伊藤博文と韓国併合:/上 近代化による韓国独立保持を意図=伊藤之雄毎日新聞 2010年7月13日 東京夕刊 ◇時代の制約踏まえた歴史理解を昨年10月26日は伊藤博文没後100年、また本年8月22日は韓国併合100年である。それを前に、「伊藤博文と韓国統治」のテーマで、日韓の研究者十数人で3年間研究会を行い、昨年6月、韓国の啓明大学の李盛煥(イスンハン)教授と共編著の『伊藤博文と韓国統治』を出版した。韓国でもほぼ同時に翻訳版が出版され、その本は韓国文化省の2010年優秀学術図書に選定された。また私は右の成果も盛り込んで、一般の方にもわかりやすい評伝『伊藤博文』を昨年11月に出版し、幸いにも版を重ねている。 さて、今年になって韓国併合が各方面でとりあげられている。伊藤博文との関連では、NHKテレビ「韓国併合への道」が本年4月18日に放送され、関心を集めた。アカデミズムの雑誌でも、本年1月に『思想』が、6、7月に『歴史学研究』が、韓国併合100年に関連した特集号を出した。二つの雑誌の特集号自体は意義あることだが、執筆者の一部が事実を追究することより感情を先行させて論を立てているのを、残念に思う。伊藤やその周りの人々が書いた手紙や日記・書類などの一次史料を新しく使って、私が導いた結論をまず紹介しよう。 伊藤は、帝国主義の時代の列強の国際ルールに制約された韓国統治を行った。そのルールとは、自国を防衛する力がない国は侵略されても仕方がないというものである。伊藤は、日露戦争が起きた一因は韓国が不安定だったからだと確信し、韓国は独力では独立を維持するのが困難だと判断した。そこで日露戦争直後の1905年、韓国に統監として赴任、日本の強い指導と援助の下で韓国の近代化を達成し、日本の安全保障と韓国の独立を保持しようとした。 それに対し、韓国皇帝高宗(コジョン)はオランダのハーグで開かれた国際平和会議に密使を送り、07年6月に日本の行為が不当だと訴えたが、どの列強も相手にしなかった。 伊藤博文は韓国併合に反対であり、韓国国民に帝国主義の時代の厳しさを知らしめ、その自発的な協力を得て韓国を近代化させようとした。しかし彼の統治は韓国国民の支持を得られず、09年4月には併合に賛成せざるを得ないと決意するに至った。しかし併合後も、朝鮮に朝鮮人の「責任内閣」と植民地議会を置く形で、ある程度の「自治権」を与え、朝鮮の人々と対話を続けていくことが大事だと考えていた。また、「武装の平和」である帝国主義の時代を、批判的に見る観点も持つようになった。 伊藤が暗殺されたため、併合の時期は早まり、朝鮮は山県有朋系の軍人総督の下で、軍人と官僚によって支配されるという、伊藤の意図とは異なった形の併合となった。 これに対し、先に触れた一部の研究者たちは、どの帝国主義も植民地住民を収奪するのであり、伊藤が「よりましな帝国主義者」であっても意味がない、とする。彼らは伊藤の考えをその時代の中で把握しようとする姿勢が弱いので、伊藤に即した史料を十分に読まず、ハーグ密使事件の前後に伊藤が併合を決意したとか、伊藤暗殺が併合に与えた影響は大きくなかったとかの、事実でない見解に固執する。あげくの果てには、日清戦争後の朝鮮王妃殺害事件まで、当時首相だった伊藤が関係していたと主張する。 帝国主義の時代が二度と繰り返されることはあってはならない。しかし現代に生きる私たちも、地球環境問題などで各国の利害が絡み、なかなか有効な手立てがとれないように、時代に制約されて生きている。大切なことは、その時代の矛盾とどのように格闘し、新しい時代を模索したかである。歴史が現代人に本当の教訓や勇気を与えてくれて意味を持つのは、この点においてである。先入観にとらわれず事実を求め理解を深めることが、今後ますます必要になってきている。(いとう・ゆきお=京都大教授・日本近現代史) ============== ◇いとう・ひろぶみ(1841〜1909)長州藩士として尊王攘夷(じょうい)運動、倒幕に活躍。明治維新後、大日本帝国憲法の制定に尽力し、1885年の内閣制度開設に伴い、初代内閣総理大臣に就いた。4次の内閣を組織する一方、1900年には自ら立憲政友会を結成し、総裁となった。韓国を日本の保護国とした第2次日韓協約(05年)に基づき、韓国統監府の初代統監に就任。09年10月、中国・ハルビン駅頭で韓国の独立運動家の安重根に暗殺された。 ──────────────────────────────────────
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