を同ふする」こと、すなわち歴史の共有に求 められたのである。この定義に従えば、国体は個々の国家の固有な歴史によって特色づけられ ることになる(ミルのNationality論はこのようなものだった)。しかしこの国体の固有性と いう観念は、文明の違いは相対的な物にすぎないという発展段階論と矛盾するはずである。時 間的な前後関係で説明される文明論と、福沢が援用したミルのナショナリティの定義のあいだ には、あきらかな齟齬が存在する。しかし「国体の存亡は其国人の政権を失ふと失はざるとに 在るものなり」(福沢C28)として、福沢は国体論を国家独立の問題に解消している。旧来の 国体論が万世一系の皇統と不可分だったので、皇統の連続性より国家の独立を保持することの 方が本質的だと切り返すことで、問題をすりかえたのである。しかし最初の定義どおり、歴史・ 人種・言語・宗教・地理などの共有によるNationalityの意識を国体と定義し、その固有性に よる精神の自立性こそ、西欧の侵略に対する防波堤になると考えれば(水戸学の国体はこのよ うな形で提起された)、福沢がこうした問題にまったく答えていないことはあきらかである。 第10章「自国の独立を論ず」の「皇統者流」の国体論やキリスト教に対する批判も、同じ 論法をくり返している。キリスト教についてだけいえば、「一視同仁」主義が「報国心」と矛 盾するという福沢の説明は、キリスト教を西欧文明の固有性から分離して、「一視同仁」とい う平等主義とナショナリズムの「偏頗」性との関係で説明している。しかしこの説明にもとづ けば、キリスト教は西欧諸国家の国家独立にとっても有害だという結論を避け難い。キリスト 教が西欧による侵略の先兵になったことは、会沢正志斎『新論』以来の共通の認識だった。福 沢はこうした論点を回避し、すべての問題を国家独立に有益か否かというプラグマティックな 平面に置き換えている。これでは、キリスト教が日本の固有性を脱色してしまうという水戸学 によって強調された危機感に対する応答になっていない。 福沢はキリスト教に対する敵意を水戸学などと共有しているが、その根拠づけは異なってい る。幕末維新期に尊王攘夷論という形で表出したエスニックな独自性の意識を、福沢は巧みに 換骨奪胎し、維新当初の祭政一致論を否定して普遍的なナショナリズム論に転換した。転轍機 の役割を果たしたのが、伝統的国体論のNationality論への組み替えである。しかし Nationality論も歴史の共有を核とした固有性の意識である以上、列強と対峙するために日本 人の固有性の意識をどこに求めるかが必然的な課題となる。『文明論之概略』で伝統的な国体 論を否定したとき、福沢はこの問題を十分に認識せず、おそらく無意識のうちに回避したのだ った。だから福沢は日本の固有性によって「偏頗心」を確保しなければならないという課題に 直面したとき、万世一系の皇統を核とした国体論にふたたび直面せざるを得なくなるのである。 2 立法者と市民宗教――初期の兆民 中江兆民が二年余りの留学を終えて、フランスから帰国したのは1874(明治7)年5月頃 だった4。帰国後まもなく、ルソー『社会契約論』の少なくとも一部分が「民約論」として翻 訳されている。刊行されることはなかったが、草稿の形で出回った。翌年、政府を批判する建 言書を執筆して旧薩摩藩主島津久光に献じた。現在、「策論」と呼ばれている文書で、幸徳秋 水『兆民先生』が伝えるところによれば、島津とのあいだに以下のようなやり取りがあったと いう。「公曰く、足下の論甚だ佳し。只だ之を実行するの難き耳と。先生乃ち進で曰く、何の ーーーーーーーーーーーーーーーー 4 以下の叙述については、拙著『兆民とその時代』(昭和堂、1989年)71頁以下を参照。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 難きことか之れ有らん、公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪ふて直ちに太政官を 囲ましめよ、事一挙に成らん、今や陸軍中乱を思ふ者多し、西郷にして来る、響の応ずるが如 くならんと5」。 島津は維新政府が扱いかねた難物だった。明治六年の政変で維新政府が分裂した後、島津は 内閣顧問や左大臣に就任したが、1875(明治8)年5月に各種の近代化政策を批判する建言書 を提出し、10月には太政大臣三条実美を弾劾する上書を提出して免官になった。兆民が島津 に面会して「策論」を提出したのは、島津の免官直前の8月か9月頃だった。 「策論」は島津を黒幕とし西郷隆盛を首班とするクーデターを提言したものだが、当時の状 況を考えると、兆民の建言には一笑に付し去ることができない迫真性がある。明治六年の政変 で下野した江藤新平は翌年2月に佐賀の乱で刑死し、西郷は鹿児島で私学校を設立して機会を 窺っていた。こうした状況下で、兆民は留学で世話になったといわれる大久保利通にも、同藩 の先輩である板垣退助にも期待せず、勝海舟の仲介で反動主義の象徴的存在である島津に接近 したのである。 「策論」は七つの部分からなり、全体として、儒教的モラルの強調が目立つ内容である。た とえば第一策では、妻妾同居を否定して家族道徳の確立を求め、第三策では、道義心を養うた めに学校教育に経伝の学習を取り入れることを説いている。ソクラテスやプラトンに淵源する 西欧の道学も、その中心テーゼは「仁義忠信」にあり、その点では儒教の徳目は普遍的真理だ と兆民は主張する。「策論」の執筆前に短期間在職した東京外国語学校でも、校長として孔孟 の書を学校の教科に加えるよう主張して、文部省当局と対立したといわれている6。フランス 帰りのバター臭い知識人が、儒教道徳の必要性を説いて譲らなかったのである。兆民と島津と の組み合わせは一見すると奇妙だが、兆民にとっては熟慮した末での選択だっただろう。 「策論」の結論部分である第七策で、かれは「国ノ草創ニ在テハ英傑制度ヲ造リ、既ニ開ク ルニ及ンデハ制度英傑ヲ造クル」(中江@32)というモンテスキューの言葉を引いている。こ れはルソーが『社会契約論』第二編第七章の立法者の章で引用している文章であり、兆民の構 想はルソーの立法者によって示唆されたものであることがわかる。ルソーは立法者について以 下のように書いている。「一つの人民に制度を与えようとあえて企てる程の人は、いわば人間 性を変える力」をもっていなければならない。立法者は、その人民がもともと持っていたもの を取りあげ、それに代えて、今まで持っていなかったものを与えるのでなければならず、その 意味でかれは「異常の人」である、と。 人民に新たな法を与える任務を負う立法者は、その人民の性質そのものを変える一種の革命 を実行することになる。「策論」第七策では、このことを「一種ノ憲制」の創設とし、その任 にあたる人物を「一人ノ理勢ニ達シテ且守ル所有ル者」(中江@33)と表現した。これがルソ ーのいう「異常の人」である。そしてこの立法者の政治理念に沿って、革命(クーデター)を 断行するのが「一人ノ宏度堅確且威望アル者」である。先の秋水が伝えるエピソードに従えば、 これは西郷に仮託されていたことになる。 兆民が「一定ノ憲制」と呼んだものは、ルソーの立法者が人民に与える社会契約の条項であ る。人民が社会契約をするには、その契約の条項が所与でなければならないが、人民自らそれ を作ることは不可能である。なぜならそれは、人民がすでにあるべきものになっていること、 ーーーーーーーーーーーーーー 5 幸徳秋水『兆民先生・兆民先生行状記』岩波文庫、1981年、14頁 6 幸徳秋水「故兆民先生追悼会の記」、『中江兆民全集』別巻、486頁以下参照。 ーーーーーーーーーーーーーー つまり「結果が原因となること」を想定することだからである。立法者の存在は『社会契約論』 の自己立法の理念に反する。ルソーの思想には様々な毒があるが、立法者の構想もそうした毒 のひとつである。この毒によってフランス革命のジャコバンたちは、政治的想像力を刺激され たのだった。兆民もまたジャコバンとは違った形で、草創期の明治国家を自らの理念に基づい て再構築し直そうとした。そのときかれが国家理念の中核に据えたのが儒教的モラルだったの である。ここで示された方向性は、西欧の学問を学んだ知識人としてはきわめて異色だが、か れは生涯その志向を変えることがなかった。 兆民はフランスから帰国後、私塾を営んでフランス語を教授しながら、他方では漢学塾に通 って漢学を本格的に学んだ。その傾倒ぶりは、1878(明治11)年から2年ほどの間に書かれ た数編の漢文の文章に顕著である。たとえば「民権論」は、隆盛に向いつつあった民権論を批 判して、「民権は政教より出づ、政教の民権より出づるに非ざるなり」(中江J6)と述べる。 つまり人民に権利さえ与えれば国家の富強を達成できるとする考え方を批判して、民権の発達 のためには、まずそれにふさわしい「政教」を具備しなければならないと説いているのである。 ここにいう「政教」が何を指しているかは必ずしも明快ではないが、議会政治を可能にするエ ートスという意味では、「文明の精神」の必要を説いた福沢と問題意識を共有している。しか し兆民の「政教」という語には、儒教道徳を基底にした政教一致の体制を理想としていたと思 われるので、実質的な内容はまったく異なる。福沢は西欧の多元主義的な社会構成こそ文明の 根源だと考えたが、兆民は社会の根底を基礎づけるのは道徳だと考え、その点では洋の東西の 違いはないと説いた。 両者の対立は、現代アメリカ政治理論における自由主義(リバータリアン)と共同体主義(コ ミュニタリアン)の対立に似通っている。自由主義は共通善の存在を否定し、個々人が他者を 犠牲にしない範囲で自己の欲求を達成できる社会を理想としている。他方、共同体主義は、共 通善の感覚がないところでは社会は存続できないと主張し、自由主義者が理想としている個人 の自由を第一原理とする社会も、一定の共通善(たとえば「他者を犠牲にしない」というモラ ル)を前提にしていると説く。それは個人と社会との関係においては、個人の自由を第一義と するか、個々人の社会への参加と自己犠牲を第一義とするかの違いとなって現れる。共同体主 義の根幹が共通善を基礎にした政治共同体の形成・維持という側面にあると考えれば、それは 共和主義の政教関係の両義性につながる。目的を共有する均質な市民からなる共同体は、利害 を基礎にした共同体とは異なって、目的達成のために市民の献身を要請する。ルソーの市民宗 教はこの問題を極限の形で表現したものだった。 ルソーは『社会契約論』の末尾で、共和主義の政治体制を基礎づける政治道徳を市民宗教と 呼んでいる。市民に義務の観念を植えつけ、国家への忠誠心を確保するために考案されたもの である。市民宗教の教理は、神の存在、来世の存在、正しい者の幸福、悪人にたいする刑罰、 社会契約と法の神聖さの五つからなる。神の存在や来世の存在は、市民宗教の本質である「社 会性の感情」とは無関係なようにみえるが、来世の存在を信じないものが国家のために生命を 犠牲にするとは考えられないというのが、ルソーの主張である。つまり市民宗教は信仰の内容 をできるだけ世俗化して彼岸的性格を弱め、市民の忠誠心を確保するとともに、古代の国家宗 教のような排他的で専制的な側面を排除しようとしたものである。 ルソーがここで目指しているのは、祭政一致を基本とする国家宗教や、市民の関心を来世に 向けてしまう「人間の宗教」を否定して、両者の中間に信仰の自由と両立する一種の公的宗教 を創設することだった。宗教的寛容の焦点が世俗国家の命じる義務との衝突にある以上、市民 宗教が命じる「市民としての義務」に反しないかぎりでの信仰の自由が、寛容の名に値するか どうか疑わしい。ルソーが提起した市民宗教には、根本的な危険性がはらんでいるのである。 しかしここに現れた国家への忠誠と内面の自由の対立は、草創期の国民国家がつねに直面しな ければならない問題だった。近代国家では、人民の意志が国家意志に直結するために、成員個々 人の意識を統合する手段がますます必要になる。近代国民国家が言語、宗教、伝統などの文化 を意図的に創出し7、国家統合の重要な梃子にしなければならないのはこうした事情によるの である。 1870年代の兆民の思想には、ルソー主義と儒教的徳治主義の結合が特徴的である。兆民が 留学したとき、フランスは第三共和政草創期にあった。共和主義者は、王党派やボナパルト派 に対抗して、共和主義の正当性を主張し、その思想的父祖としてルソーの政治思想に言及して いた。兆民が後に展開する「有限委任」(命令的委任mandat imperatif)や「土著兵論」(民 兵制)なども、当時の共和主義者たちの主張にもとづいている。兆民はそうした共和主義者の 言論を通じてルソーを受容し、その共和主義的徳の基底に儒教的なモラルを置いたのである。 先に言及した「民権論」という小文で「政教」という語を使ったとき、兆民が市民宗教religion civileを意識していたかどうかはわからない。しかし近代化=西欧化の波に抗して国民国家の 形成を構想していた兆民が、国家の礎石として期待したのは儒教的な国民道徳だった。そこに ルソーが市民宗教に託したのと同質の問題意識が働いていたのはまちがいない。その意味で、 同時期に書かれた「原政」が、儒教的な徳治主義をルソーに結びつけているのは興味深い。そ こでかれはつぎのように述べる。 政治の本質は政治が不要になるところにある。そのためには、人民が徳を重んじて善良にな る必要があるが、それにはふたつの方法がある。「道義」によるのが古代中国の方法で、「工芸」 によるのが西欧の方法である。西欧人は人間の欲望を肯定し、欲望を充足させるための闘争に よって学問や技術が発展すると考える。しかし人間の欲望は際限のないものであり、欲望を満 足させるための学問がもたらす害毒も無視できない。しかも自己利益の追求は人間相互の対立 を呼び起こすから、社会の混乱を招くことになる。ここで兆民はルソーを想起する。「余聞く、 仏人蘆騒書を著して頗る西土の政術を譏ると、其意蓋し教化を昌んにして芸術を抑えんと欲す、 此れ亦た政治に見るある者ならんか」(中江J17)。 いうまでもなく、兆民がここで想起しているのは『学問芸術論』や『不平等起原論』である。 これらの著作でルソーは、文明の発達によって欲望が肥大する以前の人間の姿を描き出した。 道徳の核となる憐れみの情と、自己保存に必要なかぎりでの欲望しか持っていなかった自然人 は、自己完成能力perfectibiliteの発動によって、欲望を際限なく肥大させ自己疎外に陥る。 文明とともに発展した学問芸術も、人間の本来の徳性を堕落させ、社会を虚飾、嫉妬、競争の 巷にしてしまう。文明に対してこのように否定的な態度をとることで、ルソーは近代個人主義 に対するロマン主義的な批判の先駆者となったが、それは『社会契約論』の市民宗教の着想に つながっていった。『学問芸術論』や『不平等起原論』における利己主義的な自我への批判が、 国家形成を論じた『社会契約論』では、社会的絆の解体を道徳によって阻止しようという企図 となって現れるのである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 7 たとえばE・ホブズボウム、T・レンジャー編『創られた伝統』前川啓治・梶原景昭ほか訳、紀伊国 屋書店、1997年、を参照 ーーーーーーーーーーーーー 8 『米欧回覧実記』(5)、岩波文庫、1982年、160頁 9 この点については、伊藤弥彦『維新と人心』東京大学出版会、1999年、第4章を参照。 10 以下の叙述については、拙著『近代日本のアイデンティティと政治』(ミネルヴァ書房、2002年) 第1章を参照。 ーーーーーーーーーーーーーー 兆民はルソーが提示した問題を一貫して儒教の理想と関連づけて理解している。儒教は本質 的に政治道徳で、個人道徳(修身)が国家道徳(治国平天下)に接続するから、市民宗教の発 想になじみやすいのである。しかも初期のルソーが強調した反功利主義的な姿勢は、「利」を 否定する儒教道徳と親和した。 儒教道徳と西欧近代の個人主義との対立は、明治初期の知識人が等しく意識したことだった。 代表的な例として、岩倉使節団に同行した久米邦武『米欧回覧実記』を挙げてみよう8。この 書の第5巻第89章「欧羅巴州政俗総論」で、久米は西欧社会の基本は「利欲ノ競争」にある と説き、「自主ノ利」の本質は「私利ヲ営求スル一意」だと喝破している。そして西欧の政治 原理は「権義」(justice)と「社会ノ親睦」(society)からなり、一見すると東洋の仁義(justice が義、societyが仁)に相当するようにみえるが、西欧のふたつの原理は「財産ヲ保ツ」ことに 主眼があるので、仁義とは正反対だと論じる。 久米の主張は、儒教にアイデンティティの根拠をおいていた知識人が、西欧の自由主義に接 したときに発するきわめて自然な反応だった。久米は外国語が読めなかったが、兆民は当代フ ランス学の第一人者である。ここに西欧的な文明開化に対する兆民の独特の姿勢がある。 3 1881年の転換――国体論と脱亜論 1881(明治14)年は、明治国家の転換点だっただけでなく、福沢と兆民の思想の展開にと っても大きな転換点になった。まず福沢から述べよう。 福沢は前年末に大隈重信邸で伊藤博文、井上馨と会見し、三人から政府機関新聞の発行を依 頼された。翌年1月早々、福沢は井上邸を訪れてこの依頼を謝絶したが、井上から政府が国会 開設の意向であることを告白されて感激し、協力を約束した。しかしその後、伊藤と井上が井 上毅の働きかけで福沢に不信感を抱くようになり9、新聞発行は立ち消えになった。そのうえ 10月に起った明治14年の政変で、福沢に近い大隈が排斥され、これと連動して福沢の影響も 政府部内から一掃された。政府はこの後帝国憲法(1889年)と教育勅語(1890年)に象徴さ れる体制構築に突き進んだので、政変によって排斥された福沢は、明治憲法体制と対立するリ ベラルと位置づけられる重要な根拠になっている。 結論を先にいえば、わたしはここでこの通説に反対して、福沢が明治国家体制の構築に重要 な理論的根拠を与えたという側面を強調したい10。まず政変の直前に福沢は『時事小言』を 公刊した。その第6編は「国民の気力を養ふ事」と題され、愛国心をいかに要請するかが論じ られている。ここで福沢は「一国人民に固有の宗教と其政治と密着すれば、宗教は如何なる種 類のものにても人民護国の気力を害するに足らざるなり」(D217)と論じている。 これはまさにルソーの市民宗教の問題である。福沢は『文明論之概略』でキリスト教の教義 が平等主義だから、愛国心と対立すると論じていた。『時事小言』での反対理由は教義の問題 ではない。キリスト教が日本に「外教」だからである。つまりキリスト教は西欧諸国にとって は「其国固有の宗教」で「国権と宗権とを合併」する意味があるのに対して、日本にとっては 国民の精神を西欧に従属させ「属国たるの情」をもたらすことになる。だからキリスト教徒に 対して、「今日我国に於て耶蘇の教を学ぶ者は、西洋人の師恩を荷ひ、西洋諸国を以て精神の 11 『時事小言』の執筆前後に、福沢は三河の「天主教徒自葬事件」に深くかかわった。東本願寺派の 共同墓地に天主教徒がキリスト教式の埋葬をして、仏教徒の村民と訴訟になった事件である。福沢は村 民のために訴状を代筆し、塾生を派遣して外教排撃の演説行脚をさせ、さらにこの事件の重大性につい て大隈重信、田中不二麿に訴えている。訴状は「埋葬引払控訴補遺」(『福沢諭吉全集』第二〇巻、二二 五頁以下)、大隈、田中への書簡は『福沢諭吉書簡集』第三巻(岩波書店、二〇〇一年)の五八九、五 九〇の書簡を参照。これらの資料は、村民の訴えが法的に正当性がないことを、福沢が承知していたこ とを示唆している。中村道太宛書簡では「右之詞訟ハ、固より村民之方ニ理あるハ申迄も無之、仮令或 ハ無理ニ而も、国権之伸縮を標準ニ立てゝ、断然勝利を為得候方当然之義、即チ無理之理なる者なり」 (前掲『福沢諭吉書簡集』第三巻、一四三頁)と書いている(前掲『福沢諭吉書簡集』第三巻、一四三 頁)。『時事小言』に示されたキリスト教への危機感が、いかに深刻なものだったかがわかる。この時期 にかれが三田演説会で「宗教論」(あるいは「宗教の説」)と題する演説を何度も行なっているのも、こ うした危機意識の表現であろう。 師と為す者なり」(福沢D214)と激しい批判が投げつけられる11。ここでかれは会沢正志斎 と同じ地点に立ったのである。 「外教」としてのキリスト教に対抗するのは、日本「固有」のものでなければならない。福 沢の認識では、日本の「国教」は仏教である。明治維新以後、祭政一致の理念にもとづいて神 道が宗教的な役割を持つにようになっていたが、福沢はこれに反対して、神道は宗教ではなく 「日本固有の道」であると主張する。そして固有の宗教たる仏教と固有の道たる神道が、外教 排撃のために共同戦線を組むべきだと提言している。 あたかも福沢の主張に沿うように、政府は1882(明治15)年1月に神官が葬儀に関与しな い旨の内務省達が出し、神道非宗教論が政府の公式見解になる。福沢はこれを『時事新報』の 論説「神官の職務」で取りあげ、神道は「敬神の教」を説くもので宗教ではないとの原理が成 立したことに満足の意を表明する。そして神官の職務は、日本の歴史を講ずることによって「懐 旧の感」を生ぜしめ「国権の気」を養うことだとして、つぎのように述べる。「我日本の如き は開闢以来一系万世の君を戴て曾て外国の侵凌を蒙りたることなく、金甌無缺は実に其字義の 如くにして曾て尺寸の地を失はざるものなれば、古来の国史を開て之を読めば愈々益々勇気を 増さゞる者なかる可し」(福沢G81)。前述のように。ミルにならって歴史の共有こそナショナ リズムの核心と考えていた福沢は、アイデンティティの根拠を神道に求め、神道非宗教論の成 立によって、それが「ナショナリチ」喚起の役割を担うに足る存在となったと判断した。ミル のナショナリティ論と福沢の国体論の齟齬は、キリスト教を「外教」と捉え、それに対抗する ための国体の中核を発見することによって解消されたのである。 ここで無視できないのは、ナショナリズムの中心となる「懐旧の感」が万世一系の皇統と不 可分と考えられるに至ったことである。『時事新報』での「帝室論」の連載が、神道非宗教論 を論じた「神官の職務」のちょうど一週間後に開始されている事実は、福沢の問題意識のあり かをよく示している。つまりここに至って、エスニックなアイデンティティの根拠を万世一系 の皇室にもとめる構想が鮮明になってくるのである。『文明論之概略』ではそれは「虚威に惑 溺したる妄誕」と一擲されていたことを考えれば、福沢の変化の重大性が理解できるだろう。 「無偏無党の一焼点」としての皇室の尊厳を確立し、これを「動かす可らざるの国体」(福 沢E一八)とするという『尊王論』の構想は、『帝室論』以後の福沢の一貫した主張である。 こうした考えが鮮明になった1882年の段階では、キリスト教にたいする危機感が背景にあっ た。したがって文明の普遍性が説かれる一方で、歴史や伝統への訴えかけによる「ナショナリ チ」防衛という意図も強く出ている。 しかし条約改正による内地雑居が焦点になりかけた1884年になると、福沢はこのあいまい 12 この論説に関連した明治政府の動きについては、山口輝臣『明治国家と宗教』(東京大学出版会、一 九九九年)第三章を参照。 な態度に決着をつけざるをえなくなる。福沢の迷いを端的に示すのが、この年の5月に発表さ れた「開鎖論」である。福沢はここで将来の戦略として鎖国と開国のふたつの選択肢を提出す る。つまり万事にわたってあくまで「我れは我れたり」の態度を持すか、逆に西洋と「風俗習 慣をも同一様にするの方略」を取るかの選択である(福沢H495)。鎖国論はかつての無知な攘 夷論ではなく国際的な「同等同権」の主張にほかならないが、西洋人が東洋人を「一種劣等の ものなりと妄信」している現状では、「暗に敵対の元素」を含んでいる(福沢H491)。しかし 日本がこれまで独立を維持してきたのは「自立の力」によるもので、けっして「偶然の僥倖」 によるのではないことを考えれば、実力からしても国民的自負心からしても、鎖国論を取るこ とは不可能ではないと福沢は考える。 福沢が「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず12」を書いてキリスト教脅威論を撤回するのはこ の2週間後である。この論説でかれは動物の保護色の比喩を援用し、風俗宗教を異にすれば「外 道国視」される現状がある以上、「文明の色相」に覆われてみずから保護するしかないと論ず る。「文物制度も彼れに似せ、習慣宗教も彼れに似せ、一切万事、西洋と其色を同うして其間 に異相あるを覚へざらしめ、彼れをして其互に区別する所なきを視て我を疎外するの念を絶た しむるに若かざるなり」(福沢H531)。 保護色の比喩を使ったこの文章には、福沢に似合わぬある種の卑屈さが表出している。その 背後には、欧米人からの差別的なまなざしがあった。これは、明示するか否かの違いはあるが、 近代日本の多くの知識人が感じとっていたものである。「開鎖論」では、こうしたまなざしを 意識しながら、「我れは我れたり」の態度をとることも選択肢のひとつだと述べた。しかし福 沢のプラグマティズムは、結局、保護色によって、この差別的まなざしを避ける選択をする。 福沢がこのような決断をする背景にはふたつの事情があったと考えられる。ひとつは内地雑居 になればキリスト教の蔓延は防ぎがたいという状況判断である。防げないとすれば、「容るゝ が如く拒むが如く」のあいまいな態度は西洋諸国の不信と軽侮を招くだけだから、「断然之を 容るゝに一決」したほうが得策との政治的判断があった(福沢H535)。この文章の卑屈なニ ュアンスは、受身に立った福沢の差し迫った決断によるのだろう。 しかしこの決断にはもうひとつ別の配慮が働いていたと考えられる。中国との差異の強調で ある。すでに前年の10月に発表された「外交論」で、「亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を 出現」させる覚悟で、「大なる差支」がないかぎり「社会日常の細事」まで「西洋の風」に倣 うべきだとかれは説いていた(福沢H196)。朝鮮中国と距離を置く姿勢はすでに『時事小言』 の頃から顕著になっており、とくに1882年の壬午事変以後、朝鮮をめぐる清国との対立によ ってその傾向が強まった。「亜細亜の古国」との決別は、たんに国家独立のための文明移入と いう観点から必要とされているのではない。「西洋人の眼中」に日本がどう映るかを福沢は問 うている。「西洋人が局外より日本支那を対照し、果して日本は支那に優るとの思想を懐くべ きや如何ん」(「日本は支那の為に蔽はれざるを期すべし」、福沢H414)。結局、日本は「尋常 東洋の一列国」とみなされるのではないかと、福沢は憂慮する(「輔車唇歯の古諺恃むに足ら ず」、福沢I33)。有名な「脱亜論」は、日本国民の精神が「亜細亜の固陋」を脱して西洋文明 の域に達したと主張しているが、これが差異を強調するための戦略的発言であることはいうま でもない(福沢I239)。 日本文明化の戦略を「脱亜」に定めた福沢は、他方では西欧との差異を特徴づけるために国 体論を展開しなければならなかった。この二重の差異化が複雑な心理的結果を生み出したこと は想像に難くない。国際的地位の上昇のためには日本と中国との差異を強調し、西洋から違っ た目で見られる必要があったから、福沢は欧米人からどのように見られるかを問題にした。し かし存在(etre)と見かけ(papaitre)をこのように意識的に使い分ける態度は、いくら見か けを装ってもふさわしい認知を得られないというフラストレーションを生むだけでなく、深刻 なアイデンティティ危機を呼び起こしやすい。ここに「脱亜」と「興亜」のあいだを動揺する 日本ナショナリズムの特徴ができあがった。 他方、国体論は福沢の思想に共同体主義の色彩を付加した。福沢は、丸山眞男以来の戦後の 福沢論が基調としたような、明治国家と対立するリベラルではない。福沢の言説からリベラル な要素を引き出すことは容易だが、1881年以後の福沢には明治国家を基礎づける共同体主義 の原理も共存していた。 4 「リベルテーモラル」の構想 1881年は中江兆民にとっても大きな転換の年となった。西南戦争後、1878(明治11)年の 愛国社再興大会で本格化した自由民権運動は、1880年の第4回愛国社大会で国会期成同盟と 改称し、全国的な広がりを見せ始めた。国会期成同盟に参加した一部の活動家は自由党結成を 呼びかけ、1880年末に自由党準備会が開催された。兆民はこれに出席している。その後この 自由党準備会に集まった知識人の一部が、翌1881年3月に『東洋自由新聞』を発刊した。社 長にフランス留学から帰国して間もない公家の西園寺公望が就任し、兆民は主筆格で参加した。 この新聞は西園寺が内勅で退社を余儀なくされたこともあって34号で廃刊になったが、兆民 はここに特徴あるいくつかの論文を書いている。 ここで取りあげたいのは第1号に掲載された「リベルテーモラル」に関する社説である。兆 民は「リベルテーモラルトハ我ガ精神心思ノ絶エテ他物ノ束縛ヲ受ケズ、完全発達シテ余力無 キヲ得ルヲ謂フ」と説明し、さらに道徳的に正しければ敵が百万人いても「我行かん」という 気持になると論じた『孟子』の「浩然の気」が援用される。「古人所謂義ト道トニ配スル浩然 ノ一気ハ即チ此物ナリ、内ニ省ミテ疚シカラズ自ラ反シテ縮キモ亦此物ニシテ(後略)」。 兆民がここで論じた「リベルテーモラル」は、もともとルソーが『社会契約論』第1編第8 章で論及した概念である。ルソーによれば、人間は自然状態から社会状態に移行することによ って、自然的自由を失って社会的自由を獲得するが、このとき初めて「自己を唯一の主人たら しめる道徳的自由liberte morale」をも獲得する。つまり欲望の赴くままに生きた自然状態か ら、自己立法を原則とする社会状態になったことにより、人間は自ら作った法に従う自由を得 る。 ルソーに特徴的なこの道徳的自由の観念は、カント『実践理性批判』で詳細に展開されるこ とになった。兆民のフランス留学時代に、カントをふまえて道徳的自由を説いていたのが共和 主義者のジュール・バルニである。バルニの著『民主政における道徳』は兆民によって「民主 国の道徳」として翻訳されており、そこでは「リベルテーモラル」はつぎのように説明されて いる。「試ニ思ヲ反シ内ニ省ミテ一タビ観念セヨ、吾人心中必ズ一種霊活ノ力有リテ、善ヲ為 サント欲セバ亦之ヲ為スコトヲ得ルコトヲ見ン」。人間は善悪を判断することができ、善を行 ない悪を行なわない自由をもっている。これが兆民のいう「リベルテーモラル」である。 1881年に兆民がルソーに依拠して道徳的自由を強調したことには、いくつかの含意がある。 まず第一は功利主義批判である。すでにルソーと儒教に依拠して功利主義の「公利」観を批判 していた兆民は、自由論においても、欲望追求を第一とする功利主義的自由論を、道徳的自由 の観念にもとづいて批判したのである。そこにはミルに影響を受けた福沢や自由民権派の自由 論に対するアンティ・テーゼを提出する意図があったと考えてよい。ルソーの『学問芸術論』 を「非開化論」(1883年)として翻訳したのも、啓蒙思想批判の意図を明確に示したものだっ た。 第二に、「リベルテーモラル」の観念の提出が、自由民権運動への関与と不可分だったこと である。「リベルテーモラル」を論じた文章が、自由民権派の新聞の社説として発表されたの は偶然とはいえない。立法者の理念にもとづいて政治改革を目指していたかつての兆民は、自 らを為政者の立場に置いていた。同じくルソーに依拠して構想されたとはいえ、「リベルテー モラル」は共和政(兆民の言葉では「君民共治」)との関わりで論じられており、共和政を基 礎づける市民的徳性の問題として提出されている。それは立法者のような上からの体制構想で はなく、いわば下からの政治的主体形成の論理だった。福沢が「駄民権」と切って棄てた民権 論を、兆民は運動の道徳的主体の改革という観点から支えようとしたのである。兆民は相変ら ず政治的共同体の基礎をなす道徳について論じながら、市民宗教ではなく個々人の自由に強調 点を移した。つまり福沢とは逆に、兆民は共同体主義の立場を堅持しながら、自由主義の問題 意識を取り込もうとしたのである。 第三に、「リベルテーモラル」の観念が、兆民にとって決して一時的な思いつきではなかっ たことを強調しておかねばならない。『東洋自由新聞』の社説以後、かれの著作の主たるテー マはこの問題に向けられている。1880年代になされたフランス共和主義の政治哲学の翻訳『理 学沿革史』、『理学鉤玄』はこの問題と関係しているし、実業時代の唯一のまとまった仕事『道 徳学大原論』(ショウペンハウアーの仏語訳からの重訳)は「リベルテーモラル」をテーマに したものだった。そして癌に侵された死の床で死力を尽して書いた最後の著作『続一年有半』 で、かれが唱えた「ナカエニスム」は、「リベルテーモラル」の観念を日本語の文脈に定着さ せる試みだったといってよい。つまり1881年以後、「リベルテーモラル」の観念を究明するこ とがかれのライフワークとなったのである。 よく知られる兆民の主著のひとつ『三酔人経綸問答』(1887年)の主題も、「リベルテーモ ラル」にかかわっている。この本の主題はしばしば誤解されているが、兆民の意図は社会進化 論を「進化神」崇拝として批判することだった。社会進化論は1880年代前半に隆盛をきわめ ており、当時のベストセラーとなった徳富蘇峰の『将来之日本』でも援用されていた。兆民は 進化論の教説のなかに、歴史の進化を社会の「大勢」に委ねる思考を見てとった。この道徳的 主体形成を無化する思考こそ、兆民が『三酔人経綸問答』でやり玉にあげたものにほかならな い。兆民にとって、進化論は単なる結果の正当化の教説にすぎなかった。「進化の理とは、天 下の事物が経過せし所の跡に就いて、名を命ずる所なり」。つまり社会における人間的営為の 結果を、あたかもあらかじめ定められたコースをたどったかのように説明する教説が進化論で ある。これに対して兆民は「進化神は、社会の頭上に厳臨するに非ず、又社会の脚下に潜伏す るに非ずして、人々の脳髄中に蟠踞する者なり」と批判する。つまり「人々の脳髄」にもとづ く主体的営為こそ歴史を創るのというのである。 おわりに 1881年以後の福沢と兆民の思想的営みを以上のように理解すれば、両者がはさみ状に乖離 していったことがわかるだろう。福沢は『時事小言』、『帝室論』、『尊王論』などの著述を通し て、万世一系の天皇を国体の中核におく構想を明確にした。結果として、それは伊藤博文や井 上毅が創りあげた明治憲法体制と合致する。内における自由民権論、外に対するキリスト教に 対抗するために、福沢がさしあたり説いたのは社会の多元性ではなく官民調和であり、仏教と 神道の共同戦線であり、万世一系の皇室にもとづく国体論だった。もちろん福沢は、日本がい ずれ多元的な社会になり、物事が多数決によって決定されるようになることを見通している。 だがこの時点での福沢の診断では、日本人は「一個大人の指示に従て進退するの習慣」(『尊王 論』)であり、この大人の役割を振り当てられたのは天皇だった。 兆民の「リベルテーモラル」が、福沢が説いた「大人主義」と鋭く対立するものであること は言うまでもない。兆民は何より個々人の道徳的自立性にもとづく政治的共同体の確立をめざ した。そこでは個人と国家の関係は以下のように説明される。「割出すものと、割出されたる ものと、誠に実に少しの区別有り、少しなれども区別は区別なり、毫里千里、新羅大唐、割出 すもの是れ個人、割出されたるもの是れ国家、政府の設けは、個人を安んずるが為めなり、兵 馬の設けは、個人を護るが為めなり、鉄道の布設は個人を運ぶが為めなり、官立学校は個人を 教ゆるが為めなり」(中江K101)。政治的共同体の自存と個人の自由とのぎりぎりの選択を迫 られたとき、兆民は個人の自由を選択すると宣言している。1870年代に共同体主義の立場を とり、儒教に根ざした政教一致体制を構想した兆民は、ここで個人の道徳的自由こそ最後の生 命線だと論じているのである。