世に倦む日日


村上春樹『1Q84』と生きた2009年 − 「永遠の愛」の三類型

昨日(12/4)、村上春樹の『1Q84』が今年のベストセ ラーになったニュースが紹介された。上下2巻の発行部数は223万部で、文芸部門の作品が総合1位になるのは、トーハンで は集計を始めた90年以来初の快挙だと言う。今年は『1Q84』の一年だった。私にとっての2009年は、政権交代の年ではなくて『1Q84』の年であ り、そのように記憶に刻まれるだろう。今回、洋泉社編集部から好意を得てMOOK 本に書評を寄せる機会に恵まれ、『1Q84』のカルチャームーブメントの一端に参加できた。このことは私にとって大きな喜びであり、ささやかなが ら人生の記念碑になるものである。この本を読み、物語の意味を考え、ドラマの世界に耽りながら、私の今年一年の時間が過ぎた。最初に読んだときの感想を率 直に言えば、ストーリーが散漫かつ不全で、骨格で構成された身体全体の中で筋肉よりも脂肪が多く、ふくらし粉のようにページ数が嵩張っている印象を受け た。作品の完成度や感動の盛り上げの点では、明らかに『海辺のカフカ』の方が上だと思ったし、その評価は現在でも変わらない。だが、『1Q84』は余韻が 残るのである。後を引くのだ。読書時の感動よりも、読後の余韻が意識を捉え、その世界に碇づけられて容易に関心が離れないのである。『海辺のカフカ』はそ うではなかった。これほど長く余韻が続かなかった。大きな感動のうねりと村上春樹の文学的天才への敬服で終わりだった。 

私は、今も『1Q84』 のテーマやメッセージについて考え続けている。そして、私なりの『1Q84』の読み方と作品の表象と観念ができ、そのラフな素描図を人に説得しようとして いる。『1Q84』は高度で難解で豊穣な文芸大作で、そこには現代世界を解釈する思想的な啓示や叡智が宝石箱のように散りばめられていて、それを読むこと は、無限に深遠な暗喩の宇宙空間を遊泳することである。とても文学に素人な凡人が批評できる類の作品ではなかったが、私は私独自の理解と言うか接し方(イ ンターフェース)を作品に対して持つことができた。不思議なことに、また滑稽なことかも知れないが、私は私の『1Q84』の読み解き方に自信を持ってい る。この作品のテーマは「永遠の愛」であり、「永遠の愛」の絆で結ばれて生きていく男と女を描いたラブストーリーだ。青豆が自由が丘のアパートの部屋で育 てていたゴムの木の花言葉である「永遠の愛」。最後の場面で青豆が拳銃自殺を図るのは、天吾の身を「リトル・ピープル」の魔手から守るためである。迷い込 んだ世界が塞がれて、首都高速3号線の出口から脱出することの不可能を確認し、自分が地上から消える以外に天吾の見を守る術がない真実を悟ったため、衝撃 の最後の結末に至るのである。あの小説全体の中で、最も印象的な物語の中核は、10歳の二人が手を強く握り合う「性体験」の瞬間である。大人の身体や欲望 を持った男女の性行為ではないけれど、あれは性の初体験そのものだ。

だから、私の読み方は、私が 『1Q84』から受けたインスピレーションは、必然的に次のようなものになる。現代人は、切なく、狂おしく、「永遠の愛」の信仰の中に生きていて、その信 仰にすがって生きざるを得ない。誰かが自分の「永遠の愛」の相手であり、その存在を信じ、その出現を信じ、その奇跡と救済を切望して生きている。どこかに 自分にとっての青豆がいる。どこかに自分の天吾がいて、自分のことを遠くから見守っている。二人は心と心が繋がっていて、死ぬまで永遠に切り離されること はない。夢の中で互いに行き来し通じ合う。人は「永遠の愛」を信じ、それを生きる糧として、日々の苦難と不幸を耐えるのである。「永遠の愛」の宗教。 『1Q84』はその真実をわれわれに説得しているのではないか。そして、その啓示に触発されたとき、『1Q84』の教義に納得したとき、われわれ一人一人 に突きつけられるのは、それではあなたの青豆は、天吾は誰ですかという問題だ。その場合、回答の立場は三つに分かれる。第一は、現在の伴侶が「永遠の愛」 の相手ですと答える型。第二は、その相手には未だめぐり会えておらず、これから出会うのだと答える型。第三は、これまで出会った男(女)の中で、きっとあ の男(女)が天吾(青豆)だと答える型。その三類型に分かれる。第一の類型の典型が天皇陛下と皇后陛下の関係になり、青豆と天吾は第三の類型ということに なる。「永遠の愛」の宗教に折伏されて入信するとき、われわれは、自分をその三類型のうちのどこかに所属せじめるのである。

すなわち、「永遠の愛」の三類型。そしてまた、どうやら世俗の衆生の実情を見れば、自ら所属を確信する三類型もまた、 時に応じて変容せざるを得ず、自分は第一類型だと思っていたものが第二類型に変わったり、第三類型だと思っていたものが第一類型に変わったり、そこからま た第二類型に変わったり、移ろいを遂げざるを得ず、揺らぎと嘆きの中で「永遠の愛」を求めて生きざるを得ないのである。天皇陛下と皇后陛下のような理念的 な第一類型は希であり、青豆と天吾のような理念的な第三類型も希であろう。だが、三類型の動揺と変遷を余儀なくされても、運命が人を第一類型から第二類型 へ配置転換を命じても、第三類型の居住証明を破棄宣告されて第二類型の荒野に放逐されても、人は「永遠の愛」の信仰から簡単に解き放たれることはなく、傷 つきながら、心の血を流しながら、「永遠の愛」の奇跡と救済を信じ続けるに違いないのだ。何故なら、信仰する「永遠の愛」の相手とは、他者ではなく自分自 身だからである。青豆は天吾であり、天吾は青豆である。決して他人ではない。自分自身が対象に投影されている。そこには自分の運命が蓄積されている。「永 遠の愛」を信じることは、自分自身を愛し信じることに違いなく、だから、その信仰を捨てることはできないのだ。人は自分を愛し信じることをやめることはで きない。皇后陛下にとって愛する天皇陛下は自分自身だ。二人は別人格でありながら別人格ではない。「永遠の愛」の信仰にコミットしたとき、第一類型でも第 三類型もない者は、第二類型のポジションで運命の人との出会いを待機することになる。

私 が『1Q84』を読みながら思ったのは、昨年の秋葉原事件の加藤智大のことであり、例の「彼女がいない」の問題 だった。今、日本の格差社会の現実は、われわれの想像を絶して悲惨な勢いで世の中全体を覆っていて、高校生の段階で人は自由で正常でフラットな人間関係の 前提が与えられなくなっている。人が人として他者と自然に向き合って関係できるのは、人間らしい出会い方や触れ合い方ができるのは、小学校とか中学校の環 境でしかないのではないか。貧困という現実が突きつけられ、家庭の事情で大学進学できないとか、高校中退に追い込まれるとか、学費捻出のためにアルバイト を余儀なくされるとか、そういう光景が学園社会の日常となり、運がよくて非正規労働、悪ければフリーターという状況に置かれたとき、裕福な家庭の子だけが 労せず進学できるとなったとき、そこでの一人一人の関係は、その先の社会での冷たい断絶的な関係と何も変わらなくなる。奴隷に恋愛は認められないのだ。奴 隷は家族を持つことを許されない。奴隷は、アフリカから船で運搬され、ニューオリンズの港で陸揚げされ、市場で売り買いされて、死ぬまで綿花農園で酷使さ れるだけである。労働できなくなるまで労働させられて死ぬだけだ。格差社会を作り上げた日本の新自由主義は、貧困の境遇にある若者に恋愛と結婚を許さな い。結婚して幸福な家庭を築く夢を与えない。そんな中で生きる一人一人にとって、「永遠の愛」の信仰はどれほど切実なものだろう。一人一人の心の中にいる 「青豆」は、あるいは「天吾」は、どれほど哀しく愛おしい存在だろう。私は、『1Q84』を読みながら、そのようなことを考えた。

私が村上春樹から受け取ったメッセージは、上のようなものである。この読み方は私だけのものだろうし、文芸評論家の批 評とは趣を異にする。私は、村上春樹の現代社会をグリップする力に感銘を受け、20年前からずっと村上春樹の小説だけを追いかけてきた。私は、普通の人な ら誰でも読んでいるような世界文学全集の古典一般すらろくに読んでない門外漢で、小説とか文学とか言われると怖じ気づいて人の後ろに隠れてしまう方であ る。あの頃、日本の社会科学は急速に衰退し、岩波と東大は砂漠的に官僚化し、サラリーマン化して説得力を失い、人に知識を与えられなくなった。官僚化と脱 構築化がパラレルに進み、文化的思想的な影響力を喪失して行っていた。東京の本屋の棚を眺め、新著を手にとって頁をめくる度に、私は溜息をついて不愉快な 気分で鬱屈していた。そんな時に、村上春樹と出会い、村上春樹が時代をグリップしている姿に興奮を覚えた。社会科学の人間がやらなければならないことを村 上春樹が見事にやっている。村上春樹を尊敬した。今回、最初に『1Q84』を読んだとき、村上春樹の現代社会をグリップする力は衰えたのではないかと一瞬 感じた。だが、それは私の勘違いだと次第に気づいた。私がそう思ったのは、物語の中に「私」がいなかったからである。これまでは、特に『ダンス・ダンス・ ダンス』とか『国境の南、太陽の西』の主人公は私自身だったから。しかし、時間が経つに連れ、村上春樹が現代を正面からグリップしている事実に気づき直し た。格差社会を生きる若者の姿が見事に映し出されているではないか。加藤智大の「彼女がいない」の呻きが浮かび上がるではないか。

村上春樹が作品で直接にグリップしたのは、私のような年配者ではなく、もっと若い人間だったのだ。読者の年齢層のター ゲットを下げる試みは、すでに『アフターダーク』で試験的に行われていた。その予行演習で体得した方法が、『1Q84』で完璧に応用され成功に繋がってい る。そして、私は、すでにこの社会の中心の世代ではないのである。自分が年をとっていることを思い知らされた一瞬だった。村上春樹は常に現代社会の中心に ある問題を射抜く。その直観はやはり誤っていなかった。私が年をとり、社会の中心的位置から外れただけだ。この本が223万部も売れ、歴史的なベストセ ラーになった事も率直に喜ばしい。日本はまだまだ死んでいないという希望を持てる。日本人は生きている。この小説は単なる商品ではない。洋泉社のMOOK の書評にも書いたけれど、この本が爆発的に売れたという事実は、読むべき本のない日本の読者の悲鳴の叫びなのだ。商品ではなく、現代社会を分析解読して啓 示を与えている人文書である。村上春樹は進化していて、進化しつつ円熟している。『海辺のカフカ』では、高松の図書館で働く大島が現代思想を縦横に論じて ジェンダー主義を論破する抱腹絶倒の場面があった。村上春樹らしいなと思ったし、相変わらずよく勉強しているなと唸らされたが、今回はアリストテレスやイ エス・キリストや仏陀が前面に出る議論になっているではないか。流石だ。時代の思想の潮流を見ている。知識世界のメインストリームを外していない。村上春 樹が世界中のインテリの読者を魅了できるのは、この知識と能力があるからである。現在の大学の現代思想論の教室の講義のエッセンスを持ち込んでくれるから だ。

村上春樹は神 である。神にノーベル文学賞を与えよ。

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